第6話


 「————まだ、あいつを勧誘する事は、出来ていないのか?」

 「ごめんなさいねぇ。あのちびっ子、何度言っても聞く耳を持たないのよ」

 二人の男女が、話をしている部屋の入り口のプレートには《演劇部》と書かれている。

 さほど広くはない室内には、所狭しと台本や舞台関係のDVDなどが乱雑に置かれていた。

 そんな部屋の中央にある会議机に座った二人は、真剣な表情で向かい合って話を続けている。

 「〝全国中学校演劇コンクール 最優秀女優賞〟これほどの実力者が、なぜ我が部に入らないのだ」

 「さぁてねぇ、知らないわ。演劇に飽きてしまったんじゃない?」

 「・・・・・・」

  刈り上げられた後頭部をガリガリと掻き毟りながら、男は苛立っている様子だが、逆に女の方は余裕の笑みを浮かべ、自慢の大きな胸を寄せるように腕を組んでいた。

 「まぁ、私がいればぁ、男性ファンはいっぱい来るわよぉ」

 「動員数の話は今はしていないだろ。お前とあいつでは、まるでタイプが違う。あの容姿と演技力が、我が部に加われば、夏の大会優勝にまた一歩いや、二歩は進めると俺は踏んでいる」

 「フンッ」

 親指の爪を噛み、少しムッとした表情になる女を無視して男は話を続ける。

 「・・・・・・ここまで頼んでも、ダメなのか」

 何としてでも手に入れたい————。

 この願いを、どうにか叶えられないかと、男は頭を抱える。

 演劇部をもっともっと大きくするには、どうしても彼女の力が欲しい。

 「ふふふ」

 「ん、何だ」

 突然、女が不敵な笑みを浮かべているのに気が付き、男は目線だけそちらに動かした。

 「私に任せてくれない? ちょっといい考えがあるのよ」

 「いい考え、だと?」

 「えぇ」

 「・・・・・・」

 「大丈夫よ、信じて」

 「正面切っての交渉は、断られているのだろう?」

 「そうねぇ、正面切っては————ね」

 唇を不気味に歪ませながら、目の前でゆっくりと立ち上がった女は、ポケットからスマホを取り出して、どこかへ電話を掛け始めた。

 「・・・・・・」

 その姿を黙って見ていた男は、眉を顰めながら言葉を掛ける。

 「何をする気だ?」

 「んふふ、内緒よ」

 そう言ってウィンクを返してきた女は、スマホ片手に扉から部屋を出て行った。


 

 七月に入り気温がグングン上がったお昼休みの外は、まさに地獄だ。

 普段なら自分の教室で、友達とおしゃべりしているか、大好きな西山東輝に会いに行ってウザがられるといったように、この時間を過ごしている北野南だが、今日は昼食を取った後すぐに本校舎と特別棟に挟まれた中庭に出て来ていた。

 「うわっ、溶けるぅ」

 頭の上に降り注ぐ、レーザーのような直射日光を、片手で防ぎながらフラフラと進んでいると、中庭から見える体育館の入り口付近に、複数の生徒や先生達が、集まっているのが見えた。

 どうやら本日の放課後に、保護者会が行われるようで、その準備を今のうちにやっているらしい。いや全く、この暑さの中、本当にご苦労様ですと、南は心の中で労いの言葉を述べた。

