第19話 少しだけ違ういつもの朝で
朝が憂鬱なのは幾つになっても変わらない。
ただの高校生の身ですらこれなのだ。これから大人になって職について、そんな身で迎える朝はいったいどんな恐怖をこの身に刻み込むのだろう。そう考えると今から気分がマリアナ海溝の底を目指して一直線だ。
それは今日の朝も同じことで、高校一年生の時からちっとも変わっていやしない。だけど今日に限ってはどうやら少しだけ違うらしい。
「屋凪君、ちょっといい?」
それは、俺が教室に入ると同時に入り口近くにいた女子生徒が訝し気な表情で俺に声をかけてきたことがきっかけだった。
「あーえっと、どうかした
こちらの名前を呼んだのは、現在の2-Cの教室で俺の隣に座っている女の子だった。進級したてのこの教室で数少ない名前と顔が一致する人物だ。現在はどうやら仲のいいクラスメイトと朝の歓談を楽しんでいたようだが、俺の顔を見つけ次第なにやら言いたげな表情でこちらに近寄ってきた。
「……私の名前覚えてくれたんだ」
「昨日シャーペンの芯貸してくれたから」
「そ、そんな理由……」
苦笑いを浮かべるあたりに俺に対する印象の悪さを感じる。さっきの友人に去年のクラスメイトが混じっている辺り、きっと彼女から俺の話でも聞いたのだろう。
「それよりもどうかしたか?」
「あーいや、あれについて聞いておこうと思って……」
そう言いながら彼女は自らの席の方へと視線をやった。先ほど述べた通り、彼女の机は窓際後方に位置する俺の席の隣の場所だ。
窓の向こうに広がる爽やかな春空。楽し気に談笑するクラスメイト達の笑い顔。そんな中において、その異物はひときわ目立って俺の視線をその一点に留めてくる。
「20分ぐらい前に急に教室にやってきてさ、咄嗟に場所を教えたんだけど……」
「あ……あぁ……なるほど」
彼女の席には一人の女子生徒が座っていた。黒真珠のように艶やかな髪が今日も一段と目を惹いた。そんな髪の下から時折覗く不安げな顔が、騒がしい朝の教室においてもやたらと絵になっていた。
「屋凪君、お嬢とどういう関係?」
「あーいや、その……なんというか一言で言い表すのは結構難しくて……」
「……ふーん、ヒメちゃんといいお嬢といい、意外とモテるんだね」
「なんか棘のある言い方だなぁ」
厭味ったらしいことを全く隠さずに言い放つ向井さんの様に俺は軽く好感を覚えた。屈託のない笑顔に俺を乏しめようといった意図は全く感じないし、何より新しいクラスメイトに声をかけられたことがシンプルに嬉しかったからだ。
「ってかだいぶ待ってるみたいだから早く行ってあげなよ」
「そうだな、悪いな、わざわざ声かけてくれて」
「そういうときはありがとうがいいなー」
「……それもそうか、ありがとう」
軽く礼を言うと、向井さんは「あいよー」と親し気に手を振りながら元のグループへと戻っていった。
「さて……」
俺はというと、自分の席に向かうのに少々躊躇っていた。
このクラスが始まってまだ三日とはいえ、彼女の存在はあまりにもこの2-Cの教室においては異物に等しい。突如現れたそんな存在を気にしているクラスの連中が多いことは俺でも手に取るようにわかった。まぁ、特に男子の方がその気が多いということも含めてなのだが。
とはいってもいつまでもここで気後れしているわけにはいかない。
「おはよう、お嬢」
俺はできるだけ平静を装うと精一杯の作り笑いで彼女にそう声をかけた。
「…………おはようございます。随分と遅い登校なのですね」
ぷぅ、と柔らかそうな頬を膨らませながら、お嬢は露骨に不機嫌さを表に出した。
脳裏によぎったのは昨日の影山さんとのやり取りだ。
不味い。もしお嬢の機嫌を損ねてしまったことがバレてしまったら、いよいよ小早川グループに消されてしまうのではなかろうか。そうなってしまってはおしまいだ。俺はまだ追いかけているラノベの新刊も、先日撮りだめておいた前クールの覇権アニメも残っている。
「わ、悪いまさか昨日の今日で、しかも朝っぱらから来るとは思ってなかったからさっ! だから俺の存在を消すのはもうしばらく待ってもらえないか。 せめて孫たちに囲まれながら病院のベッドの上で老衰で安らかに眠りにつくぐらいまでっ!」
「ふふっ、……小早川はそんなことしません。ってかなにちゃっかり人生最後まで楽しんでらっしゃるのですか」
さっきまでの表情とはうってかわって、お嬢は昨日も見た柔らかな笑顔を浮かべた。
