またこの海の向こうで

九重ツクモ

またこの海の向こうで


 ザザァー……。

 ザザァー……。


 波の音がする。

 潮の香りが鼻を掠め、風は優しくほてった肌を慰める。

 太陽は徐々に傾いて、夜の気配がすぐそこまで迫っていた。



 海に囲まれたこの島は、まるで巨大な滑り台のようだ。

 島の西側は切り立った崖になっていて、東に向かって急勾配の坂が続く。

 その崖の上に、一脚のベンチが置かれていた。

 誰が何の為に置いたのかは分からない。

 普段は誰も座る者がなく、まるで何かを暗示するオブジェのように佇んでいるそれに、二つの影があった。



「もう、行くのか」


 一つの影が、そう呟いた。

 黒いくちばしを引き結び、真っ直ぐに海を見つめている。

 まるで、絶対に隣に目をやってはいけないと、そう決意しているような。


「うん。少し、遅くなりすぎたからね」


 甲羅こうらから出した首をゆっくりと持ち上げ、もう一つの影も海を見つめた。


「君も、そろそろ行くんでしょう? ペンギンにここは暑すぎるって、いつも言っていたじゃないか」


 ウミガメはまたゆっくりと首を動かし、隣に座るペンギンに目を向けた。

 どことなく傷付いたような、それでいて諦めたような表情でうつむいている。

 そんな彼を、ウミガメは目を細めて眺めた。


「俺は……まだ居るよ」

「そう」



 ザザァー……。

 ザザァー……。



 まるで、この世界に、波の音だけが残ったような気がする。

 そんなことをウミガメは思った。


「なんで……」


 一言言いかけて、ペンギンは嘴をつぐんだ。

 言いたいことはたくさんあるはずなのに、何も言葉になって出てこない。

 そして目をギュッとつぶって、これまでのことを思い出していた。



 二人が初めて出会ったのは、冬の終わり。

 ウミガメの暮らすこの島に、急にペンギンがやって来たのだ。

 氷に囲まれた海しか知らなかったペンギンは、ある日世界を見たくなったのだという。

 群を離れ、大海原に旅立ち、偶然この島に立ち寄った。

 そこで、ウミガメと出会った。


 この島に不慣れなペンギンに、ウミガメが優しさから声をかけたのがきっかけだった。


 あまり多くを語らないペンギンに、彼はたくさんの質問をした。

 好きな食べ物は何か。

 何をしている時が一番楽しいか。

 住んでいた所は、どんな場所なのか。


『退屈な所だ。辺り一面氷ばかりで、風景も何もあったものじゃない。……あぁ、でも、夜空にたまに出る七色のヴェールは、美しかったな』


 ペンギンはどこか懐かしむように言った。

 ウミガメにはそれがどんなものか想像もつかなかったけれど、いつか見てみたいと思った。

 出来ることなら、ペンギンと一緒に。


 その日から二人はいつも一緒にいた。

 約束をした訳でもないのに、太陽が完全に昇り切る前には浜辺で落ち合い、一緒に泳いで、互いの好物を食べ合って、星を眺めてから別れた。

 その繰り返し。

 何か決定的な言葉を交わした訳でも、特別なことがあった訳でもない。

 ただ何でもないような日々を続けた。

 けれど、その日々が長く続かないことも、お互いによく分かっていた。



 ペンギンは、いつまでもここにいる訳にはいかなかった。

 いくら自由を謳歌おうかしようと、いつかは故郷に帰り、果たさなければならない務めがある。

 子孫を残すという、務めを。


 ウミガメも、もうすぐ遥か彼方にある生まれた島に帰らなければならない。

 そこで妻をめとり、子を成す。

 それがウミガメの宿命で、永遠の使命なのだ。


 生まれてすぐに離れた場所に辿り着けるなどすごいじゃないか、と、かつてペンギンは言った。

 けれどウミガメの笑顔は、苦いものだった。


『生まれたその日に離れた場所だよ。どんな所だったのか、暑いのか寒いのか、何も覚えていないんだ。それなのに、僕たちはそこに向かう。僕たちの意志なんて関係ないんだ。血に刻まれているんだよ。そこに向かうことが』


