第十八話 対共声明

 日中両軍が擬似的に衝突したとも言える八達嶺事件が起きたという報告は、日中両政府に当然ながら衝撃を与えた。日中関係は悪化の一途を辿っていたものの、武力衝突自体は避けようと両国はそれとなく動いており、この様な事態は互いに想定していなかった。


 確かに、事件を引き起こした中国共産党の存在は両国ともに把握している。しかし、いくら関係が改善され始めていたとしても、中国国民党と中国共産党は相容れないものであり、反共的姿勢を露骨に示している日本とは尚更関係が悪かった。故に、両国は八達嶺事件の発生を予想できなかったのである。


 ただ、両国ともに事態への対応は早い方だった。


 まずは、日本側の動きから見ていきたい。


 近衛歩兵第二連隊第三大隊第八中隊の兵士が銃撃されてから一時間後、近衛歩兵第二連隊長阿南惟幾少将から発せられた「」という緊急電が国防省へと届いた。


 30分後には、さらに詳細な状況説明と今後の対応についての連絡が届き、国防省と統合参謀本部は臨時で合同会議を開催した。


 この会議において、近衛歩兵第二連隊の事態への対応を適切なものと認証し、今後の対応については基本的には中国軍との武力衝突を避け、可能であれば銃撃犯を捕縛するよう命令が出されることが決まった。


 国防省と統合参謀本部は、この段階では日本政府が出て中国側と交渉する必要はなく、現地軍同士で解決を図れるものと判断しており、政府に対しては情報自体は上げたものの、現地軍で早期に処理する方針だと付け加えていた。


 事態が動き出したのは、第三大隊へ再び銃撃が行われてから三時間後、翌8日午前6時に国防省へ現地から続報が届けられた時である。


 「犯行は中国共産党員に行われ、目的は偶発的な日中の武力衝突を誘発することだと自白しただと?」


 「はい。阿南少将からは、かなり信頼性の高い情報だと確信しているとのことで…」


 「…これは、日本政府として対応しなければならないかもしれん。町田首相に、臨時で閣議を開催するよう要請しておいてくれ。情報は全部渡しても構わん」


 「はっ!」


 国防大臣の永田鉄山ながたてつざん大将は、この事態は現地軍レベルで解決できないものと判断、臨時閣議にて日本政府として方針を決定するよう内閣へ伝えた。


 この要請は、町田忠治まちだちゅうじ首相が永田国防相の判断を適切なものとして認めたため受け入れられ、臨時閣議が開催された。


 事態を把握していない閣僚の為に、永田国防相は八達嶺事件について簡単に説明した上で、中国共産党に対する対応を政府として決定する必要があると訴えた。


 「永田国防相。中国共産党が我が軍の兵士に銃撃を行ったというのは、確実性の高い情報か?」


 「もちろんです、宇垣外相。近衛歩兵第二連隊長は恐れ多くも天皇陛下が自ら抜擢された人事であり、自白の情報としてかなりの信頼性があると判断しています」


 「なるほど…。総理、和戦両方の構えで行くべきかと」


 町田首相は、現役陸軍軍人の永田国防相と元陸軍軍人の宇垣一成うがきかずしげ外務大臣の高度な会話を理解できずにいた。政権成立から四年以上経ってはいるが、あくまで彼は衆議院議員なのである。軍事が専門でないと割り切っていた町田首相は、和戦両方で行く必要について尋ねた。


 「宇垣外相、なぜ和戦両方の構えで行く必要があるのかね?」


 「中国側の動きがおそらく二通りだと判断できるからです。まずは外交的解決についてですが、この閣議後の記者会見において私が中華民国に対し今回の事件について声明を発表していと思います。この声明において、日本政府はを強く要請し、受け入れられない場合にはを要求します。

 私も、外務省の部下に先ほど聞いて驚いた話なのですが、1932年に中国共産党の支配下にある中華ソビエト共和国より我が国に対してが行われているらしく、攻撃自体は国際的にも問題はありません。しかし、国境を接していない為どうしても中華民国の領土を通過する必要があるのです」


 「すでに宣戦布告を受けていたのか…。自分たちで滅ぼすか、我が国に滅ぼしてもらう代わりに色々と便宜を図るかのどちらかということか。しかし、中華民国の母体である国民党と共産党の関係は当然だが悪いぞ。この外交的解決だけで良いように思えるのだが」


 「問題となってくるのが、西安事件と現在中国国内で行われている政府主導の日貨排斥です。まず、西安事件が発生したことによって、国民党内が共産党との融和か対決かで割れ始めています。総統の蒋介石しょうかいせきは、共産党との対決姿勢を一応見せていますが、中華民国を『』として称賛し、支援を行っているルーズベルト率いるアメリカは、恐らく中国大陸進出に邪魔な我が国を戦争させようと蒋介石を唆すと見られています。

 また、20年ほど前から中華民国と親密な関係を築いているドイツは、現在狂気的にを推し進めているヒトラー率いるナチスに支配されており、旧朝鮮半島、現エレツ半島に東方イスラエル国を建国させた我が国への攻撃を強く訴えると予想されます」


