クラリッサの事情
アンティーク調の家具で統一されたモルディオ公爵夫人アニエスの部屋にて。一人掛けのソファーに座り、スカート部分を握って小刻みに震えているクラリッサ。恐る恐る目の前に座る母アニエスを見た。足を組んでワイングラスを揺らすアニエスは気怠げな吐息を漏らした。
「ねぇえクラリッサ。わたくしは王太子妃になれと一度でも言ったかしら?」
「い、言ってません……」
「そうよね。貴女は可愛いけどそれだけしかないもの。貴女みたいな頭の悪い子が王妃になったら、国は大変よ。ベルティーナを王妃にしてクラリッサを王太子殿下の愛妾か側妃にするのなら話は別だけど」
「い、嫌ですっ、私は殿下の愛妾にも側妃にもなりませんっ。私には好きな人がいます」
「でも、殿下は婚約破棄をしたのでしょう?」
「あれは……私と殿下の計画だったのです」
暗い相貌を見せ、布を握り締める力を強めたクラリッサはあの婚約破棄はベルティーナが泣いて縋ると思った故での計画だと語った。家での立場がないベルティーナがリエトに婚約破棄をされれば、益々立場が無くなり、価値の無くなったベルティーナはアンナローロ公爵に勘当か訳アリ貴族の後妻として嫁がされるかの道しか残らない。強気なベルティーナでも取り乱し、思い留まるようリエトに懇願する計画だった。なのに、余裕の態度は崩さず、リエトの目がない場面では欠伸を漏らし、部屋を出て行く時には清々しい笑みで二人の幸せを願って出て行った。
「クラリッサの好きな人はわたくしも知っているわ。だからこそ、ベルティーナがいたら手に入らない。お解り?」
「勿論です、手に入れる為ならなんでもします!」
「それなら、婚約破棄を撤回させなさい。もう、お兄様ったら、ベルティーナを駒扱いしていてももうちょっと可愛がってくれないと困るわ」
ワイングラスを揺らしながら、空いている手の爪に塗られた濃い紫に金の花を見つめうっとりとする。
「あの子が男の子なら良かったのに……」
「お母様……王太子殿下は……ベルティーナお姉様を愛しておられます、なのに、殿下の気持ちに振り向かないお姉様は酷い方です」
「馬鹿ね。愛していても伝わらない愛なんて意味はないわ。愛は伝わってこそ価値があるものよ」
ワインを一気に煽り、控えていた侍女に葡萄酒を注がせるとソファーから離れクラリッサの前でしゃがんだ。
「クラリッサ、貴女も分かるでしょう? 誰かに愛される事の幸福を」
「はい……」
「貴女が王太子殿下を愛するというなら、わたくしも手伝ってあげるわよ?」
クラリッサは強く首を振った。
「私が好きなのはただ一人だけです。それに……王太子殿下は私を愛しておりません、優しくはしても愛する事はないと最初に言われました」
「ふふ、貴女をとても可愛がるのに愛さないなんて酷いと思わない?」
「殿下はベルティーナお姉様を愛していますから……私も好きな人に振り向いてほしい気持ちはよく分かります。振り向いてもらうにはベルティーナお姉様が邪魔なんです」
脳裏に浮かぶのは愛しい男性の姿。あの声で愛を囁かれ、瞳に見つめられ、触れられれば、至高の幸福に浸れる。
好きな人を手に入れたくて、でもベルティーナが邪魔で、どうするか悩んでいた時にクラリッサは見た。アルジェントに構ってばかりのベルティーナを切なげに、嫉妬の混じった瞳で見つめていたリエトを。てっきりベルティーナが嫌いなんだとばかり思っていたがどうにも違ったらしい。
アニエスに相談すると利害が一致すれば協力してくれると予想した母の言葉に従い、リエトに近付いた。初めは警戒され聞く耳を持たれなかったが、クラリッサの欲しい人がベルティーナから離れればベルティーナもリエトを見るようになると説得すると協力してくれるようになった。
アンナローロ公爵一家と同じでベルティーナの前でクラリッサを可愛がれば、何れ婚約破棄か解消をされるとベルティーナも危機感を持つと。結果はどれも失敗で、どれだけリエトがクラリッサを可愛がろうとクラリッサがリエトに甘えようとベルティーナはまっっったく気にする素振りがない。二人は焦った故に婚約破棄を思い付くが失敗に終わった。
「貴女が王太子妃となって困るのは貴女とわたくし。アンナローロ家の養女にはしても、王太子妃にするつもりは更々ないわ」
「はい」
「考えましょうか。大部分はわたくしがなんとかするから、クラリッサは暫く殿下に会わないでちょうだい」
「分かりました」
クラリッサから離れ、元の位置に戻ったアニエス。ワインを半分飲み、ゆらゆらとワインを揺らす。
——嗚呼、なんて忌々しくて愛しい子。お兄様に一番そっくりであんな強気だなんて。
兄にそっくりなのがビアンコなら良かったのに。若しくは娘のクラリッサ。クラリッサは自分に瓜二つ。勿論可愛いが兄に似ている部分が全くない。夫であるモルディオ公爵は妻であるアニエスそっくりなクラリッサを溺愛している。それはそれでいいのだが、アニエスからすると兄に似た子が欲しかった。
