イナンナ、戦慄
「あたしもちょっと本腰入れないとね~」
葡萄酒の飲み過ぎでソファーに埋もれていたイナンナは胸がギリギリ隠れるくらいに着崩した神官服のまま、大神官の部屋を出て礼拝堂へと向かった。灯りを浮かせて真っ暗な礼拝堂を一定空間のみ照らした。天井には女神マリアとマリアの愛し子が人々に幸福を与え、愛されている絵が描かれていた。礼拝堂の最奥には女神マリアの銅像。
大聖堂の最高責任者の恰好ではないと本人がよーく自覚しているが長年このスタイルでやっている。今更変える気はない。
長椅子に腰掛けると自分以外誰もいないのに入っていらっしゃいと声を掛けた。入口から現れたのはイナンナの補佐官アレイスター。三十代半ばであるが若々しい見目をしており、夜だからといってふしだらな姿をしているイナンナに小言を飛ばす。げんなりとしつつ、本題に入ろうと小言を終わらせた。
「イナンナ様が予想した通り、明日アンナローロ公爵がベルティーナ様を返してもらうよう王家から大聖堂に抗議を入れる気です」
「それで」
「モルディオ公爵夫人はイナンナ様達が去っても暫くは留まったようです。モルディオ公爵が迎えに来たのは一時間前です」
「モルディオ公爵夫人の動きは?」
「此処にベルティーナ様がいなくて良かった」
アレイスターが光の球形を造り出すとある光景が映し出された。
虚ろな紫水晶の瞳でアニエスと口付けを繰り返すクロウ。
アニエスは両手をクロウの顔に当ててはいるが、クロウの方はアニエスに触れていない。されるがままとなっていた。
「これを見ると完全に魅了されていないって事ね」
「無抵抗なのに?」
「心が完全に魅了されるとね、相手が望む行動を魅了なしでしちゃうの。アニエスちゃんはきっとクロウ君に抱き締められたいと思っているでしょうね。でもクロウ君はアニエスちゃんのされるがまま。長期に及ぶ魅了の影響で目が虚ろになっていながらも動かないのは、彼がずっと抵抗し続けているって事」
「そうは言いますがベルティーナ様への行為を思うと考えられませんが」
「……あくまであたしの見解だけど、クロウ君は長期で強い魅了を掛けられ続けていたんじゃないかしら」
アニエスは実兄であるクロウを異性として慕っている。ただ魅了するだけではクロウを支配下に置けなかったから、より強力な魅了を掛けて自分の意のままにした。
顎に右人差し指を当てては離し、当てては離しを繰り返し考え込むイナンナを強い焦りの混じった声色で呼んだアレイスター。のんびりな口調で応えると光の球形を見るよう促された。
口付けを繰り返す二人の側にはベルティーナの母カタリナがいて。微笑ましく二人の口付けを眺めていた。
「有り得ない……」
「アニエスちゃんって見られるのが好きなのかしら?」
「やはり、アンナローロ公爵夫人も魅了の餌食に……」
「ええ、そうね。ふむ……アニエスちゃんは見られるのが好き……」
「イナンナ様?」
「うん? ああ、ごめんなさい。アニエスちゃんのお仕置きを考えていたの。アニエスちゃんはクロウ君が好きなようだから……アレイスター、後で金髪の男の子を沢山集めてちょうだい」
「は!?」
イナンナの斜め上な頼みに素っ頓狂な声を出したアレイスター。恐る恐る、何をするのかと問うてもイナンナは終わった後のお楽しみ、十人は金髪で顔の綺麗な子を集めるように命令し。
次の人物が登場し球形に視線を集中させた。
モルディオ公爵ルイジだ。鳶色の髪を後ろに撫でつけた、髪と同じ色の瞳が口付けに夢中なアニエスを愛らしく見つめ、声を掛けるとアニエスはクロウの頬にキスをしてからルイジの腕の中に飛び込んだ。
アレイスターは魅了の恐るべき力にただただ戦慄し、気持ち悪さを覚え。イナンナは愉しげに眺めているのだとチラ見をして違う意味で戦慄した。
あのイナンナまでもが口を引き攣らせ瞠目していた。
「イ、イナンナ様? どうされました」
「……アレイスター。ルイジ=モルディオが人間かどうか調べてちょうだい」
「はい!?」
「彼には魅了に侵され続けた痕跡が全く見当たらない」
澄んだ美しい鳶色の瞳で妻アニエスを愛おしむ姿は理想の夫そのものだろうが、実兄と濃厚な口付けをしていたのを見ていたにも関わらずの姿にイナンナは目を疑ったのだ。
イナンナの説明を受けてすぐに、と走り去ったアレイスター。礼拝堂で一人になったイナンナは球形を握り潰し、長椅子に座り込んだ。
アルジェントは一目見て悪魔だと解った。大聖堂へ入る時、悪魔の魔力を隠そうともしなかったから。人間の娘の側にいると知った時は人間を餌にするつもりかと警戒していたが喰らう気配はなく、暫く監視しているとその娘の従者としてのんびり過ごしていると知り呆れた。魔界で暮らしていた方がずっと贅沢でのんびり出来るだろうに、と。
国王に掛けられた魅了を解く準備は明朝からする。大聖堂で働く神官職に出来の悪い貴族の令嬢令息を押し付けられ頭を悩ませていた所に魅了に掛かってくれた。大聖堂は行き場のない令嬢令息を預かる場所じゃない。どうにかしたいなら人手が不足している地方へ飛ばすなり、修道院や婿入り嫁入りがあるだろうに。
「その前に、ベルティーナちゃんと悪魔王子を避難させなきゃね。丁度良い場所があって良かった」
アニエスがクロウにそっくりなベルティーナを狙う理由を幾通りか考えてみた。自分が考えたがどれも下衆の極み。
予想であってほしいと願うしかない。
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