無惨護聖

 祖父は拳法の達人でした。十六の頃に田舎道場の門を叩いて以来、遍く強敵を悉く打ち倒し、その勇名は世間に響き渡り、道場は近隣の小学校の敷地よりも広くなっていました。


 祖父は攻めに秀でていたと思われがちですが、最も優れていたのは防御力です。単に身体が頑強ということではなく、相手の攻撃を全く喰らうことがありませんでした。もちろん、この技術にもタネがあります。


 ところで、あなたは「殺気」を感じたことはありますか?私はありません。オカルトとは無縁の人生ですし、そんな物騒な場所にいたことはありませんから。しかし私の祖父は、殺気を読むことができたのです。相手から発せられる殺気をより具現化して見ることで、次の手を予測しました。この異能のおかげで、敗北を喫したのは生涯でただの三度だけでした。


 また便利なことに、「殺気」は全方位から自在に読み取ることができました。ある門下生が祖父の背後から丸めた新聞紙で叩こうとしたとき、後ろを見ずに横へ滑るようにして避けたという逸話があります。


 そんな次第でしたから、祖父は「護聖」とまで呼ばれたものの、誰一人としてこの技術を受け継ぐことはできませんでした。ただ、私はそれで良かったと思っています。なぜなら、殺気を読み取る能力は意識して遣うものではなく、自然と発動しているからです。便利に思えるかもしれないし、実際そうかもしれませんが、私は欲しいとも思いません……これについては、祖父の末路を話すのが手っ取り早いでしょう。


 祖父は守りに秀でた拳法家でしたが、老いには勝てませんでした。九十四を迎えてからは家に引きこもりました。それから三年ぐらいは至って尋常な日常を送っていたものの、次第に様子がおかしくなってきたのです。どこにいても目が金魚のように泳いで、よく床に汗を降らせるようになり、何かに怯えているような顔つきになりました。また、台所には近寄らず、自室で食事を取るようになり、「ワウ」という愛犬の散歩を人に任せるようになりました。


「病気じゃないかね」


 夕餉のとき、父が面倒そうに言っていましたのを覚えています。しかし、祖父は至って健康体で、私とよく遊んだことも覚えています。祖父が亡くなったのは、引きこもってから六年目のことでした。ちょうど私は沖縄へ修学旅行に行っていて、臨終に立ち会うことはできなかったのです。でも、祖父の変貌がどんな理由だったか、私は知っています。彼と最後に話したとき、こんなことを言っていました。


「護聖だなんだと讃えられても、老いたら終わりだよ。もう用済みなんだから、まともに活動できない拳法家なんか。だから、二人への恨みは小さい……だが、ワウは、ワウだけは!子犬の頃に拾ってやって、餌も毎日与えているのに、恩を仇で返すつもりか!ああ、あの二人にしたってそうだ!今まで誰のおかげで贅沢な暮らしが出来たと思っているんだ!恩を返さず、それどころか俺に……もう、嫌になったよ。なあ、道場に、道場に帰してくれ。もう、家に居たくない……」

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