7/29 居場所【Day29.名残】

 空が青さを残したまま、薄っすらと橙に染まっていく。

 西から広がる夕映えは昼間の灼熱を空気中に残したまま、ゆっくりと、人が歩く速度よりも体感遅く、西の地平線へと吸い込まれようとしていた。

 青と橙なのに、混ざると淡い紫や鴇色のように移り変わることが不思議で仕方がない。日中より幾ばくか暑さの落ち着いた、しかし水分を多量に含んだ空気を飲み込んで森富太一もりとみたいちはそのまま展望デッキに立ち尽くしていた。

 じんわりと額から、首から、大きな血管が通る周辺の皮膚から汗が溢れる。不快だが嫌いじゃない、夏という季節は好きだ、自身の誕生日があるからというのもあるし、少し物悲しい気分になったところでそこまで心が堕ちていかない。

 冬の、頬を切りつける北風、指先から壊死していくような凍え、ぼんやりとした太陽と早く迎えに来る夜の季節に比べれば全然良い。そもそも夏の感傷と冬の感傷はまったく違うもののような気さえした。


 このあと二十時過ぎのフライトで『read i Fineリーディファイン』は日本から発つ。

 仕事である。初めての、海外でのMV撮影だ。メンバーの半数近くが英語を話せるグループにいると、外国での仕事もそこまで不安にならない。では今抱いている不安はなんだろう。メンバーには「展望デッキ行ってくる!」とはしゃいだ振りをして外に出た、ひとえにこの不安について考えたかったからだ。

 『read i Fine』は今、最先端を行く男性アイドルグループだと言われているそうだ。

 自分たちでそんなことを喧伝したつもりはないし、プロジェクトチームの広報も『新しいことにチャレンジし続ける姿勢を見せる』という点に、特に、重きを置いているだけだ。でもそれだけなら他の同年代アイドルグループも行っている。どうして自分たちだけが最先端と言われているのだろうか。

 自分が言っていない言葉、行動の読み違えられた意図、それらがウェブの文面に踊る度異様な不安に襲われる。浮遊感と言っても良いのかもしれない。表立った釈明の場がもうけられないことがこんなにももどかしいのだと、デビューして初めて気付いた。第一、デビューしないとこんな風に一挙手一投足注目されることはないのだろうけど。


 風が吹く。生ぬるい、熱のこもった風は薄皮のように全身にまとわりつく。暑いな。


 先日、佐々木水面ささきみなもの前で弱音を吐いた時、水面もまた自分と同じような不安感に襲われていることに気付いた。もしかすると他のメンバーも同じなのかも知れない。

どれだけ頑張っても、どれだけデビューに近付いているか分からなかった練習生時代。

 どれだけ頑張っても、次はどうなるか、その次はと永遠に先を求められるデビュー後。

 どちらの方がより辛いか、という話ではない。どちらも辛いのだ。ここだけの話、苦心してデビューしたは良いものの売り方や活動の方針に疑問を持ち、苦しんでいた先輩を見たのは一度や二度の話ではない。練習生時代から、デビューしたからこそのもどかしさや迷い、抑圧の憂き目に遭ってきた先輩を見てきた。練習生時代は当然他人事で、デビューしてからあの時の先輩方はすごいことをやっていたのだと気付いた。


 暮れなずみ次第に濃く、青く。薄雲が大きな渦を描くように広い空に舞っている。橙の色味は大分損なわれ、濃紺が大半を占めてきた。西の方は未だにピンクで染まっている。星がちか、と瞳に映った。


 今、自分がここに立っているのは自分たちを集めてグループにしてくれたプロデューサー、プレデビューの時からいるチーフマネージャーとデビューしてから担当してくれるようになった三人のマネージャー、そして同じグループのメンバーのおかげだ。勿論、広報スタッフ、動画製作スタッフ、スタイリストにメイク、作曲家、作詞家、振付師など色んな人が様々な形で携わってくれている。

 いちばん怖いのは、自分の行動ひとつでその、色んな人の協力によって出来上がった『read i Fine』が崩れ、壊れてしまうこと。その可能性は充分あって、きっとそれは『read i Fine』がある限り恒常的なものとなる。常に自分らは、居場所を失う恐怖と共に歩いていかないといけないのだ。

 花道は零落の道と車線一本分で共存している。その怖さに慣れないといけない。

 壊れてほしくないし、壊してほしくない。一生ここで遊んでいたい、自分の中にいる小学生くらいの自分がそう語りかけた気がした。こいつだよ、いつも子供っぽい考えだなと後悔する時、脳裏にこいつが現れる。

 本当なら押し入れに閉じ込めて、つっかえ棒で二度と出て来なくしてやりたいんだけど、その都度御堂斎が以前言ってくれたことを思い出す。


 ──「今のお前がみんな大好きだよ。気遣いとか察する能力は、欲しいと思えば磨かれるから」。


 嘘のない言葉だと分かる。付き合いの長さがそうだと断定してくれる。

 だから最近は、そんな小学生くらいの自分と頑張って話してみる。お前は何も分かってない、ガキめ、と言いたくなるけどぐっと堪えて、そうだね、そうしたいね、と同意をしてみる。不安は晴れない、だけどずっとすっきりした気分になる。


「あ、いたいた。太一、こんなとこにいたのか」

「亜樹くん」


 名前を呼ばれた森富が振り返ると、そこにはラフな恰好をした土屋亜樹つちやあきがいた。


「フライト前に飯食いに行こうってさ。つか電話したけど出ねえし」

「あ……ごめん、めっちゃ着信来てた……」

「サーシャとかえいちゃんとかそれなりにパニくってたから戻ったら謝るんだぞ」

「ほんとごめん……」


 肩を落とす森富の頭をぐしゃぐしゃにかき回す土屋。笑顔を見せ「謝ったら許してくれるよ」と彼は森富を励ます。


「じゃ行こうか」

「うん、……」

「名残惜しい?」

「ん? ここが? ……別に」

「まあまた帰ってこれるし」

「そうだね」


 帰ってくるために居場所はあるのだ。絶対に帰ってくるんだよ、と自分の中のチビがやかましく言ってきた。分かってる、分かってるよそんなことは。

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