第3話 義務と犠牲

「こんなときになぜ昔のことを?」


 走馬灯のように駆けたのは、思い出などといえないつまらない記憶。

 呆れと虚しさから思わず声が出たが、それでも目の前の光景は変わらなかった。


 数歩前に進めば、この手を伸ばせば、触れられる距離にあるもの。

 でも手を伸ばせず、俺はその石像を見ることしかできなかった。


「セリス」


 ただの女神の石像なら良かったのに……ただの、俺の妻であるセリスの顔とうり二つの顔をした女神の像なら。


「誰が作ったんだか……こんなに腕のよい者なら褒美をやらないと。そうだ、子が生まれた記念にセリスと子の……セリスの……」


 分かっているけれど信じたくない。


 手を伸ばして石像に触れれば、ざらりとした石の感触。

 風化してしまうのではと、触れていた頬の部分を押さえれば、俺の手の平はセリスの頬に触れたときと同じ弧を描く。


「……冷たい」


 手に感じるのは冷たさで、セリスの温もりはどこにもなくて、


「どうして……セリス」


 石像になってしまった妻は俺の疑問に答えることなく、静かに佇んで俺の体温を奪っていった。


 いつまでそうしていたのか。

 肩に手を置かれ、その手を追って顔をあげるとお婆様がいた。


「お婆様」


 普段の俺なら「陛下」と呼ぶのに、なぜか俺の口からは幼い頃の呼び名がでてきた。


「ロシェ」


 俺がそう呼んだからか、普段はお互いの立場を明確にしるために俺のことを呼ぶお婆様も俺を愛称で呼んだ。

 この愛称で呼ぶのは三人だけ、お婆様と亡きお爺様、そしてセリスだけ。


「どうして、ここに?」

「セリスが王皇后宮に来て……この子を、私に」


 そういって腕の中の布の塊を傾けると赤ん坊が寝ていて、まだ赤いその顔の傍には見覚えのある青い鳥の刺繍。

 いつかの夜に、これから産まれる子どものためにと、おくるみに刺繍をしていたセリスの顔を思い出す。


 幸せを運ぶ青い鳥。


「俺はセリスにこの子を連れて離宮に行けと、逃げろと言ったんです」

「セリスは……あの子は【聖女】の義務があるからって」


 お婆様の腕はすっかり細くなっていたが、赤子をしっかり抱いていた。

 これが自分の使命なのだと言うかのように。


 聖女の、義務……


「おお、聖女様が我々を守って下さった」


 泣くお婆様をなぐさめることもできずにいた俺の耳に、静かだった空間に不似合いな歓喜の声が響いた。

 顔をあげずに目だけを向けると、いつの間にこんな近くに来たのか、白い装束に身を包んだ神官がいた。


 歓喜の声の主はこいつだ。

 喜色に満ちた顔に不快感がわく。


「陛下、深淵の森には再び強固な結界が張られました!もう大丈夫です!さあ、急ぎ騎士団を派遣して討ち漏らした魔物の討伐を御命じ……」

「黙れ!」


 騎士団の派遣を進言することはできない一介の神官の過ぎた発言に、それが正しい対処法だと分かっていても、義務を果たせと言わんばかりの発言に苛立つ。


「……なにが、大丈夫なのだ?」

「それは、当然聖女様が結界を……聖女様はその身を犠牲にされましたが、それも聖女の使命……うあっ」


 最後まで聞きことなく、いつの間にか立ち上がっていた俺は神官を殴り飛ばしていた。

 神官の頬の骨にあたったらしく、拳が痛い……セリスに、痛みはあったのだろうか。


「陛下!こちらにいらしたので……お、王妃様!」


 俺を探していたらしい、戦装束のまま駆け込んできた近衛騎士の一人が部屋に入ってきて、驚いた声を出す。

 セリスを【聖女】と呼ばなかった彼のおかげで、俺は少しだけ冷静になり、抜いていた剣を鞘におさめた。


「聖女であるが、それよりもセリスはこの国の……俺の妻だ。彼女の犠牲が使命だったなど二度というな。俺と俺たちの子の前では絶対に」


 ダメだ……王として俯いてはいけないと分かっているのに……


「みな、外に出なさい。近衛、そこの神官を連れて行きなさい」


 お婆様の凛とした声に、近衛兵は敬礼したあと呆然としていた神官の襟を引っ張るように立たせると外に連れ出した。


「魔物の討伐に向かった兵士たちはみな無事なの?」

「はい……ゲートを使った俺たちよりも早く、魔の森を視界に入ったあたりで結界が深淵の森を覆おうのを見ました」


 馬で駆ける俺たちの何倍もの速さで追い越していった金色の光。

 初めて見るものだったが聖女の結界だと分かった。


「確認のためしばらく観察しましたが、騎士団が束になっても敵わない大型魔物の攻撃でも壊れていませんでした」


 三十年に一度生まれる【聖女】たちが定期的に深淵の森に行って補強し、長く維持し続けてきた初代聖女の結界。

 ローナだけが【聖女】だった時代に一度も補強されなかったため、ボロボロだった結界はあちこち穴があき、その後【聖女】になったセリスが補強をしたが二十年の空白を埋めることには時間がかかっていた。


 大型魔物が出てくることを防ぐことを優先にしたため、補強が間に合わない穴から出てきた中型の魔物たちには騎士たちもてこずり、少なくない数の人間が魔物に食われた。


 そんな事態だったから、あの神官が結界の穴が塞がったことを喜ぶ気持ちは、少し冷静になれば分からないではないのだ。

 俺だって、身を犠牲にした【聖女】がセリスでなければ、その女性の犠牲を「功績」と称えて終わりにしていただろう。

 

「ごめんなさい……ロシェ、本当にごめんなさい」


 お婆様は涙で体を震わせたが、腕の中の赤子を決して放そうとはしなかった。

 赤子の温もりがお婆様の正気を保っているようで、俺も赤子を受けとろうとは思えなかった。


「私が、私の理想をあなたたちに押し付けてしまったの……国民のための【王】であれ、世界のための【聖女】であれ、と」


 赤子を抱くお婆様の腕に力がこもる。


「セリスは出産したばかりで神力が不安定だったのに、自分でも分かっていたはずなのに、【聖女】だから……私がそうさせてしまったの」


 涙声で語られた説明によると、セリスは出産による出血がおさまって直ぐにお婆様の宮に行ったらしい。

 血を大量に失った青白い顔で、両脇を侍女たちに支えられないと立っていることもままならなかったという。


 いまの結界はボロボロで使えないから、その上から新たな結界をはる。

 そう言ったセリスをお婆様は止めた。

 結界の穴を直すだけで三日は寝込むほど憔悴していたのだ、止めたのは当然のことだといえる。


「私はどんな手を使ってでも止めるべきだった……でも、思ったよりも近くから魔物の声が聞こえて……思わずセリスの手を放してしまったの」

「セリスのことです、どんな手を使おうと止まらなかったでしょう」


 その場にいなかった俺は何も知らないが、淑やかな容姿に似合う優し気な瞳に強い意志を込め、怯まず前を向くセリスが浮かんだ。

 だって頑張るセリスを一番傍で見続けてきたのは俺なんだ。


「…ぁ」


 お婆様がかかえていた布が動いて、小さな泣き声が聞こえた。

 自然と俺の腕が伸び、お婆様はためらったものの俺の腕にあずけてくれた。


「すまない」


 セリスののこしてくれた子への謝罪は、セリスへの謝罪だったかもしれない。

 いまとなっては手遅れだが、俺は謝ることしかできなかった。



「すまない……本当に、すまない」

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