 「うにゃ〜 暑いぃ。アイス食べたいぃ、ガ〜リガ〜リ〜く〜ん」

 汗が滲む小さな顔を手で扇ぎながら、木陰に設置されたベンチに座り鼻歌を口ずさんでいると、昇降口の方から見知った顔が走ってくるのが見えた。

 「————ハァハァ、ごめんね。ハァ、遅くなっちゃって」

 「本当ですよぉ、菜々さん! 私、少し溶けたせいで体が縮んで、小さくなっちゃってますよ!」

 「それは、元からじゃん」

 「なうっ! 酷いですよ!」

 「あっはははは。ごめんごめんって! ほらっ、冷たいミルクティー買ってきたから機嫌直して」

 「おぉ! 直しましたー 忘れましたぁー」

 強い太陽光が照りつける中、勢いよくゴクゴクと喉を鳴らす南の隣に腰を下ろしたのは、二年生の小松菜々。

 彼女とは幼稚園、小学校が一緒で、一つ年上だが昔から仲の良い友達だった。

 最近はあまり会えていなかったが、今日は久しぶりに話したい事があると呼び出されたので南は、この炎天下の中、外で待っていたのだが————。

 「ゴクゴク。でも、何でわざわざこんな暑い場所で? 他にも涼しい所ありますよ?」

 夏服に変わった制服のブラウスの胸元を、パタパタとしながら問い掛けると、小松は俯き気味に答えた。

 「あまり、他の人には聞かれたくなくてさ」

 「菜々さん?」

 その表情から何か大事な話だと悟った南は、姿勢を正して菜々の顔を覗き込む。

 「・・・・・・」

 「・・・・・・」

 しばらくの間は、お互いに無言が続き、木の葉を揺らす風の音と、薄っすら聞こえてくる生徒達の笑い声だけが二人の間に流れた。

 「南・・・・・・演劇部に入る気はないよね?」

 「えっ?」

 ベリーショートで背が高く、勝気な性格で、いつも〝男前〟と女子達から騒がれている小松菜奈が、恐る恐ると言った感じで、南の方に目線だけ動かしてきた。

 「あ、えっとぉ」

 そんな彼女には悪いのだが、正直に言って、このセリフには心底嫌な思い出しかない。

 ————また演劇部か。

 この学校に入ってから、何度も何度も演劇部の勧誘を受け、その度にお断りしているのだ。

 それはもう、耳にタコが出来るほど————。

 聞くだけで、吐き気がするほど————。

 それくらい〝あの人達〟がしつこかったのだ。

 ちなみに菜々も、南と一緒にこれまで小学生、中学生と演劇を続けており、この学校でも勿論演劇部に所属している。

 「ねぇ、どうなの?」

 「・・・・・・」

 これでも最初は、南も入学する前から演劇部に入ろうと考えていた。

 この学校の演劇部のレベルは高く全国大会の常連、自分も小学校の頃から演劇が好きで続けてきて、自慢じゃないが全国大会などでお芝居をしていたし、楽しいし、続けようと思っていたのだ。

 ————でも、あの人に会って私は変わった。

 心の中に、読書をする眼鏡姿の男子生徒を思い浮かべながら、菜々に笑みを向ける。

 「何度も誘われているのに、ごめんなさい。私は読書部に入っているし、これからも、やめるつもりはないです」

 「何で、読書部なの? 演劇嫌いになったわけじゃないんでしょ?」

 「それは勿論、好きですよ。お芝居するの」

 「だったら、入りなよ。演劇部なら南は、もっと活躍————」

 「好きな人がいるんで! 一緒にいたいんです!」

 一瞬の静寂が訪れる。菜々は目線を左右に動かして、そして下唇を噛んだ。

 「・・・・・・それだけの事で?」

 「それだけで、十分です!」

 「・・・・・・」

 「ごめんなさい」

 菜々には悪いが、きっとこの気持ちは分からないだろう。

 自分が西山東輝に、どれだけ救われたのか・・・・・・。

 好きな事よりも、本当に大切な人を見つけた人間の気持ちは。

 「・・・・・・」

 そんな思いを隠して、目一杯の笑顔を向ける南から、菜々は目を逸らしながら、木陰のベンチから立ち上がる。

 「分かったよ。南、ごめんね」

 「いえいえ! 平気でありますよぉ、菜々さん!」

 要件は済んだと思い、南も同じ様にベンチから立ち上がると、突然背後から声が聞こえてきた。

 「あらぁ、菜々。そんな簡単に諦めてもいいのかしらぁ?」

 いつの間にか、背後の木の陰から女子生徒が現れた。

 「うげっ、あなたは————」

 ゆるふわのロングヘアーは、この炎天下では非常に暑苦しいが、綺麗な顔立ちのせいかよく似合ってはいる。スタイルもとても良く、出るとこ出て、引っ込むとこは引っ込む、峰不●子のような女子だったが、学生のくせに第三ボタンまで胸元を開けているのは、どうかと思う。

 ————確か、この人は。

 「出ましたね。演劇部の副部長・・・・・・え〜と、海老マヨさん!」

 「え・び・は・ら! 海老原麻世よ! 〝原〟を飛ばさないの、ちびっ子!」

 毎度毎度、勧誘に来るのは、ほとんどこの人なので、さすがに名前を覚えてしまった。と思っていたが、間違って覚えていたようだ。

 「・・・・・・副部長」

 隣に立っていた菜々は、何故か酷く怯えた表情で海老原を見つめている。

 その足が一歩後ろに下がると同時に、目の前に立つ海老原が口を大きく開いた。

 「菜々。もし今回、北野南の勧誘に成功しなかったら、あなたは〝演劇部をクビになる〟そう言われたわよねぇ?」

 「・・・・・・」

 「はぁ? クビぃぃぃいい? 何ですか、それぇ!」

 いきなり発表された驚きの事実に、南は真偽を確かめようと菜々に詰め寄ったが、いつもの男前と言われている彼女からは想像できないほど、幼い少女のように怯えたその視点は、揺れ動き、口は硬く結ばれている、

 「くっ!」

 こうなれば副部長の方に! と思い南は、お色気ムンムンの女を睨みつける。

 「もぅ、そんな怖い顔をされても、私だけがぁ、決めた事じゃないのよぉ〜」

 「っていう事は」

 「そぅ。部長の豪田も、許可済みよ」

 「あの、ゴリラぁぁぁああ」

 演劇部部長の3年、豪田剛。

 この人物も、たまにだが、海老原と共に南の勧誘に来ていた。

 189センチもある身長と筋肉隆々の肉体のゴツさは、正しくゴリラ。そのくせ喋り出すと、真面目で偉そうだから面倒臭い。もっと日頃から「ウホウホ」と言ってれば可愛げもあるのだが。

