二十二話
甘い香水の香りが、部屋に充満する。セシルは気持ち良さそうに伸びをすると、そのまま絨毯に座り込んだ。
「もう、具合は大丈夫なの?」
「平気だよ。ぐっすりお昼寝したから。とは言っても、ここに来るまでに、結構体力使っちゃったけどねー」
あはは……と苦笑いするセシルの身体は、やはり影が差し込んだように、薄っすらと黒く染まっていた。
「こんな真夜中に、一体何の用?」
僕はベッドに腰掛けながら、彼女に尋ねる。
「そんなの、決まってんじゃん!」
セシルは不敵な笑みを浮かべると、ゆっくり立ち上がり、僕の隣に腰掛けた。そして耳元に近づき、吐息混じりの声で囁く。
「……シオンちゃんを、食べる為に来たんだよ!」
咄嗟に距離を取る。僕が人間だという事が、バレている!? どうして……!? リズが話したのか、あるいはフローラの幻想が見破られたのか……。
「……なーんてね! あはっ、冗談だからさ、マジになんないでよ! 大体、魔女が魔女を食べるなんて話、あり得ないから!」
高い声でケラケラ笑う彼女の横で、僕は安堵のため息をついた。なんてたちの悪い冗談なんだ。
「でもさー、シオンちゃんを見てると、無性にお腹が空いてくるんだよねー。どうしてかなー?」
「し、知らないよ。それより、さっきの話。どうしてここに来たの?」
危険を避けるため、話を無理矢理はぐらかす。セシルは「そうそう!」と、思い出したかのように話し始めた。
「シオンちゃんと、もっとお話がしたかった。ただそれだけだよ。リズが君について語る時、すっごく生き生きしていたからね」
「リズが……?」
「そー。あの子のあんなに楽しそうな顔、久しぶりに見たんだから」
セシルはどこか遠くを見つめながら、微笑みを浮かべている。僕は彼女の考えを否定するように、首を横に振った。
「そんな事ないよ。僕はきっと、リズに嫌われている」
「えー? どうしてそう思うの?」
「だって、リズは僕に意地悪ばかりするし、性格も全然違うし、それに昨日――」
言いかけて、口籠もる。セシルは僕の正体に気づいていないから、僕の事をベラベラ話せない。考えた結果、あえて他人事のような話で誤魔化す。
「――人間と魔女の関係について、話したんだけど。人間の男が魔女に恋をするなんて、絶対あり得ないって、リズに怒られたんだ」
「……あー、それは駄目だよ。シオンちゃん、完全に地雷を踏んじゃったんだね」
セシルは苦笑いを浮かべながら、優しくため息を吐く。
「地雷?」
「そー。リズには酷いトラウマがあるんだ。彼女が『はぐれ魔女』――つまりヒールの魔女になる前。帝国の人里離れた岩場に、一人で住んでいた頃、辛い経験をしてね」
こちらを見て、「聞きたい?」と、首を傾げながら尋ねてきた。
リズの過去を知る事で、彼女が何故、僕とフローラの関係を否定するのかが分かるかもしれない。そしてそれは、この島から解放される為の糸口になる可能性がある。
……願わくば、争う事なく、穏便に帰還したい。その為には、リズと向き合う必要があるから。
僕は小さく頷いた。
「んー、そうだね。シオンちゃんには、これからもリズと仲良くして欲しいからさ。特別に教えてあげる!」
セシルはいつになく真剣な表情で、リズの過去について語り始めた。
リズには、本気で人間の男を好きになった時期があった。そして男もまた、彼女に優しく寄り添ってくれるから、きっと両想いなのだと、そう思っていた。しかし、それは彼女の『虚妄』だった。
ある日……男は『心が病んでいる友人を救いたい』という名目で、リズに身体を貸して欲しいと依頼してきた。リズは戸惑いを覚えたが、愛する彼の頼みならばと、複数の男達に自身の身体を渡し、慰み者となった。
後日リズは、男が友人達からお金を受け取る場面を目撃する。『アイツは簡単な女だ。金さえあれば、またいつでも貸してやるよ』という声が聞こえた。……そう、リズは娼婦のように、男に身体を売られていたのだ。
真実を知ったリズは激昂し、我を忘れて男達を食い散らかした。気がつけば、彼女を恐れる人間達に追いやられ、家も居場所も失ってしまった……。
「――で、路頭に迷っている姿を見かねて、あたしがヒールの魔女に誘ったってわけ」
セシルは語り終えた後、大きくため息を吐いた。
想像の何倍も、過酷な話だった。愛する人に裏切られ、望んでもない人と身体の関係を持つ。怒りに身を任せ、血に塗れながら人を喰らうリズの姿が、脳裏に浮かんだ。
そして『人間は魔女を怖がらなければいけない』という、リズの信念。それが、彼女の経験に基づいた物だとしたら……。
それは余りにも、救いがなさすぎる。
「ま、そんなリズだから、これからも仲良くしてあげてよ。あの子が経験した過去は、あたしよりずっと大人だけどさ。それでも、あたしの妹みたいなもんだからね」
ポンっと、セシルに肩を叩かれた。同情している訳ではないが、少しだけ、リズの心に寄り添いたいと思う自分がいる。
このままこの場所に残り、彼女を救う方法を探すのか。それとも、やはりエンターテイメントに帰るのか。
……いや、その答えは明確だった。
「ごめん。僕は、エンターテイメントに帰るから」
「そっか……。シオンちゃんの意思は固いんだね。何が君を、そこまで繋ぎ止めるのかな? やっぱり、『骸の魔女』?」
彼女の問いに、ゆっくり頷く。フローラの元へ、帰らなければならない。彼女が居て初めて、僕は生きる意味を見出せるのだから。
「やっぱそうかー。あの子、強いもんねー。全盛期のあたしが本気で戦っても、勝てるかどうか怪しいからなー」
不意にベッドから立ち上がり、シャドーボクシングを始めるセシル。シュッシュと擬音を声に出しながら、見えない敵に向かってパンチとガードを繰り返す。
その姿は、本物のプロボクサーのようで、どことなく様になっていた。
「……となると、シオンちゃん。この勝負の決着は、意外と簡単に着くよ。『骸の魔女』が、ここに来るかどうかで決まる」
強烈な右ストレートを披露した後、得意げな顔でこちらを見つめる。
「来れば、ヒールの魔女は全滅。君は晴れて、エンターテイメントへ帰還する事ができる。来なければ、君の負け。君はヒールの魔女になるか、ずっとこの島に監禁されるかの二択を選ばなければならないね」
ふぅ……と息を吐き、再びベッドへ腰掛ける。その横顔を見つめると、先程よりも黒の侵食が進んでいるのが分かった。
「フローラは、きっと来てくれる」
「……そっか。まぁ、どの道あたしは戦えないから、遠くで見守るしかないんだけどね」
困ったような笑顔。その声には、どこか悔しさが滲み出ていた。
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