 初めて見る表情だった。

 いつも朗らかで屈託のないウミガメが、その日ばかりは、どこか影を背負っているように見えた。


『まるで呪いだよ』


 ぽつりとそう呟いて、ウミガメは暗い瞳で海を眺めた。

 その先にある、生まれた島を見つめるように。




「それにしても、やれば出来るものだね」


 ウミガメの声にペンギンは我に帰った。

 けれど、彼が何のことを言っているのか、すぐに理解した。


「……そうだな」


 この崖の上のベンチを見上げて、二人はよく想像を膨らませていた。

『あそこから見る景色はどんなものだろう』

『もしかして、あそこが空の入り口なんじゃないか』

 そんなことを話しては、二人でこのベンチを見上げていた。


 いつか、あのベンチに座ってみたい。

 それが二人の夢になった。



『あのベンチに座りに行こうよ』


 ウミガメがそう言い出したのは、1週間前のことだった。


『最後に、君とあのベンチに座りたいんだ』


 ウミガメとペンギンが、この崖の上を目指すなど無謀だ。

 一体どれくらいの時間がかかるのか分からない。

 無事に着くのかも分からない。

 けれどウミガメの顔は、とても冗談を言っているようには見えなかった。

 ペンギンはしばし悩んでから、首を縦に振った。

 少なくとも、ベンチを目指している間は、一緒に居られるだろうから。


 他のウミガメたちが、もう旅立ちの時だと話しているのを聞いた。

 きっと、これが最後になるのだろう。


 二人はベンチを目指し、必死に山を登った。

 決して楽な道のりではなかったけれど、二人で居れば辛くはなかった。


 そして、今、このベンチに座っている。



 ザザァー……。

 ザザァー……。



 太陽はもう半分海に沈んでしまった。

 オレンジと群青が混じり合う空に、波の音だけが響いている。

 今言うべきことは、分かっている。

 けれど、ペンギンはどうしても言葉にすることができなかった。

 とにかく、これまで一度も見たことのないこの景色を、絶対に忘れたくないと強く思った。



「ねえ、これあげる」


 不意に、ウミガメはペンギンにヒレを差し出した。

 その上には、人間の拳ほどもある大きな巻貝が乗せられていた。

 ペンギンはふと、それをどこかで見たことがあるような気がした。


「これは?」

「これはね、僕たちウミガメが感謝の気持ちを込めて、別れの時に渡すものなんだ。もらってくれない?」


 そう言って、ウミガメは巻貝を差し出したまま、にこりと笑った。

 ペンギンはしばし、逡巡しゅんじゅんした。

 これを受け取ったら、全てが終わりのような気がして。



 ザザァー……。

 ザザァー……。



 沈黙を、波の音がかき消していく。

 ウミガメは少し残念そうな顔をすると、ことり、とベンチの上に巻貝を置いた。


「じゃあ、そろそろ行くね」


 そう言うと、ウミガメはゆっくりと崖の方へと歩いていった。


「おい、何するつもりだ」

「何って、海に戻るんだよ。いやだな、そんな顔して。ウミガメの甲羅を甘く見ちゃいけないよ? このくらいの高さから海に落ちたって、全然大したことないよ。それに、僕にはあの道のりを帰るなんて、無理そうだもの。君には申し訳ないけどね」


 普段よりも僅かに早口で、ウミガメは言った。

 どこか、作ったような笑顔で。


「……本当か?」

「僕が嘘をついたことがある?」


 ウミガメはおかしそうに、くつくつと笑った。

 確かにそうだ。

 今まで一度も、ウミガメは嘘をついたことがなかった。

 ウミガメはゆっくりと歩を進め、ついに際まで辿り着くと、立ち止まって言った。


「ペンギンは一生同じ相手と添い遂げるんだってね」


 何がおかしいのか、またくつくつと笑う。


「ウミガメはね、違うんだよ。相手がころころ変わるんだ」


 一瞬暗い色をにじませた声でそう言うと、ウミガメはゆっくりと振り向いた。

 その顔には、満面の笑みがあった。


「君の幸せを願うよ」


 空に輝く七色のヴェールの下で、知らない女と笑い合うペンギンを想像する。

 きっと、その方が彼は幸せに違いない。


「待て……!」


 ペンギンは走り出す。

 同時に、ウミガメはヒレを力強く蹴り出して、崖から飛び出した。




 激しい風と重力を感じながら、ウミガメは安堵していた。

 随分と前から、「生まれた島に帰れ」と頭の中で得体の知れない声が響いていた。

 その声は徐々に大きくなって、どんなに抗おうとも、心が全てあの声に塗りつぶされてしまいそうだった。


 けれど。

 これでもう、あの声から解放される。


「どうしても、最後まで君の顔を見ていたかったんだ。ごめんね」


 崖の下を覗き込み、何かを叫んでいるペンギンの顔を見つめながら、ウミガメは呟いた。


「許されるなら、また——」






 いつまでそうしていただろうか。

 ペンギンは海の中に消えていったウミガメを見送り、崖から顔だけ出してしばらくずっと波を眺めていた。


 太陽が完全に沈み、月と星が空を支配した頃、ペンギンはゆっくりと立ち上がった。

 ベンチへと戻ると、ぽつんと巻貝が一つ、残されていた。


 再度、既視感がペンギンを襲う。

 一体どこで見たのだろう。

 ペンギンは記憶を辿り、ハッとした。



『君を一生、愛すると誓うよ』

『嬉しいわ……!』


 あれは、ウミガメが来るのを待つ傍ら、浜辺をふらふらとしていた時だ。

 一組のウミガメのカップルが、何やら話しているのを見かけた。

 想像するに、きっとオスがメスに告白をしていたのだろう。

 オスが緊張した様子で、メスに巻貝を渡した。


『こんなに大きな巻貝……!』

『俺の愛を表すには、これくらいじゃないとな』


 そう言って、オスは照れたように笑ったのだ。



 あの時の。

 あの時の巻貝ではないのか、これは。

 ならば巻貝は、別れの挨拶などではないはずだ。


 この巻貝は、きっと——。



 ペンギンは慌てて、再度崖から身を乗り出して海を眺めた。

 けれど月明かりに照らされた黒い波間があるだけで、何も見えはしなかった。


『これで俺の愛は、一生君のものだよ』


 あの日、そう言ったオスの言葉を思い出す。


 本当に、この高さから落ちても彼は無事なのだろうか。

 彼は本当に、生まれた島を目指しているのだろうか。

 もし、もしも。

 ——あれが、ウミガメの嘘なのだとしたら。



『僕の愛は、一生君のものだよ』



 一瞬、彼の声が聞こえた気がした。



「あぁ……!!」


 夜の海に、ペンギンの慟哭どうこくが響き渡る。


 それもいつか、波の音にかき消されていったのだった。

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