 それよりも、今はこの女を何とかしなくては! と南は一歩前に出る。

 「とにかく! 幾ら何でも横暴でしょうがっ、一生徒の権限で、そんなこ————」

 「じゃあ、あなたがうちの部に入ってくれればぁ〜 全部丸く収まるわねぇ」

 「私が、丸く収まってないでしょうがぁぁあああ」

 中庭中に響き渡る南の絶叫に、海老原は両手で耳を塞ぐアクションをしていた。

 こんな悪を見逃す事は、絶対に出来ないと思い、南はさらに追撃する。

 「クビにするなんて、ぜっっったい! ダメです! 菜々さん、顧問の先生に言いつけ————」

 「残念だけどぉ〜 顧問の先生は、コッチの味方よ。前々から、菜々の演技力の低さを嘆いていたから〜 出来ればやめさせたいってぇ〜 ねぇ、菜々?」

 「・・・・・・」

 「そんな」

 小松菜々の演技力が低いなんて、小学生や中学生の時に一緒の演劇クラブで活動していた南には信じられない事だった。全国大会に出た時にも同じ舞台に立ったが、見事な芝居だったと思っていたのに。

 ————キーンコーンカーンコーン。

 そんな混乱の中、昼休み終了のチャイムが鳴り、グラウンドでサッカーをしている生徒や、校内でおしゃべりをしていた生徒達が一斉に動き出すのを見ると、海老原麻世は「じゃあね」と手を振りながら、二人に背中を向けて歩き始めてしまう。

 「ちょっ! 何とかならないんですか?」

 「あなたが、演劇部に入れば————」

 「それ以外で!」

 「もぅ、わがままねぇ〜」

 炎天下の中、このネチっこい話し方は非常にイライラするが、今は状況を打破しなければと耐える。

 「南、もういいから」

 「良くないですよ!」

 こんな事、許しちゃいけない。菜々は小学生の時から本当に演劇が好きなんだ。それをこんな形で邪魔されるなんて。

 どんどん弱々しくなる彼女を守る様に、さらに前に出た南。

 すると————。

 「じゃあ〜 〝勝負〟をしない?」

 「はぁ? 勝負?」

 その海老原の妖艶な微笑みを見て、南は背中に、何か冷たいものが走った気がした。

 ————何か、嫌な予感がする。





 授業が終わり、殆どの生徒が下校した校舎の中で、三人の女生徒がまだまだ昼間の熱気が残る、夕暮れの廊下に立っていた。

 いつもなら教室に居残っている生徒達の笑い声が、僅かながら聞こえるはずなのに、今は不気味なほど静まり返っていて、南の緊張を増長させている。

 「それで勝負というのは?」

 「ふふん」

 ————何だ、その「ふふん」って! 全然可愛くない! 私がやった方が百倍可愛い————あっ、今度、東輝先輩に試してみよう。

 そんなことを考えているなど、夢にも思っていないであろう海老原が、背後に隠していた一冊の本を南の前に掲げる。

 「何ですか? エロ本?」

 「違うわよ!」

 目の前で揺れる、A4サイズの青い表紙の本には、【ハッピーバースデイの悲劇】というタイトルが印刷されていた。

 何だろうと、食い入る様に本を見つめていると、海老原が鼻で小さく笑う声が聞こえる。

 「これはね、今度の夏の大会で使う演劇台本よ。ねぇ、菜々? あなたぁ、この台本もらった?」

 「えっ、いえ。もらっていませんが」

 相変わらず怯えた表情の菜々。普段の彼女とは、まるで様子が違いすぎて、南は戸惑ってしまいそうになる。

 「そうよね。あなたには、まだ渡していないわ。ねぇ、舞台に出たい?」

 「はい! それは、もちろんです!」

 前のめりになる後輩の肩を、海老原はソッと撫でていた。

 「ふ〜ん、そう————」

 くるりと回って背中を見せる、その仕草は、さすが舞台女優という感じだが、少しクド過ぎる気もする。

 まるで映画のワンシーンの様に、妖艶に一歩ずつ廊下を進んでいた海老原だったが、突然、南たちの方に振り向き、両手を広げた。

 「ならっ! あなたの台本を、あなた自身の力で見つけてみなさい! それが今回の勝負よ!」

 「は?」

 舞台上なら、ここで『ババンッ!』というBGMが入りそうなほどの迫力だった。

 ————さっすが、全国大会常連の演劇部で、副部長をやっているだけの事はあるなぁ・・・・・・って、そんな事はどうでもいいんだ。

 自分の頰をペチペチと叩き、集中力を戻す。

 「台本を探すって、どうゆう事ですか!」

 すると海老原が、ふと目線を上に向けたので、南もそれに釣られるように追いかけると、そこには【2ーB】と書かれたプレートがあった。

 「うちの、クラス?」

 釣られて見ていた菜々が、首を傾げている。

 「菜々さんのクラスなんですか? ここ」

 「うん」

 そんな会話を聞いていた海老原は腰に手を当て、その厚ぼったい唇で勝負の説明を始めた。

 「ルールは簡単よ。Bクラスの室内のどこかに隠した【ハッピーバースデイの悲劇】の台本を、完全下校時刻のチャイムが鳴り終わるまでに見つけ出せば、菜々は演劇部に残れるし、北野南は入部しなくていい————でも」