——わたくしが産んであげたかった……
背筋に冷たいものが走り、その場で身震いをしたベルティーナ。持っていた本を危うく落としかけた。本を受け取ろうと動き出そうとしたアルジェントに大丈夫だと首を振り、何だったのかと嫌な予感を抱いた。
「どうしたの」
「よくない前兆かしらね」
「不吉だね」
空気が重すぎる夕食を早く終わらせて部屋に逃げ、息抜きに本を読もうと本棚から引き抜いたらこれだ。
食事中視線を送りつつも、終始気まずげに食事をする両親や泣き腫らした目でチラチラと視線を送るビアンコにうんざりした。意外なのは父だ。終始視線を送って来るだけでいつもの嫌味がなかった。視線だけが鬱陶しかった。母に関しては心配げな瞳を向けていて今更過ぎてこちらもうんざりした。
「アルジェント」
「なあに」
「イナンナ様が話していたマリアの愛し子の他に、他人を魅了する力ってあるのかしら」
「あるよ」
「あるの?」
「とは言え、大神官が話した神聖な力じゃない、俺達悪魔に類する力かな」
人間と何ら変わらないアルジェントは悪魔の中で最高位に属する魔族。その下に吸血鬼、淫魔、夢魔、その他がいる。人間を餌にするその三種族は他者を魅了する術に対し、特に秀でた能力を持つと言う。
「アルジェントって、故郷では高位貴族とかに値するの?」
「ああ、そうかも。でもまあ、俺がいなくても平気さ。上に優秀で俺より強い兄が二人いるから」
「蔑ろにされていたの?」
「いや? ベルティーナに会う前に俺の母親が死んだんだ。兄弟の中で唯一母親に似ている俺を過保護にしだして。あんまりに鬱陶しいから、人間の世界で生活するって言って飛び出したんだ」
ベルティーナと会ったその日が正に魔界から飛び出した日。身形が綺麗なアルジェントが“拾ってください”と書かれた箱に入ったのは、物好きな人間が拾ってくれるかもと期待して。物好きな人間——ベルティーナーーが見つけ、拾った。
「そういえば、あの時私は何時間後にアルジェントを拾ったの?」
「あまり時間は経ってなかったかな。何人もの人間に見られていたけど、実際に俺に近付いて声を掛けたのはベルティーナだけだよ」
普通は気味悪がって近付かないか、好奇心に溢れても近付かないかのどちらか。当時から一人ぼっちなベルティーナが箱に入っているアルジェントに近付いたのは寂しさを紛らわせる為と綺麗な身形をしているのに拾われたい男の子の理由を知りたかった。
帰る家が無いのかと聞いても違い、捨てられたのかと聞いても違う。衣食住を提供してくれる人間を待っていただけだと。
「今からでも貴方を扱き使う私じゃなくて、もっとぐうたらさせてくれる人間を探す?」
「酷いなあ。拾ったなら最後まで面倒を見てよ、飼い主さん」
「ふふ、当然よ」
持ち帰ったアルジェントをペットにすると宣言はしても、彼は大事な友達で唯一の理解者で協力者だ。
「アルジェント、欲しい物はない?」
「突然だな。あまりないかな」
「物欲がないわよね」
「ベルティーナもね」
欲しがらなくてもアンナローロ家の娘なのだからと定期的に高価な装飾品やドレス、本等が与えられ個人的に欲しいと思う物に出会わない。ソファーに座ったベルティーナは持っていた本を膝に置いた。題名は『兄妹の関係』。叔母アニエスと父クロウの仲の良さは異常だ。今日は出掛ける時間では無くなっているのでまずは書物から知識を得ようと書庫室から見つけた。
ベルティーナが知る令嬢令息で兄弟のいる者は多い。あの二人並みに仲良しなのは心当たりがない。皆、適度な距離感を保っている気がする。
悪魔でも体をベタベタ触る仲良し兄弟がいるのかと問うと苦笑され首を振られた。
「少なくとも俺の知る限りない。あの二人……特にモルディオ公爵夫人が異常なのさ」
「そう言われると、いつもベタベタしているのは叔母様でお父様から触れているのを見たことないわ」
「一つ言えるのは、君の母親はかなり心の広い人間だって事。いくら妹だからって、夫の体に密着する女を微笑ましく見守るなんて、本当は公爵を愛していないか別の理由があるのか」
「別の理由……」
言われて浮かんだのがイナンナの言っていたマリアの愛し子。だが四十年前に産まれて以降は産まれていないと語られ、愛し子なら大神官たるイナンナが気付く。
「お父様と叔母様の仲の良さの理由が解れば、クラリッサ可愛いも少しは分かるのかしらね」
「どうだろうね」
「知って後悔はしても、知らないまま後悔するのは嫌。とことん調べるわよ!」
「はーいはい」
控え目に扉がノックをされるも、調べ物に夢中なベルティーナは気付かず、ベルティーナの集中を邪魔したくないアルジェントは聞こえない振りをした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます