7/5 常に、いつも【Day5.蛍】

 土屋亜樹つちやあきは休みの日の遠出をすることがままある。とは言えそれは自分だけがオフの日限定であり、他のメンバーも休みの時は大体そのメンバーと家の中で過ごしたり買い物に出掛けたりしている。なかなかメンバー同士で旅行というのも難しいのだ。

 今日訪れるのは関東の北部にある温泉宿だ。交通の便が悪く電車は勿論、バスすら数時間に一本程度という車が必須な土地である。高校を卒業し仕事に忙殺されながらも車の免許を取得したのは、こういう場所にも気軽に行くためであった。交通規則を遵守してレンタカーを操り二時間強、ようやく辿り着いた場所は都心よりやや涼しくしかし太陽の照りつけ具合は相違ない、風がそよぐと木々がきらめく、そんな風光明媚なところだった。


「蛍、ですか」

「そうなんです」


 少ない部屋数のこの温泉宿だからこそホスピタリティは十二分だ。宿の仲居は部屋へ案内する途中、鬱陶しくならない程度にこの周辺の情報を提供してくれた。そのなかで土屋の興味を惹いたのは蛍の情報だった。


「お客様はご予約の際にオプションをお付けになりませんでしたけど、こちらに来られる方は大体蛍の観測ツアー目当てなんですよ」

「そうなんですか……つければ良かったですね」

「良ければ飛び入り参加もできますけれど」

「え、良いんですか」


 もちろん、と仲居はにっこり笑う。平日で参加者が少なく、また夏休み前ということで親子連れもそこまでいないため当日参加でも問題がないそうだ。

夕飯後の夜八時にロビーに集まっていただければ、その際お召しものは長ズボンでお願いします、などと注意事項を受けた土屋はわくわくしながらひとまず温泉に行くことにした。部屋に露天風呂もついているが、どうせなら大浴場に行きたい。この規模の旅館ならば大きく騒がれることもないだろう。その読みは大当たりで、大浴場に向かっても人生の折り返しを過ぎて大分経ったような人しかおらず、ゆっくりとした時間の流れを堪能することができた。



 まろみのあるお湯に全身を揺蕩わせても、何も考えないなんてできる訳もなく、むしろ音楽が溢れて製作活動がしたくなったりダンスの練習がしたくなったりして土屋はひとり笑った。どこに行っても仕事と己は切って切り離せない。完全に職業病だった。

 本当はリフレッシュなのだから、日々と一線引いて、切り取ってこの場にいるべきなのに。風呂上がりも完璧にスキンケアを行い、メンバーの御堂斎からもらった柔軟のメニューをこなしている時点でまだまだ日常の延長線上にいるのだなとひどく感じる。

 それが悪いことなのかは分からない。いや悪いことなんだろうけど、別に仕事のことを考えてしんどくなったり、惨めな気持ちになったりはしないから大丈夫なはずだ。

 仕事は嫌いではない。向いていると思っているし、達成感もある。今のグループのメンバーと一緒に走り続けたい気持ちだって充分ある。だが時折こうして世俗から離れないとバランスを崩しかけてしまう、そんな中でも仕事のことを考えているのだから本末転倒感は拭えないが。


 郷土料理のフルコースを食べ、時刻は約束の夜八時。ロビーに集まった人の数は少なく、土屋を入れて五人ほど。そもそも今日の宿泊客自体が多くはない。年齢層もかなり上なのでバレることはないだろうと土屋は少しほっとした。

 宿を出て歩いて十分。広場のようになっているそこに、ふわり、と光が漂う。それを見た瞬間、ほう、と感嘆の息が全員から漏れ出た。蛍だ。めっきり見なくなった蛍が数匹、近くを漂っている。

 この広場へは一時間ほど滞在が許されている。土屋は座り込み、幻想的な風景を瞳に映す。晴れた空よりも濃く、海よりも浅い目の色を人工的とも自然的とも言い難い光が目映く照らした。

 風が凪いで、空気が頬を撫でる。しんとした山間の空気感に、人の呼吸と木々のさざめきが独特の雰囲気を織り成している。次の曲は、自然をテーマにしても良いかも知れない。そう思って、また仕事のことを考えてしまった、と土屋は苦笑した。

 仕事のことというか、音楽のことか。音楽は自分から切り離せない。生きていく上に必要というより、生きていく理由のひとつであるからだ。意識的に呼吸をする。ちかちか、と蛍が煌めく。その更に先、空で星が静かに瞬いた。音楽だ、と思った。音がどうとか、リズムがどう、コード進行とか転調とかそんなことは些事だ。

 音楽というのは世界を解き明かす学問のひとつだ。そして世界というものに最も近しい場所に自分がいる。『世界』とは何か、『世界』とは自分では感知のできない規則によって何かが動いていることだと土屋は思っていた。


「みんなと見にきたいな」


 あと十分になるまで『世界』に浸っていた土屋はふと、そんなことを呟いた。

自分ひとりでなんてもったいない。これをみんなで見て、色んなことを話したくなった。勿論、そのほとんどが仕事のことで音楽のことだ。そんなことは分かり切っている。リフレッシュしに来たのに仕事の話? とみんなが苦笑しながらもちゃんと話してくれる様子も想像できた。つくづく自分は恵まれている。



 宿に戻ると一緒に蛍を見ていた、自分の祖母とそう変わらない年齢の女性が近付いてきて「いつも応援しています。全日局の、見てます」と朗らかに伝えてくれた。四月から始まった全日本放送局のある音楽番組に土屋はレギュラーで出ている。内容は音楽の歴史を紐解くもので、選ばれた時は非常に光栄に思ったことを思い出した。

 あの時の熱量が蘇り、胸に光を灯した。そんな気がしたのだ。もう一度温泉に入って、部屋に戻って曲を作ろうと思った。幸い必要なものはスマートフォンにすべて入っている。どんな曲にしよう、そう言えば北欧かどこかで植物を育てることが上手い人のことを指す言葉があった、それを題材にしようか──なんて考えながら速足で客室に戻った。

 曲を作ったら、まずデモを南方に聴いてもらってアドバイスをもらおう。編曲はどうしよう。ガイドは俺が歌えば良いけど、あの音出るかな。低い音は月島に助けを求めよう。それから、それから、──考えは止まない。

 ある意味、良いリフレッシュになった。お土産と曲をこさえて帰宅した土屋は、それはそれは良い顔をしていたとのことだ。

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