 勿体振る様に、無駄に間をおく海老原に苛立ち、その続きをこちらから続ける事にした。

 「見つけられなかったら、菜々さんはクビになり、私は強制的に入部ですか?」

 「う〜ん、いい子ねぇ。正解よぉ」

 ————このお色気ババァ。

 パチパチと拍手をする海老原に、心の中で毒を吐きつつ、南は自分のスマートホンで時刻を確認する。

 17時25分。

 残り30分ほどの間に、見つけ出さなければならないのか————。

 「さぁ、どうする? 南ちゃん。やる? やらない?」

 「・・・・・・」

 リスクが大き過ぎる、しかも自分には何のメリットも無い事は分かっているが。

 「やります! やってやりますよぉ! これで菜々さんを助けられるなら!」

 「南」

 小松は、南の肩に手を置いて心配そうな表情をしていた。確かに不安はあるが、こちらには〝秘密兵器〟がいる。

 「あの、助っ人を呼んでもいいですか?」

 「わっ! す、助っ人?」

 いきなりビシッと手を挙げた南に、さすがの海老原もビックリしていた。

 「はい! うちの読書部の先輩です!」

 ————東輝先輩がいれば、ニヒヒヒヒヒ。

 他力本願に思われるが、大切な友達を助けるためならば。悪の力だって借りてやるぞ————って、先輩は悪ではないか。と、心の中で謝る。

 「まぁ、いいわ。許可しましょう」

 「どうもぉ」

 ————ニヒヒ! バァカめ。

 満面の笑みを返し、目にも留まらぬ速度でスマホを操作した南は、連絡先から愛しの東輝の番号をタップした。

 ————プルルルル・・・・・・プルルルル・・・・・・。

 数回のコールののち、旦那様の低い声が、電話越しに聞こえてくる。

 《もしも————》

 「先輩! 助けてぇ〜 悪漢に追われているのぉ〜」

 《じゃ————》

 「あぁぁぁ、ごめんなさい! ごめんなさい! 冗談ですから! でも、助けて欲しいのは本当ですぅ! だから切らないで下さいよぉ!」

 まずいまずい、遊んでいると本当に切られかねない。と慌てて謝ると、向こうから小さな溜息が聞こえてきた。

 《助けて欲しいって、一体何やってんだ?》

 「実は、かくかくしかじかで————」

 南は出来るだけ詳しく、手短に今自分が置かれている状況を説明した。

 その間、東輝は電話を切ってしまったんじゃ無いかと思うほど、黙って聞いてくれている。

 「————という事で、先輩に助っ人をお願いしたくて!」

 《なるほど、理解はした・・・・・・でも、無理だ》

 「さっすが先輩ぃ! そうゆう優しい所も好きですよぉ————って! 今なんてっ?」

 信じがたい言葉を聞いた南の目は、今にも飛び出してしまいそうなほど見開かれていて、小松と海老原は少し引いていた。

 「なんで、なんで、なんで、なんで、なんでですかぁ!」

 《それが今、本田先生に頼まれた、資料整理を化学準備室でやってんだよ。だから終わるまで、行けそうにねぇんだ》

 「えぇー! と、とりあえず、その作業の手を一旦止めて、こっちを助けてくれませんかぁ! 解決したら私も手伝いますので!」

 《いや、この作業、完全下校時刻までにやらねぇとならないらしくてよ。どうやら今、体育館でやってる保護者会の親御さん達に渡すはずなのに、本田先生が忘れてたらしい》

 「すっぽかしましょうよぉ! 東輝先輩がやる義理はないでしょ!」

 《実は、この間うちの学校の図書室に置いてある、貸し出し禁止のレア物の推理小説を、本田先生が無理して貸してくれたんだよ、その恩があってよ》

 「くそぉ〜 こんな時にぃぃ。こんちきしょぉ」

 普段は殆ど顔を出さない読書部の顧問、本田ミヨ先生が、南の切り札を持って行ってしまったのは予想外だった。

 《それよりも、南。その勝負なんかおかしいぞ》

 「ほぇ? おかしい?」

 《・・・・・・》

 「先輩、どういう意味ですか?」

 《とにかく直ぐには行けねぇけど、なんとかする。お前はあんま無理すんなよ。じゃな」

 ————ブツッ! ツーツー。

 何とも気になる一言を残した東輝との電話は、一方的に終わりとなった。

 「そんな、そんなそんなぁ」

 唯一の希望が、泡となって手元から消えてしまった感覚に、南は頭を抱えた。

 「南、どうしたの、大丈夫?」

 「菜々さん。ご、ごめんなさい。私の旦那様は来られないです」

 「だ、旦那?」

 首を傾げつつ南を心配する菜々。そんな二人に向かってお色気ババァこと、海老原麻世は声を掛ける。

 「どうやら助っ人は来れないよぉねぇ。残念、残念」

 「い、いえ! まだ、遅れて来るかも」

 淡い期待だが、可能性は残しておきたかった。

 本当に淡く、吹けば消えそうな希望だが————。

 「遅れて来てもいいけどぉ、制限時間は、守ってもらうからねぇ〜 じゃあ、始めましょうか」

 ————神様、仏様、西山東輝様。お願いですから、急いで下さい!

