十五話
町外れにある小川は、お祭りとは無縁の静けさだった。暖かいそよ風が、頬を優しく撫でるように吹き付ける。しかし、悶々とした心は落ち着く事を知らなかった。
川のほとりに座り込んでから、何時間経っただろうか。未だに僕は、ここから立ち上がることが出来ずにいる。
……皆んな、心配しているだろうなぁ。
ため息を吐き、下を俯く。目を閉じると、住人達の様子が脳裏に浮かんでくる。眩しい笑顔だった。皆それぞれ、戦争による悲しみや不安を抱えている筈なのに。
「……ここに居たのね」
目の前で、女性の声がした。声だけで、誰が来たのか分かった。顔を見上げ、その名前を呼ぶ。
「……フローラ」
驚いた。彼女がこの場に来るとは、思ってもいなかったから。
目の前に立ち、水色の瞳で僕を見下ろしている。風になびく髪を掻き上げながら、ゆっくりと口を開いた。
「もう少しで、あなたのステージが始まる」
「……うん」
「コラリーもハリエットも、皆んな心配している」
「……うん」
そんな事、言われなくても分かっている。分かっているけれど、勇気が出ない。皆んなの前で歌う勇気が。
フローラは小さくため息を吐くと、僕の横へ並ぶようにしゃがみ込む。
「少しだけ、お話をしてもいい?」
「えっ?」
膝に頬杖をつき、こちらを覗き込むように見つめている。真っ直ぐな瞳は、澄んだ水のようにきれいだ。
……君にそんな表情をされたら、断れるわけが無い。
「……ずるいよ、フローラ」
「なにが?」
「こんな時だけ優しくするのは、ずるいと思う」
フローラは首を傾げる。
「別に優しくしているつもりは無いから。私がお話ししたいと思っただけ。嫌なら別にいい」
「……嫌じゃない」
「そう。なら黙ってて」
素っ気無く言い放った後、フローラはゆっくりと話し始める。
「今日、ステージで歌う曲。あなたのアカペラから始まるでしょ? あれ、私がコラリーに依頼したの」
「えっ?」
……どうして?
「コラリーも、最初は驚いていたけれど。でも、その通りに曲を作ってくれた」
彼女の言う通り、今日僕が歌う曲は、僕のアカペラから始まる。何か意図があるのだろうか。
「……なぜ、そうしようと思ったの?」
僕の質問に対し、フローラは淡々と答える。
「あなたのタイミングで、歌い始めて欲しいと思ったから。あなたは少し、受け身な所がある。もっと自分の意思を持って、物事を決めるようになった方がいい」
フローラの言う通りだと思った。僕はいつだって受動的で、人任せだ。この世界に来る前からそうだった。自分自身が一番分かっている。でも……。
「僕は、そんなに強い人間じゃないから」
自分自身の意思を持つのは、心が強くて自信のある人だから出来る事だ。今の僕には、とても……。
「別に強さなんて、関係ないと思う。皆それぞれ個性があって、長所もあれば短所もあるのだから。魔女が皆それぞれ違う種類の魔法を使うように、ね」
フローラは指をパチンと鳴らす。すると、穏やかな川の水が噴水のように吹き上がり、高々と水飛沫をあげる。それらは日の光に照らされ、鮮やかな虹を作った。
「じゃあ、僕には何があるというの?」
「あなたには、その歌声がある」
もう一つ、指をパチンと鳴らす。今度は川から魚が飛び跳ね、虹を渡るように空を泳ぎ始めた。
「あなたの過去に何があったのかは知らない。この町に来て、あなたが何を思い、何を感じたのかも知らない。でもね――」
フローラはゆっくりと、身体の向きを変える。僕と二人、向かい合う形になる。
「私は知っている。あなたの歌声は、あなたにしか出せない。あなただけの物だという事を」
真っ直ぐな瞳で見つめられた僕は、思わず目を逸らしてしまった。
分からない。彼女が何を言いたいのか。どうしてここに来たのか。
前髪に留めてある、ブルースターの花を触る。しかし、物言わぬ花びらは、何も答えてくれない。
「……少し、眼を閉じて」
「えっ?」
「いいから」
言われるがまま、瞳を閉じる。すると僕の額に、何かが当たった。ひんやりとしていて、いい香りがして、心地よい。これは……眼を閉じていてもわかる。
フローラが、僕の額に自身の額を重ねている。僕の後頭部を、優しく包み込むように押さえて。
「フローラ!?」
「静かにして。これはおまじないだから」
今の自身の姿を想像する。そういえば、今朝も同じような事があった。しかしその時は、僕では無く前髪に留めてあるブルースターの花へ近づいていた。
だが今は違う。明確に、フローラは僕に近づいている。彼女の吐息が顔に当たる。その度に、心拍数が大きく上昇してしまう。
今、彼女はどんな表情をしているのだろうか。無表情なのか、笑っているのか、それとも照れているのか。目を開けて確認したい。
でも、そうすると彼女が居なくなってしまいそうな気がして、結局僕は瞳を閉じたまま、頭の中で想像するしか無かった。
「よく聞いて、シオン。あなたがステージに立つ時間は、高々五分程度。それはあなたの長い人生にとって、砂場の中にある小さな砂粒に過ぎない」
無言のまま頷く。目を閉じていると、フローラの透き通るような声が、より一層心に響く様な気がする。
「でもね、きっとその小さな砂粒は、あなたにとって貴重な経験になる。今日のステージを通じて、色んな事を感じて欲しい。それら全てが、あなたの『精力』になるから」
一呼吸開けた後、耳元で囁くような声で言う。
「――あなたは、私に食べられたいんでしょ?」
トクン、と胸が高鳴った。そうだ。そうじゃないか。僕がこの世界で生きる唯一の目的。それを叶える為の第一歩だと思えば、きっと……。
「そろそろ時間ね。私がもう一度指を鳴らしたら、目を開けて。これからどうするかは、あなた次第。自分自身で決めればいいから」
拳を握りしめ、ゆっくりと頷いた。
「じゃあ、いくね……」
パチン、と指の音が響く。ゆっくりと目を開けると、フローラは居なくなっていた。辺りに人影は無く、僕一人がポツンと取り残されている。
「フローラ……」
額をさする。数秒前まで肌で感じていた、彼女の存在。ひょっとすると、それ自体が彼女の作り出した幻想だったのかもしれない。
でも……。
――これからどうするかは、あなた次第。自分自身で決めればいいから――
「……よし!」
ゆっくりと立ち上がり、町へと続く道を駆け出した。
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