「……なんだ、演技だったのか」
「えへへ、驚いちゃいましたか?」
「正直肝が冷えたよ。まぁでも、待たせたのは本当にすまん」
「別に構いませんよ。なにも連絡なしに伺ってしまったのはわたくしの方ですので」
そういえば昨日は濡れた姿と姉の私服を着ているところばかり見たせいで、改めてきちんとした姿で出会うお嬢は今日が初めてなのだということに気づいた。
なんというか、やっぱりお嬢は華のある女の子だ。艶やかな黒髪も、しなやかな手足も、小さく上がった口角も、ピンと伸びた背筋も、なにもかも本当に品がある。
「……どうかしたのですか?」
「あぁいや、校内で男どもが話題にするのも当たり前だなと思って」
「もしかしなくても褒められてます?」
「あぁ、お嬢は座ってるだけで絵になる」
「ふふっ、そう言ってくれるのは屋凪さんだけです」
いつものように思ったことをつい口にしてしまったが、存外お嬢は俺の発言を気には留めていないようだった。
言われ慣れてるのかいないのか、はたまた俺の言葉なんて気に留める必要すらないのか。後者だったら落ち込むが、まぁ、だったら気に留められたらなんだって話だからこれでいいのだ。
「で、朝っぱらからわざわざ来てくれたのは昨日のことだろう?」
彼女が早朝から他所様のクラスに来てまで成し遂げたいことなんて一つしか心当たりがない。
『思い忘れ』
それはお嬢が自らの恋心に納得を見つけるための覚悟。
その覚悟に付き合うために俺は協力を提案した。
「……はい。やっぱりわたくしは思い忘れを成し遂げたい。その、あの、だから屋凪さんには改めてご迷惑をおかけするとは思うのですが……」
「もちろん協力するさ。だって俺は――」
「作戦参謀だから、ですよね」
そう言って笑うお嬢は、やっぱり相変わらず吸い込まれてしまいそうに綺麗だった。
「そ、それじゃあ早速話を進めたいんだけど……」
「ええ、わたくしに出来ることならなんだっていたします」
これからの作戦計画を進めるためにお嬢が座っていた椅子を俺の机の方へと寄せたその時だった。
「ろーくー君っ!?」
俺の前方、つまり間島の席に見慣れた少女がどっかりと腰を下ろした。
「朝からなに私以外の女の子と仲良くしてるの」
そこにはふくれっ面のヒメが何か言いたげな表情でこちらを睨みつけていたのだ。
「あ、いや、えっと……」
「せっかく昨日考えた私の作戦を教えてあげようと……って、お嬢?」
どうやらヒメは俺の隣に座っていた人物に気づいたようだ。
「ご、ごきげんよう、ヒメさん」
そしてそんな様子に当のお嬢も困惑気味だ。ってか二人とも知り合いだったのか。まぁ、顔の広いヒメのことだ。どこかでお嬢と面識があっても何らおかしいことはない。
「えっと、もしかしてわたくし、二人の朝の貴重な逢瀬の時間をお邪魔してしまいましたでしょうか?」
不安げな表情のお嬢に、しかしヒメは乾いた笑いで一つ応える。
「ないない。私とロク君はそういう関係じゃないよ。第一ロク君、私の好みじゃないし」
「なんかすごい悲しいお知らせが流れていったけど、まぁそういうことだ」
俺とヒメは謂わば戦友だ。『負けヒロイン』を幸せにする活動をしたいヒメと、そんな活動に協力していきたい俺。
「じゃあいったい朝からどんなお話をするつもりで」
「ヒメの野望を俺が手伝ってるんだよ。俺は作戦参謀。そしてこいつが――」
視線を送った先では、ヒメがどこかうずうずとした表情でその時を待ち構えていた。
「そう、私こそがSMS同好会のリーダー、
そう言い放ったヒメは何かを成し遂げたかのような満足そうな表情を浮かべていた。
「それって昨日屋凪さんが言っていた……」
ヒメの名乗りに呼応するように、俺にだけ聞こえるようなボリュームでお嬢が小さくそんな言葉を零した。
「それで、お嬢はどうして朝っぱらからロク君と居るの?」
「お嬢の抱える問題を一緒に解決する。だからその顔はまだ早すぎるぞ」
ヒメを咎めるかのような俺の言葉に、しかし状況を理解したのか彼女は一つ口元に笑みを浮かべる。
「なるほど。その問題、我らSMS同好会が協力いたしましょうっ!」
こうして使命感に燃える我がリーダーの声をきっかけに、俺達SMS同好会は改めてお嬢の『思い忘れ』に協力することになるのだった。
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