 必死に願いつつ、気持ちを切り替えようと南は鼻息荒く、一歩を踏み出す。

 勝負の場になる、2ーBの扉の前に立つと、自分の心臓の音がやけに大きく聞こえる様になった。

 「さぁ、あと30秒で勝負開始よぉ。最後に聞きたい事はあるぅ? 始まったら質問には答えられないからねぇ」

 余裕ぶったその態度に、南のやる気メーターは一気に上がり、さっきまでの絶望オーラを完全に消し飛ばした。

 「ちゃんと、Bクラスに隠しているんですね? 嘘じゃないですね?」

 「えぇ、安心して。私はちゃんと〝フェア〟に勝負するわぁ」

 「・・・・・・」

 どうにも胡散臭くて堪らないが、今はそんな事よりも、目の前にある《2ーB》のクラスプレートを南は見つめて、覚悟を決める。




 「これは」

 「な、何ですか? この教室は」

 クマ、キリン、ウサギ、イヌ、ネコ。開かれた教室の中には、様々な動物たちが南達を出迎えてくれていた。

 もちろん本物ではなく教室内に並べられた机に、一種類ずつ手のひらサイズのぬいぐるみが、まるで授業を受けるかのように置かれているだけだが。

 「ちょっと、これやったのは海老原さんですよね?」

 入り口の扉に寄りかかりながら、海老原はニッコリと笑っている。

 「これは、何か意味があるんですか?」

 「・・・・・・」

 その質問には答えられないと言わんばかりに、頭を横に傾けて知らん顔をしていた。

 熱気のせいでサウナ状態の教室内で、南と菜々は持っていたハンカチで汗を拭いながら、辺りを見渡す。

 「クッソ〜」

 「南、このぬいぐるみは、前の公演で演劇部が使っていた物だよ。どうゆう意図があるのかは分からないけど、全く関係が無いとは思えない」

 「そうですね」

 一番前の席に、ちょこんと座っていたサルのぬいぐるみを手に取って観察してみたが、別に変わった所はなさそうだ。

 一応、台本をぬいぐるみの中に隠したのではないか? と疑い、変な切れ目なども探してみたが見つからない。そもそも、並べられたぬいぐるみ達は、ポーズや形に若干の違いはあるが、みんな十センチ〜十五センチくらいの大きさなので、台本が隠せるわけがないのだが。

