第9話 見なかったフリ、大事。

 時間差で娘のことをも迎えに行き、とりあえず夫のところからお盆を下げようと顔を出す。

 すると、これまで布団で横になっているのがデフォだった夫が、なんとひとりがけの椅子(ローソファーだけど)に座っていた。


「お、座れるようになったん? 熱どうよ」

「今はかってるとこ……お、鳴った」


 真新しい体温計がピピピと仕事を終えたと主張する。見ると……、


「うそでしょ、37.6!? 一気に下がったじゃん」

「ねー。熱ないから多少楽になった感じするけど、まだ変な感じあるよ」


 なんというか、だるさはそのままなんだけど、身体が軽くなってふわふわしているみたいな妙な感覚らしい。えぇ……? なんか逆に、死ぬ間際のお花畑現象的なもの起きてない? 大丈夫? 生きてる?


「じゃあ症状はあとどんな感じよ」

「うーん……? まぁ、喉はめちゃくちゃ痛いよね。頭も多少痛いよね。関節痛とか普通にあるよね。でもふわふわしてるよね」

「ふわふわしてても痛みを感じられるうちは死なないから大丈夫か。よかった、回復傾向だね」


 とはいえ全然つらいみたいだけども。一度トイレに向かい、その後は再び布団の住人となっていた。


 わたしも子供たちのランドセルから洗い物を洗濯機に放り込み、ついでに子供たちの靴下も引っぺがし(一日上靴か上履きに収まっていた子供の足、殺人級にくっっっさ!)洗濯機を回して、干してあるぶんを取り込み。

 洗濯物が洗い終わるまでにご飯食べつつ休憩しようと、スーパーで買ってきた惣菜パンを片手に、ノートPCを開く。


「あ、わたしったら市役所のワクチン接種ページを開いたまんまにしちゃったのね」


 どんだけ急いで医者に行ったのよと思いつつ、画面を閉じようとしたけれども。


「……ん? これ、四日目の接種、かかりつけ耳鼻科に12月24日って書いてある、よね?」


 夫の接種記録のページなのだが、確かに一番上の欄に【4回目 2022年12月24日 ○○耳鼻科 ファイザー】みたいに書いてあるのよ。


 問題はね、その12月24日の日付の欄の横にね、【(予定)】って文字が書かれていたこと。


 家を出るときは急いでいたし、子供もわたしも4回接種しているから、夫も間違いなく4回接種していると思い込んでいたけれど……。


「実は4回目は予約を取っただけで、当日打ちに行くのをすっかり忘れて、予約のままになってしまっていたということか――!!」


 今頃になって明らかになった事実にくら~っとしてくる。夫氏、3回しか打ってないじゃん!


「あぁぁ~……そういえば仕事が忙しい時期でもあったんだよなぁ、年末あたり。普通に正月休みも一日二日、会社に顔を出していたくらいで」


 ちょうどこの頃はコロナの波も落ち着いていて、もうこのまま終息するかもね? 的な雰囲気も微妙に感じ取れていた時期だったから(そのあと2月に第8派とかきてたし、現在も第9派がすぐそこまできてるっぽいけど)、わたしもそこまで口を酸っぱくして言わなかったんだわ。


 なにより3回目を接種したあとの副反応もひどかったし。夫婦ともに発熱、寒気、関節痛、腕の痛み、とあったけれど、夫はそれに加えて股関節あたりの調子がおかしくなった。

 妙なところで力が入らなかったり、力が勝手に抜けてたり。肉体労働の仕事をしているから、かなり不便ですごく大変だったみたい。だいたい一ヶ月くらい不調は続いたのよ。


 そんなこともあったから本人があまり接種に前向きではなく、当時の落ち着いた状況もあって、とりあえずわたしが予約だけ取って、あとは本人に任せる~って感じにしちゃったんだわ。

 そしてわたしも夫も、いざ当日になったら、接種のことをすっかり忘れていた可能性がある……。


 かかりつけ耳鼻科の先生たちにも、貴重なワクチンを無駄にしていていたことも、諸々申し訳ない……。


「なにより4回接種してるって申告しちゃったよ、かかりつけ内科に。本当は予約だったのに、すっかり打ったことにしちゃったよ」


 やっちまったなぁ……。


 ……ま、夫のことだから3回も4回も変わらんべ。


 自分のことだったら「4回打っていないけど大丈夫かなぁああ」って泣き言オンリーになるけど、ま、カロナール一回飲んだだけですぐ解熱する夫なら大丈夫だべ。うん。


 そう思って接種ページは静かに閉じることにした。

 人間、見なかったことにする能力も、生きるためには必要である。

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