うちのお嬢さんは、モノじゃあないんだ

 空気が揺れた。

 揺らぎの正体は分からない。目に見えない壁が、揺らぎをあやふやにしている。

 部屋全体に強い魔法がかけられているのだと、ティファナはようやく気付いた。


 扉の小窓に目を向けると、見張りが騒いでいるように見えた。

 見張りの交代の時間なのか。それとも新たに誰かが、魅了の力を持つ自分を見物に来たのか。



「どうやら魔物のお前を受け入れる準備を整えているらしい」



 扉に目を向けるティファナに、ヴィランがくっくと笑い声をぶつけた。

 腹の底を抉るような笑い声に、ティファナは数瞬吐き気を覚える。



「……私は」


「決めろ、ティファナ。なにも心配することはねえ。今までだって可愛がってきてやったじゃあねえか?」


「……私……は」


「俺の手を取れ、ティファナ」



 差し出されるヴィランの手。

 これまで何度もティファナを虐げてきた、恐怖の。


 屈するのか。

 ここで。


 屈すれば、きっと楽になれる。


 灰色に映る凶悪なヴィランの手。これを取れば楽になれる。



 ティファナはヴィランに手を伸ばそうとした。


 瞬間、わずかに眩暈。



 灰色の手が、灰色の景色が、眩暈に溶ける。






『……知っているか?』





 どこかから声が聞こえた。



『知っているか? シルフィ』



 心のどこかから、声。

 ガビンの声のようで、アレンの声のようでもあった。



『知ってるか? シルフィ。アンドラズスがなぜ大きくなれたのかを』



 声とともに、森の景色が見えた気がした。

 あの日、仲間たちと見た景色だ。


 地の底から這いあがろうとして、差し出された仲間たちの手を思い出す。


 あの手は、目の間にあるこの、灰色の手のようであっただろうか。



「…………取らない」



 シルフィの口から、震えた声がこぼれた。

 それはあまりに小さく、ヴィランには聞き取ることができなかった。しかし抵抗を示したのだと、ヴィランには分かったらしい。表情が次第に曇り、眉間にしわが寄っていく。



「…………なんと言った? ああん?」


「……あなたの、手は……取らない」


「イカれちまったのかあ? ティファナ!?」


「イカれて……ない……! 最初に言った通り、私は……もう……あなたの仲間には、ならない……!」


「っはー!! そいつをイカれてるって言うんだ!! この脳なしティファナアア!!」



 ヴィランが怒鳴る。

 差し出してきた手を振りあげ、ティファナに殴りかかろうとする。


 直後。

 扉から爆ぜるような音がひびいた。同時に、なにかがティファナの横を駆け抜けていく。


 それが人間だと気付くには、時間がかかった。

 あまりに人間離れした動きであったからだ。



「……ぃ……っ……」



 驚きのあまり、ティファナは上手く言葉を発せられなかった。

 目の前にいたヴィランも同様で、腕を振り上げたまま固まっている。いや。振り上げた腕を掴まれている。突然現れた人間の手によって。



「……っ……ア、アレン!?」



 ようやく絞りだした声。

 目の前にいるアレンの背に投げかける。振り返ることはなかったが、間違いない。もう二度と会うことはないと思っていたアレンだ。



「てめえ!! なんの真似だあ!!??」



 ヴィランが喚いた。

 アレンに手を掴まれたまま、必死に抵抗している。しかし振り払えないのか、身体を前後に揺らすのみであった。



「て、てめえ!? 熊猫団の、アレンだ、な!?」


「そうだ」


「こんなことをしていいと思ってんのかあ!? そこの女は俺のモノだぞ!?」


「……モノ、だってえ?」



 アレン以外の声が聞こえた。

 シルフィの後ろへ歩み寄り、小さく息をこぼす。



「うちのお嬢さんは、モノじゃあないんだ」



 ティファナの後ろで、声が震えた。

 合わせて、大きな腕がティファナの肩の上に乗る。それは人間の手ではなかった。白と、黒の毛が入り混じった大きな獣の腕。



「……テイ……ザット、さん?」


「あっはは。シルフィちゃん。君にはあとでたっぷりお説教するけど、その前にやることがあるんだ。待っていてね」


「……え」


「さあ。ヴィラン。この道具がなにか分かるかな……?」


「……あ? なんだあ!?」



 アレンに腕を掴まれたままのヴィランが首を傾げる。

 熊猫の腕になっているテイザットの手には、小さな金属片があった。

 手の動きに合わせ、金属片から光がこぼれ、ちらちらと照る。



「……そいつあ、ペ……ペノトの……!?」



 ヴィランの目が大きく見開かれた。

 唇がかすかに震えている。怒りに、焦りが混ざったような表情へ変わっていく。



「そうさ。これはペノトの裁判の鏃」


「な、なんでそれを!?」


「冒険者ギルドから借りたに決まってるでしょ?」


「……バカか!? こんなことに……そんなモノ使いやがって!!」



 ヴィランが苛立った声をテイザットにぶつけた。

 当然そう思うだろうと、ティファナも内心ヴィランに同意してしまう。ペノトの裁判の鏃が、このようなパーティ間の諍いに使われることなど、まず無いからだ。



 ペノトとは、金属に宿る能力を持つ魔物の名である。金属に宿っていなければ非常に弱いため、人間には大きな害がない。いや、むしろ重宝されていると言っていい魔物だ。金属に宿る以外に、特殊な能力を持っているためである。


 その力とは、公正な裁き。

 どのような諍いも、魔法の力で公正に善悪を見定めるというもの。


 大事の裁判では、ペノトの裁判の鏃がよく用いられるという。

 しかし小さな諍いではまず使われない。ペノトが能力を発揮するためには、黄金が必要となるからだ。



「……テイザットさん、その……お金はどうやって……?」



 ティファナは恐る恐る尋ねた。

 するとテイザットがにかりと笑う。



「熊猫団の有り金全部使っちゃったあ!」


「……え」


「いやあ、緊急事態だしい? 別にいいかなって」


「……あの、借りているお部屋は――」


「引き払ったあ!」


「……えぇ」



 清々しい答えに、ティファナはなにも言えない。

 代わりにアレンがなにか言うかと思ったが、一言も発することはなかった。ヴィランの腕を掴んだまま、微動だにしていない。そして未だ、ティファナに目を向けようともしなかった。自分に対して怒っているのだろうと、ティファナは肩をすくませる。



「とりあえず……! この鏃の裁きは、すべて冒険者ギルドに伝わる。悪者にはそれなりの制裁があるってわけ。お分かり?」


「おい、パンダ野郎! ティファナはまだうちのメンバーなんだ。裁きなんざ必要ねえんだよ!」


「それはどうかなあ? ヴィラン。君の悪い噂はよくよく聞いているよ?」


「……ああん?」


「杜撰な魔物退治とか、依頼者に直接高額の報酬を要求するとか、一般人への乱暴とか。まあ色々たくさんねえ? そういえば同じパーティメンバーへの虐待もあるとか」


「……っはー!? 知らねえなあ?? それに今は、そんなこと関係ねえ!! お前らが欲しがっている女は、俺と新しい契約を交わすことになってんだ!! お前らとじゃなく、俺とな!! 分かるか!? そいつは俺のモノなんだ!!」



 ヴィランが意気揚々と喚いて語る。アレンに腕を掴まれたまま。

 そのヴィランに向け、テイザットが腕を伸ばした。獣の手に、ペノトの裁判の鏃が乗っている。すでに裁きがはじまっているらしく、鏃からは光が溢れ出ていた。

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