 「う〜ん、とりあえず机の中とかロッカーとか、隠せそうな場所を調べていきましょう」

 「分かった。南、迷惑かけてごめんね」

 「いいえ! 友達が困ってるのに見過ごすなんて、南ちゃんの正義が許しませんよ!」

 「・・・・・・」

 菜々を励ますように、自分より背の高い肩をポンポンと叩くと、その仕草に少し笑顔を見せてくれた。

 「あんたは、昔からそうだったよね。本当に強い子で・・・・・・ありがとう、頑張ろう」

 「はい!」

 そんな二人の様子を伺っていた海老原は、口元に手を持っていき笑いを必死に堪えていた。




 教室前方の黒板の上に設置された時計の針の音が、やけに耳に残る。

 「やばいよ。南」

 「うううううう」

 ————まずい、全然見つからない。

 タイムリミットまで残り十五分。しかし台本は一向に見つかっていない。

 教室中のありとあらゆる場所、蛍光灯の中や窓の外の壁、貼られたポスターの裏など探せる所は全部探したはずなのに。

 このままでは、本当に演劇部に入部する事になってしまう。それは非常にまずい。と焦った南は、離れた場所で二人を観察している海老原に近付いていく。

 ————背に腹は変えられない。東輝先輩との愛の時間を守るため。

 「お願いですぅ〜 海老原せんぱ〜い。何か、ヒントを下さいな〜」

 「・・・・・・」

 南の渾身の甘えボイスは、無視された。

 一瞬の静寂の後、ゆっくりと海老原に背を向けながら、小さく呟いてやる。

 「ケチだな・・・・・・この、エセ不二子」

 「峰不●子よ! ・・・・・・ちゃう! 私は海老原麻世よっ! 全く、勝負が始まったら、質問には答えられないって言ったでしょ!」

 「かっああああー。ケチだなー。本当にケチィ! この大阪のおばちゃん! ほらっ、飴よこせよぉー」

 「大阪のおばちゃん、ちゃうわ! このあほんだらぁ!」

 大声で唾を飛ばしながら、その細くて長い足を貧乏揺すりして、海老原はそっぽを向いてしまった。

 「ぐぅ!」

 悔しいが、これで完全にお手上げ状態だ。もう菜々も南も、探す気力はおろか、考える頭も無くなっている。

 そんな二人の様子を見て、少し落ち着いた海老原は、笑いを堪えるように口元を抑えて、臭い台詞回しを始めた。

 「さぁさぁ、もう終わりかしらぁ〜 情けないわねぇ、北野南。でもこれで、あなたは我が演劇部の一員よぉ〜 おめでとう」

 「ぬぬぬぬ」

 教室の時計を見ると、タイムリミットまで十分を切ってしまっていた。

 「東輝先輩、助けて」

 ————届くわけないのは分かっているが、求めてしまう。

 ————私のヒーローを、名探偵を。

 「おっほほほほほほ」

 「くぅぅうううううう」

 「南」

 ————ガラガラッ。

 愛しの旦那様(自称)の顔を思い浮かべて、お別れの挨拶を心の中で唱えていた南の耳に、突然ドアを開閉する音が飛び込んできた。

 「ハァハァ・・・・・・ハァ」

 菜々と海老原が教室にいきなり入ってきた、男子生徒にビックリしている中、南には、その人物が希望の光に見え、嬉しくて涙が出そうになった。

 「ハァハァ、南。台本は見つけたか? ハァハァ」

 息を切らせて、眼鏡を外し汗を拭う西山東輝に、南は思わず飛び込んでいった。







 全力で走って来て汗だくの体に、さらに暑苦しい奴が引っ付いて来て、西山東輝は、それを引き剥がすのに、また汗を流すことになってしまった。

 「ちゃんと来たんだから、離れろよ」

 「ふぇ〜ん! せんぱぁ〜い」

 ————ガ、ガチ泣きしてる。

 彼女の赤く染まった頬には、いくつもの光の筋が流れている。不謹慎だが、北野南くらいの容姿にもなると、まるで映画のワンシーンのような美しさがあった。

 チラッと、2ーB内にいた他の二人を見ると困惑した表情を浮かべており、何だか自分が泣かした気分になってくる。

 「うっ、うっ・・・・・・先輩、ぐす! 本田先生に頼まれた仕事は?」

 「あー、終わりにしてきた」

 ————というのは嘘で、本当はまだ作業は終わっていないのだが、本田先生に頼んで抜け出させてもらった。

 『すんません、ちょっと出てきてもいいっすか————』

 『はぁ?』

 この時、先生には、めちゃくちゃ嫌な顔をされたが、南がピンチかもという理由を話すと、何故かニヤリと笑って背中を叩かれた。

 『行ってこい。んで、お前のお姫様を早く助けて連れ帰ってこい』

 『誰が、姫様っすか! い、行ってきます』

 化学準備室から飛び出す前に、背中に掛けられたその言葉と共に東輝は、ここまで全力疾走したのだ。

 「うううう、良かったぁ〜。先輩、私が演劇部に取られてもいいのかと思ったぁ〜」

 「まぁ、別に取られてもいいけどな」

 「ふえっ!」

 その発言にビックリして、また泣き出しそうな南の頭に手をポンッと置きながら、東輝は演劇部副部長の海老原を睨みつけた。

 「それが南が自分で決めて、納得できる選択ならよ————」

 「先輩」

 今の東輝は自分でも困惑するくらい、何だか無性に腹が立っていた。

 目の前で流す彼女の涙を見たら、その感情がどんどん強くなる感じがする————いやいや、待て。落ち着け。

 「ふぅ」

 こんな事じゃ、冷静な判断が出来ないと思い直し、頭を冷やすために深呼吸をしつつ、東輝は南に今の状況の説明を求める事にした。




