天網恢々アルケミー

下村智恵理

Project #33 図書室の忌書

1-1. 未知との遭遇

 拝啓、兄上様

 時候の挨拶ってどうやって書けばいいのかわからないので検索したけど、これ書く意味ないなって思ったのでやめます。

 そっちはどんな感じでしょうか? こっちはやっと引っ越しが一段落ついたところです。まだママの段ボールはめっちゃ積み上がってるけど。スリコとダイソーが近いのでわたし的にはハッピーです。

 ママは色々言ってるしお酒も飲んでるけど、家で怒鳴り声が聞こえなくなったのでわたしはこれでよかったんじゃないかなって思います。今度会ってほしい人がいるのってママが言ってました。パパとお兄ちゃんの悪口をずーっと言ってるのはユーウツですが、ずっとご機嫌なのでいいんじゃないかなって思います。

 新しい学校はまあまあって感じです。何も言ってないのにうちにパパがいないことがバレてたけど、なんだかわかんないけどパパがいない子同士で仲良くなりました。

 そんな感じでこっちはそれなりにやってます。そっちはどうですか?

 ド田舎でもせいぜい頑張ってね。 多紀乃


 追伸 コンタクトにしたってマジ? 超ウケるんですけど!!!



 放課後の化学室で、制服の上に白衣を着た金髪のギャルが、牛タンを焼いていた。

 三本足の台の上に金網を置いて、下にはアルコールランプ。落ちた脂を受けるために金属のバットも置いているようだった。部屋の窓は開け放たれていたが、香ばしい香りが廊下まで漂っていた。

 だから、偶然化学室の前を通りかかった安井やすいりょうも、足を止めてしまったのだ。

 慣れないコンタクトレンズのせいで、ありもしないものを見ているのかもしれない。

 三分の一ほどが開いた扉から見える室内の光景に、良は目を瞬かせる。一度、行き交う人に乏しい特殊教室が並ぶ廊下に視線を戻し、それからもう一度化学室の中を見る。やはり、牛タンを焼いているのは、肩にかかるほどの長さの、金髪の、ギャルだった。目を擦っても、三秒目を閉じてみても、やはり金髪のギャルだった。小ぶりなトングのようなもので牛タンをひっくり返そうとしていたが、網にくっついて苦戦しているようだった。

 そもそも、話が違う。

 二年への進級のタイミングに合わせて良はここ、前崎中央高等学校の転入試験を受け、無事合格した。通い始めて二週間ほどになる。一応、旧制第一中学の流れを汲む県内では指折りの進学校である。勉強へのモチベーションがそう高い方ではなく、教科書ではない活字ばかり読んでいる良は最初、転入試験のために頑張って勉強するつもりはなかった。だが、前崎市が故郷である父から、ひどく脅されたのだ。

『いいか、良、前崎には、東京の百倍のギャルとヤンキーがいる。ギャルとヤンキーのパシリにされたくなかったら、一高に行け』

 一高、とは他でもない前崎中央高校のことである。昔の呼び名だが、地元の人は、地域で一番の学校であると一言で伝わる一高という呼び方の方を好むのだという。

 だから本気を出した。転入試験の過去問を取り寄せ、参考書にかじりつき、引っ越しの段ボールを机にして勉強に励んだ。面接や小論文では父の故郷である素晴らしい土地での生活にわくわくしていることを必死で伝えた。すべて、ヤンキーやギャルのパシリにされたくない一心だった。

 にもかかわらず、目線の先に金髪のギャルがいる。

 良が足を止めた時には半生だった牛タンは、今やこんがりと焼き目がついている。金髪ギャルは鼻歌交じりでトングを置き、代わりにスポイトのようなものを持ち出して、黒い実験台の上に置いたビーカーの中から透明な液体を吸い出して牛タンに垂らしている。テーブルの上にはもう一つ、一回り大きいビーカーがあり、中身はやや濁って泡を立てる液体だった。牛タンに合わせる飲み物なのだろうかと考え、我に返った。

 見ている場合ではない。逃げるのだ。

 気づかれたらどうすればいいのかわからない。東京では中高一貫の男子校に通っていた良は、もう四年間、同世代の女子とまともに会話したことがなかった。転入してからは、必死で目を合わせないようにして、「はい」と「どうも」で乗り切っていた。

 ましてや、見るからにギャルな、金髪の女子である。白衣の下の制服は着崩しているし、スカート丈も短い。左の手首には何か金属のブレスレットかチェーンのようなものを巻いている。あまりにもイメージ通りのギャルだった。違うことといえば、白衣を着ていることと、肌が日焼けしていないことくらいだった。盗み見などしていたと知られたら、これから残り約二年の高校生活から平穏が失われてしまうに違いなかった。

 今日も平和に乗り切れたはずだった。クラスでも、一応気兼ねなく話せるグループに混ざることができた。畑中という担任の先生は、転校してきたばかりの良のことを何かと気にかけてくれていた。今日もまっすぐ帰ろうとしていた良を呼び止め、缶コーヒーを奢ってくれた。日本史担当の畑中と司馬遼太郎の話をして、今日は帰り道に書店に寄って、畑中が薦める、読んだことがなかった作品を買って帰ろうと考えていたところだった。

 遠くから、吹奏楽部が奏でているらしい調子外れな金管楽器の音がした。

 金髪ギャルは、とうとう割り箸を取り出し、アルコールランプで炙られる牛タンに向かって手を合わせた。竹の割れる小気味いい音が、廊下にいる良の耳まで届いた。そして彼女は、箸で牛タンを摘まみ、息を吹きかけて少し冷まし、大きく口を開けた。

 その時、目が合ってしまった。

 金髪ギャルの見開かれた大きな目が、確かに良を見ていた。彼女が口を開けたまま動かないので、良もつられて身動きが取れなかった。

 そもそも、学校の三階にある特殊教室が並ぶ廊下にやってきたのは、入る部活を特に決めていない良への、畑中の薦めだった。文化系の部活の活動場所なら三階の特殊教室か一階の図書室周辺なのだという。

 先に一階を見ておけば、こんなことにはならなかった。そもそも、急に一人で部活動中の部屋に行くのも変だ。部活を探すならこの春の新入生たち向けの勧誘イベントまで待てばよかったし、そもそも入る必要もない。前の学校ではSF研究会に所属していたが、肌に合わなくて幽霊部員になっていた。今度は帰宅部でもいいかな、と考えていたのだ。

 変な気を起こしたから、こんなことになってしまった。内心では、新しい環境で心機一転、何か新しいことをしたいとも思っていたが、それが間違いだった。何か部活とか、たとえば恋とか、身の丈に合わないことができるのではないかと勘違いしていた。

 その結果が、蛇に睨まれた蛙、狼に睨まれた羊だ。あの牛タンは自分なのだと、良はふと思った。

 箸の先に掴まれたまま宙に浮いていた牛タンが、金髪ギャルの口の中に消えた。そして半端な姿勢で横目を向けられていたものが、とうとう真っ直ぐ、扉の陰の良を見据えた。

「ひっ……」良は声を上げた。

 頭の中に問題文が浮かんだ。咀嚼される牛タンの心情を答えよ。

 金髪ギャルが立ち上がっていた。箸はトングに持ち替えられていた。カチカチと、トングの先が威嚇するように鳴った。そして言葉を発した。

「おい、お前……」

「見てませんっ!」良の身体が動き方を思い出した。「見てません見てません、何も見てませんから!」

 半ば絶叫しながらの逃走は、全速力だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る