第二十四話 日中戦争(5)和平交渉決裂と戦時体制の構築

 中華派遣軍が南京攻略へと歩み出す中、上海攻略の報告を受けた日本政府は国際連盟加盟国と協力して和平工作を開始した。


 宣戦布告後に発表された第一次町田声明では、『我が国は中国国民党及び共産党の解体と中国大陸における新政権の樹立を目指し行動する』といった強烈な内容が含まれており、本来であれば和平工作を行うには時期尚早であった。


 しかし、国際関係にそれなりの影響力を持つ国際連盟から可能な限り穏便に戦争を停戦させるよう要請されており、常任理事国として連盟に貢献してきた日本政府は一度和平交渉を行うと決定したのである。


 1937年9月27日、宇垣一成うがきかずなり外務大臣は、ロバート・クレイギー英国駐日大使に対し『』と呼ばれる和平条件を提示し、日中和平の仲介を依頼した。本戦争において日本側についていた英本国政府はこの依頼を快諾、南京駐在英国大使のヒュー・ナッチブル=ヒューゲッセンが主導する形で和平交渉が進められることとなった。


 宇垣ノートに記された和平条件は、以下の十項目によって構成されていた。


『中華民国は、満州王国をする。

 中華民国は、を放棄、防共政策を確立し国際連盟の防共政策に協力する。

 満中国境地域にを設ける。

 満中国境地帯及び華北地域は、中華民国主権の下において、日満中三国の共存共栄を実現するに適当な機構を設置し、これに必要な権限を与え三国経済の発展を促進する。

 日中満三国間に緊密な経済協定を締結する。

 中華民国は、日満二国に対して所要な賠償をする。

 中華民国は、上海市内における一連の誤爆事件及び国際連盟加盟国要人の殺害の責任を取り、各国への賠償として上海租界の拡大を容認し、上海地域をさせる。

 日満中三国は、資源開発・関税・交易・航空・通信に関し協定を締結する。

 中華民国は、日満両軍占領地域での行政機能引き継ぎまでの間、両軍によるする

 中華民国は、本戦争における戦争犯罪人を速やかに引き渡す。』


 クレイギーは、宣戦布告を叩きつけ戦時体制に急速に移行しようとしている日本が出す講和条件としては生優しすぎると感じ、宇垣外相がなぜこの条件を提示したのか不思議で仕方がなかった。


 だが、連盟と中華民国の双方が納得できる絶妙な条件だとは思っていたので、本国政府の了承を得てヒューゲッセンが王寵恵おうちょうけい外交部長に日本政府の意向と宇垣ノートの内容を伝達した。


 王寵恵は、蒋介石しょうかいせきの意見として、「日満側が事変前の状態に復帰しない限り、どんな要求も受諾できない」とだけ返答した。


 10月6日、ヒューゲッセンは、直接蒋介石に日本側の意向を伝えた。蒋介石は、「もし自分がこの条件を受諾したら、我が政府は世論の大浪に押し流されてしまうだろう。日本のやり方で我が政府が倒されれば、共産主義政権が誕生するだろうが、その結果は日本にとって和平の機会の消滅である。共産主義者は決して降伏しないだろうからである」と述べた。


 その後、中華民国政府は、ヒューゲッセンに対し政府としての和平解決条件を提示した。その条件とは、日満両軍の駐屯を可能な限り制限し、上海情勢を事変前に完全に戻すならば、残りの和平条件を原則として受け入れるというものであった。


 ただし、この和平解決条件は政府が暫定的に決定したものであり、蒋介石自身は国際連盟で現在行われている会議や政府が行なっているソ連のの回答を待ってから正式な交渉に移るべきと考えていた。


 南京陥落が差し迫る10月11日、蒋介石は南京を放棄するか、死守するかを協議した。過半数以上の参加者が、戦術上に防衛が困難であり無用な犠牲を出しうる南京死守に反対していたが、政府が首都から逃亡したという事実が国民に与える影響を考え、南京死守を訴える唐生智とうせいち上将をに任命、の方針を決定した。


 この決定時の中華民国政府は、南京周辺に展開するすべての部隊を可能な限り動員し遅滞戦術を行うことを計画しており、南京攻防戦の開始は翌年に遅らせられるのでは無いかと予想していた。


 しかし、ソ連の対日参戦交渉が完全に決裂し、国際連盟総会は中華民国の訴えを退け、日本側の条件に従い講和条約を締結するよう決議、国際外交上も不利になった中華民国政府は、の二択を迫られることとなった。また、10月18日に蘇州、25日に無錫、27日に常州が陥落と、中華派遣軍は両国政府の予想を凌駕する形で進軍を続けていた。


 判断を迫られた蒋介石は、南京固守の方針を維持した上で重慶への首都遷都を決定、日本政府への明確な回答自体は避けたものの、事実上和平を放棄した。


 しかし、中華民国政府及び中国国民党内では和平を唱えるものが多数派であり、蒋介石の独善的な決定に対する反発を呼ぶこととなった。


 一方、和平を持ちかけていた日本政府としては、正直この要求を中華民国政府と中国共産党が受け入れるわけがないだろうと考えており、宣戦布告後から開始していた準戦時体制への移行を粛々と進めていた。