 「————という感じです。どうしましょう?」

 「なるほどな、状況は大体理解した」

 説明を終える頃には、落ち着いたようで、いつも通りの南に戻っていた。

 そうして二年生で演劇部の小松菜々とも、お互いに挨拶をして、さぁ謎解きだ————と思った矢先に海老原から「残り五分よぉ〜」という言葉が飛んでくる。

 そう言われて、教室の窓から見える空に目を移すと、オレンジ色の夕焼けに黒いカーテンが、薄く掛かり始めているのに気が付いた。

 「あぁぁぁぁ! やばいやばいですよぉ〜」

 頭を抱え、その場で無駄に回転している南の肩を抑えて、やめさせる。

 「落ち着けって、確認させろ。お前達が探した限り、この教室には無かったんだな?」

 東輝の質問に二人は、同時に頷く。

 「そっか。ここに置かれている人形は、全て調べたのか?」

 中央付近の机の上にあった、サイのぬいぐるみを手に取ってみる。

 「はい、全部見ましたけど、これと言って変わった所はぁ」

 「そうだね。普通の人形だった」

 裏返したり、振ってみたり、匂いを嗅いでみたりしたが、二人の言う通り、何の変哲も無いようだった。

 ————意味があんのか? これ。

 さらにサッと、教室中を回った東輝だが、ここも二人の言う通り、特に怪しい所は無さそうだった。

 ある程度の確認作業を終えた東輝は、黒板前に設置された教卓に背中を預け、顎に手を当てる。

 「この教室にあるのは、間違いねぇんだよな」

 「はい。間違いなく隠したって、あの海老マヨさんが」

 「海老原よっ!」

 「東輝先輩」

 遠くから吠える副部長に聞こえないように、南は東輝の耳に口を近付けてきた。

 「でもあいつ、信用できないですよ。なんだか常に演技しているような嘘臭さがあるんです」

 「・・・・・・嘘・・・・・・演技か」

 実は一連の流れを聞いていた時に、一つだけ不自然に思う事があったのだが、もしかすると————。

 「南、ここに入る直前の海老原のセリフと動きって、再現出来るか?」

 「はい? セリフと動きですか? それ、何の意味が?」

 「いいから、時間がねぇんだから」

 「あっ、はいはい。えっと————」

 南は、制服のブラウスのボタンをわざわざ三つ開け、目の前でお色気ムンムンの芝居を見せてくれた。

 目のやり場に困るから、そこまでする必要は無いのだが。

 「・・・・・・」

 そんな彼女が全身を使って表現する一連の流れを見て、東輝は〝ある事〟に気付く事が出来た。

 そして、全ての辻褄が頭の中で繋がった時、どうしようもない感情が自分の胸に押し寄せてくる。

 「ハァハァ————どうですか? 先輩」

 「・・・・・・」

 「んっ?」

 「・・・・・・ざけんな」

 小さく呟いた東輝の言葉は、誰にも届くことはなく、薄暗くなり始めた2ーBの室内に静かに溶け込んでいく。

 そんな先輩の、いつもと違った様子に南は、一早く気が付いたようだった。

 「先輩、どうしま————」

 「結論が出たぞ」

 「えっ」

 心配する言葉を遮る様に、教室入り口で余裕ぶっている海老原の方へ振り向くと、東輝は言い放った。

 「台本の隠し場所が、分かった」




 ————キーンコーンカーンコーン。

 完全下校時刻のチャイムが鳴り出す直前、西山東輝が指を差す黒板の前に設置された教卓の上には、青い表紙に黒い文字で【ハッピーバースデイの悲劇】と書かれた台本が〝堂々と〟置かれていた。

 「嘘」

 「あ、ありました! ありましたよぉー 先輩!」

 「・・・・・・」

 小さい体をピョンピョンさせて、喜びを全身で表す北野南を横目に、小松菜々は驚いていた。

 僅か、十分。

 たったそれだけの時間の間に、南が呼んだ助っ人は、この勝負を制した。

 「ど、どうして。分かったの?」

 ずっと高みの見物だった海老原麻世の余裕の表情は、一気に消え去り、今は悔しさを滲み出したように歯を食いしばっている。

 「そうですよ、東輝先輩! 何で〝3ーB〟の教室だって分かったんですか?」

 「簡単で、単純な事だ————この勝負は全て、芝居だったから」

 「し、芝居ですか?」

 南に対して小さく頷くと、自分の足元を指差しながら西山東輝は説明を始めた。

 「海老原は、今回のルール説明の時、台本をどこへ隠したと言ってた?」

 「えっと、2ーBに台本を隠したって」

 「違うだろ。正しくは〝Bクラスの中のどこかに隠した【ハッピーバースデイの悲劇】の台本を探し出せ〟だろ。一回も〝2ーB〟とは海老原は、口に出してねぇ」

 「へっ」

 そうだったったけ? という表情で首を傾げる南から、西山は動揺する海老原の前に移動して対面する場所に立った。

 「さすがは、演劇部副部長だな。ただの目線の動きだけで《2ーBにある》と南に思わせるんだからな」

 「くっ」

 「えっ! マジですか!」

 まるで、一緒に見てきたかのような発言だった。

 確かに教室扉前のクラスプレートを見る仕草だけで、南は完全に騙されていたと思う。

 「だから教室内に入った時に、質問を許さなかったんですねぇ、〝本当に2ーBにあるのか?〟と言われればアウトですし————あれ? でも下の階には〝1ーB〟もありますよ?」