 「米独中の三ヵ国が我が国へ協力して攻撃してくるとかなり厄介だな…。外務省は、の観点だけに絞ったドイツとの協定締結を検討しておいてくれ。アメリカに対しては、国防省の諜報関係で共和党や黒人などからアプローチを試みてほしい」


 「それについては了解しました。次に、日貨排斥についてですが、満州事変に関する国際連盟の決議が中国人にを植え付けたことはご存じかと思いますが、中華民国政府は満州失陥の大失態を我が国の謀略だと訴え政府主導で反日政策を推し進めることで国民党による政権維持を図ってきました。

 その為、例え蒋介石ら政府上層部が本格的な対日戦争までは計画していなかったとしても、中国人視点で自らの国の領土を奪った日本軍の兵士を銃撃した中国共産党員は、朝鮮人にとっての安重根あんじゅうこん以上に英雄として熱狂的支持を得ることでしょう。彼らに続けとばかりに、民衆は中国一丸となって日満へ対抗するよう強く要求する可能性があります。こうなると、であり三民主義を唱えたである蒋介石としては我が国との戦争を踏み切らざるを得ないでしょう」


 元々陸軍軍人である宇垣は、政府の外交とは基本的に縁がない人生を送ってきていたものの、陸軍内で統制派と同類の権力を裏で握っているなど頭脳明晰な人物であり、八達嶺事件による中国国内の動きについて、未来の人間からすれば預言者と言えるほどに的を得た予想を立てていた。


 その内容を理解することができた町田首相は、国際社会を刺激しないようにという視点で考え、結論を出した。


 「宇垣外相の提案を受け入れよう。すまないが、閣議終了後速やかに内閣としての意見であることを付け加えた上で、中華民国に対する要求を発表してくれ。国防省は、中国大陸での戦争準備を始めてくれ。予算については、それなりに工面しよう。高橋蔵相、中国との戦争に備えた軍事補正予算の議会への提出は可能かね?」


 「政府が主導する経済政策の多くが成功していることにより、税収は毎年右肩上がりの状況です。多少の国債発行は必要になるかもしれませんが、補正予算を通すことは可能と判断します。但し、確率的には低いかもしれませんが、戦争が発生しなかった場合には来年度以降の軍事予算は少し削らせてもらいますよ。」


 「それは勿論です。戦争が起きていないのに予算を増やしてもらうほど我々も傲慢ではありませんから。上海などの租界の防衛についてはどうしますか?」


 「戦争の可否に関わらず、租界からは撤退する方が良いだろう。この好景気で多くの人間が労働者として求められているし、満州王国など広大な大地を有する同盟国が近隣に存在しているのだ。中国での経済活動よりかは、安全にもっと稼くことができるだろう」


 「名残惜しい気もしますが、義和団事件が再び起きる可能性もあります。撤退の方針で問題ないでしょう。ただ、現地の日本人の帰還を支援し中国側の暴走から守る為にも一時的な兵力増強は必要です」


 永田国防相の訴えに、町田首相は恒久的なものでなければ、租界への兵力増強を欧州諸国も容認するだろうと判断し、理解を示した。


 「分かった。だが、中国との戦争が決定した場合を考慮し、海軍を中心に撤退援護部隊を編成してほしい」


 「了解しました。中国と戦争状態に入れば、中国大陸沿岸への上陸作戦も必要と考えておりますので、海兵師団の初陣としては十分なものになるでしょう」


 「宇垣外相は、欧州諸国と租界撤退に関して調整に入ってくれ。事態によっては、在留日本人全員の引き上げが必要になるかもしれん。その点も含めて、速やかに協議を行ってくれ」


 「分かりました」


 そして、閣議終了後の正午に宇垣外相は閣議において決定された、について声明を発表した。


 後に、と呼ばれるこの声明では、主に以下の内容が発表された。


 『今回の事件は、国民革命軍内に潜伏してた中国共産党員によって引き起こされたものであり、日中間で不要な戦闘を誘発させようとするこの謀略は到底許されるものではない』


 『政府の調査により、中国共産党を母体とする中華ソビエト共和国が我が国に宣戦布告していた事が判明した。その為、政府はパリ条約不戦条約に基づき自衛権を行使し、中華ソビエト共和国に対して方針を固めている』


 『中華ソビエト共和国は我が国及び友好国とも領土を接しておらず、唯一領土が接している中華民国に対し我が国は


 『我が国は、中華民国に対し中華ソビエト共和国攻撃への協力を求める。我が国は、中華民国による中華ソビエト共和国の制圧か、中華ソビエト共和国制圧の為中華民国領での日本軍の通過許可のどちらかの対応を求める』


 『我が国は、この事件の平和的解決を願っており、パリ条約締結国や国際連盟と協力し、共産主義者によるこの悪逆非道な謀略に対し断固とした姿勢を貫いていく』


 町田内閣は、国際社会との関係を考慮した上で、共産主義へ対抗していく為に和戦両方の構えで八達嶺事件へ対応していくことを決意し、第一次宇垣声明によってその意思を世界へ表明するのであった。

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