 ここで、日中戦争開戦以後の戦時体制構築への動きを見ておきたいと思う。


 宣戦布告翌日に帝国議会が勅令によって臨時で招集され、多数の戦時法案が国民の世論を背景に強硬に可決された。


 まず、四カ年計画中に決定されたが正式に行われた。今回改正された兵役法は、1950年ごろまでの運用を想定されており、従来より選抜基準が強化されたという形で徴兵は維持されるものの、志願制へ中心とする体制へ徐々に移行していくこととなった。


 また、志願兵の基準が一部緩和され、今まで戦傷や視力を始めとする障害などの問題で入隊が認められていなかった人々が、その能力を活かせる業務に限って採用されることとなった。


 これは、戦争の高度化に伴い一つの業務に専門で取り組む者が必要となったことや、医療の進歩により障害があっても兵士として働くことが可能となったことを根拠に改正され、実際様々な戦場で多種多様な活躍を見せていくこととなる。


 他には、兵役法の範囲が台湾及び南洋諸島にも拡大され、台湾自治拡大運動に始まるいわゆるは、この法改正によってさらに進むこととなる。


 それ以上に大きな変更点として、されたことが挙げられる。当分は、志願兵の運用で様子を見ることにはなるが、女性が日本軍の兵士として採用されるというのは日本軍の歴史上最も大きな変化と言っていいだろう。


 何故、町田忠治まちだちゅうじ内閣はこのタイミングで女性兵士の採用に踏み切ったのか。それは、婦人参政権を巡り権利と義務に関する問題が発生し、兵役の義務を女性が果たす必要が出たからである。


 1931年ごろに婦人参政権を条件付きで認める法案が衆議院を通過するなど、婦人参政権容認への動きは衰えることを知らず、昭和デモクラシーの中で様々な改革がなされたことを背景に、多くの女性運動家が婦人参政権獲得の為に精力的に運動を起こしていた。


 これを受け、町田内閣では婦人参政権を容認する方向で調整を進めており、1931年の法案を巡り否決に回った貴族院議員の説得を急いでいた。


 しかし、貴族院議員の説得は非常に難航した。婦人参政権に反対する多くの議員は、民法においても女性に人権が存在していないのに、参政権を認めるなど言語道断と主張、もし参政権を認めるなら何らかの形で女性が明確に国家に貢献しなければならないと条件をつけた。


 というのは、大日本帝国憲法に記されている二つの義務納税・兵役を行うことを指しており、日本人女性は兵役の義務を果たしていなかった。


 そこで内閣は、徴兵制度の改革によって人材不足に悩む国防省を説得、最初は国内の後方部隊へ原則配属することを条件に女性兵士を採用することを決定したのだ。


 国民からの反発を防ごうとした政府は、や女性活動家の市川房枝いちかわふさえらに女性の徴兵と婦人参政権の容認について話をしており、兵役法改正時に政府に協力するとの約束を取り付けていた。


 その為、兵役法の大規模な改正は大きな反発もなく速やかに行われ、町田内閣の強靭さを国内外に示す結果となった。


 次に、が制定された。


 国民勤労動員法は、未だ働くことが可能な高齢男性や未だ就職していない学校を卒業したばかりの社会人、失業者などを強制的にとして採用、において技術を身につけた後、政府が新たに設立したに戦時体制への協力を条件に加盟した企業に派遣することで、各企業の生産力を向上させ戦時体制を強化するというものである。


 もちろん、労働基本法は厳守されることとなっており、戦時中であっても労働者は安心して勤労に臨むことができる様になった。また、工廠や軍需工場などではが行われることとなり、生産効率は向上していくこととなる。


 また、が制定された。


 戦時特別税法は、戦時中における税制に関する規則を定めたものであり、原則として戦時中の増税は所得に余裕がある高所得者を中心として行うことで、国民のを国家は可能な限り守ることが規定された。


 更に、が制定された。


 戦時保安法は、戦時下における社会不安や敵国による攻撃、様々な場面での治安の悪化などを国民同士が互いに団結し合い防ぐことを目的としている。


 具体的には、などの結成、各保安隊による治安維持及び改善・困窮者の援助・平時に近い社会の維持・戦時における権利の適切な保安活動などが行われる。


 以上の四つの法律を中核とし、政府は関連法案や政令を成立、施行させた。これにより、日中戦争に伴う戦時体制は急速なスピードで構築されていき、1937年末には完全にすることとなる。


 日中の和平交渉は、国家体制の崩壊を恐れた中華民国政府と交渉は不可能と割り切っていた日本政府のそれなりに強硬な和平案によって決裂、日本政府は二年以内の終戦を目標に準戦時体制へと移行、翌年からは本腰を入れて戦争終結へと臨んでいくこととなる。

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