 そういえばそうだ。なぜこの人は一発で〝3ーB〟と分かったのだろう。

 ただのヤマ勘か。と南の隣にいた小松も不思議に思った。

 すると目の前の海老原に、鋭い視線を向け、西山は口を開く。

 「勝負が始まる直前、こいつが言ったんだろ? 〝フェアな勝負をする〟って、それが真実なら、目線の動きにも嘘が無いんじゃないかと思ったんだ」

 「はっ! た、確か————目線を上に・・・・・・あぁぁ! まさかクラスプレートじゃなくて! ちょうど〝上の階の教室を見た〟って事ですか?」

 驚きの声を上げる南に頷くと西山は、やっと海老原の前から離れる。すると彼の背中を見つめる演劇部副部長の握られた拳が、小さくだがプルプルと震えているのが見えた。

 ちなみに、2ーBに置かれていた動物の人形は、ただのフェイクで、南を混乱させるための物だったのだろうと西山は補足説明してくれた。

 「なぁぁ、私ってバカだー こんな単純な事だったなんてぇ〜」

 こうして、勝負は終了。

 北野南は無事に強制入部を避け、小松菜々は退部を免れる。

 そう思っていたら西山が「ただ」と言葉を続けた。

 「今回の勝負の芝居には、海老原以外に〝もう一人〟役者がいた」

 「へっ、東輝先輩?」

 「そうだよな?」

 「・・・・・・」

 その眼鏡の奥の鋭い目線の先にいる私、小松菜々は驚きのあまり口をパクパクするだけで、声が出なかった。




 「もう一人の役者? どういう事ですか?」

 「どうもこうも、最初からおかしいんだよ」

 東輝の言葉に理解が追いつかない南が、隣の菜々を見ると彼女は目を反らしてしまった。

 「俺は普段の彼女のことは知らねぇが、男勝りで勝気。こんな風に弱気な態度になってるのは、おかしかったんだろ?」

 「えっ、いや〜だってそれは、演劇部をクビに————」

 「それだよ」

 南の発言に反応した東輝は、いつにも増して鋭い視線で、右手の人差し指をビシッと菜々に向けた。

 「何で素直にそれを受け止めてんだ? 幾ら何でも無理があり過ぎるだろ。何の問題も起こしていない生徒をやめさせるなんて。ただ技術がないからって理由が通るなら、この学校で初めて運動部に入部した生徒は、ほとんどクビになってる」

 小学生の時に南と同じ全国演劇コンクールで、一緒に芝居をしていた小松菜々の実力は、明らかに初心者レベルでは無いはず。「演技力の低さが」と海老原が言った時、南も確かに、その点は気になってはいたが。

 しばらくの間、静まり返った教室内で、二人の読書部の間に無言で立ち尽くしていた。

 そんな二人の視線を一身に浴びながら小松菜々は、ようやく口を開く。

 「・・・・・・ごめん、南」

 「菜々さん、本当なんですか? クビになるって言うのは、嘘だったんですか?」

 「くっ」

 南と距離を取りながら、菜々は吐き捨てるように言葉を発した。

 「だって、どうしても、役が欲しかったの!」

 「役が、欲しい?」

 「そう! あんたを演劇部に入部させる事ができたら————」

 突然、教卓の前に移動した菜々は【ハッピーバースデイの悲劇】の台本を手に取り、抱きしめた。

 「ハァハァハァ」

 「菜々さん」

 菜々の手が微かに震えているのを、南は見逃さなかった。

 そして、昔からの友達のそんな姿は、ひどく痛々しくて目を逸らしたくなる。

 「この台本の役を私にやらせてくれるって、副部長との約束だったの!」

 「・・・・・・」

 「南を騙したのは悪いと思ってる。でも仕方ないじゃん、この学校の演劇部のレベルが高いのは、あんたも知ってるでしょ?」

 「・・・・・・」

 確かに、全国常連のうちの演劇部の実力は、海老原副部長も含め、かなり高い。

 その中で役を手に入れるのは、本当に凄く大変な事だろう・・・・・・。

 それは、知っている。

 「何としてでも役を手に入れて、大会に出場して、私の実力をみんなに知ってもらうのよ! 本番の舞台の上でしか、私の本当の芝居は見れないから! だから————」

 彼女の独白は、校舎内に響き渡るほどの熱さを持っていた。

 大好きな事に必死になる、その姿は凄く美しいし、素晴らしいと思う————けど。

 「いいんじゃねぇか?」

 先程から腕を組んで黙って窓の外を眺めていた東輝が、背中を向けたまま菜々に声を掛けた。

 もう夕陽の光もすっかり無くなってしまい、彼の表情をここから伺うことは出来ないが、何だか様子が————。

 「どんなことをしても役を手に入れる。その覚悟は間違っちゃいねぇし、大好きな事なら、それくらいでなければダメだとも思う」

 「・・・・・・」

 「でもな」

 南は驚いていた。振り返りコチラに向かって歩いてくる西山東輝の顔が、今まで見たことのない表情をしていた事に。

 「うちの後輩部員に、こんな顔をさせるお前を、俺は絶対に許さねぇけどな」

 「え、東輝先輩?」

 「お前らは、南の優しさにつけ込んだ。友達がピンチだと思ったら、直ぐにでも助けに行く————コイツのバカ程、純粋な優しさに」

 この時、初めて自分が、涙を零していることに気付いた。

 悲しいのか、悔しいのか、怒っているのか、よく分からない感情が、グチャグチャになって体内から溢れ出しているようで止まらなかった。

 「・・・・・・心を、踏みにじるようなマネしやがって」

 東輝が小さく呟いたその言葉に、小松菜々は酷く動揺して、その場に腰を落とした。

 「はぁはぁ」

 「・・・・・・」

 その姿を黙って見つめた後、「帰るぞ」と促してくれた東輝と共に、教室の扉まで歩いて行くと、壁際に海老原が佇んでいた。

 先程までの覇気は全く失われ、今は読書部二人を睨みつける事しか出来ないようだ。

 「おい、海老原」

 そんな彼女の横を通り過ぎる直前、東輝はそっと忠告する。

 「豪田に言っとけ。うちの部員に、ちょっかい出すなって」

 ————ガラガラ・・・・・・バタン。




 二人の読書部が消え去った3ーBの中で、海老原麻世は震えていた。

 こんな屈辱を与えられたのは生まれて初めてだと、その悔しさだけで、頭が沸騰しそうだった。

 その熱を冷ますように、長くふんわりとした自慢の黒髪をかき上げ、二人が出て行った扉へと振り向く。

 「読書部の西山東輝・・・・・・覚えていなさいよ」



 

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