第16話 『思い忘れ』

「思い忘れ……?」


 俺の問いかけに呼応するように彼女は手元の通学鞄から一冊の手帳を取り出した。


 その表紙には見覚えがある。俺が橋の上で彼女に荷物を届けたときに、真っ先にお嬢が無事を確認したのがその手帳だったはずだ。


「どうしても、忘れてしまいたいことってあるじゃないですか……」


 今時の女子高生らしい可愛らしいデザインのそれをパラパラとめくると、お嬢はその中から一枚の紙きれを取り出した。


「これは皆様と一緒に去年の秋に撮ったものにございます」


 そこに映っていたのは制服姿の若い4人の男女だった。中央の背の高い少年を筆頭に、それを囲むように3人の女の子が並んでいる。その一番端、どこか照れ臭そうにカメラに向かって笑っているのがお嬢であることは間違いようがない。


「……友達か?」

「はい、去年同じクラスでわたくしに良くしてくださった方々です。文化祭の後に、思い出だって彼の友人が撮ってくれたものなのです」


 そう告げるお嬢の表情だけで、俺は彼女が何を言いたいのかすぐに分かってしまった。


「……好きだったんだな、こいつのこと」

「やっぱりわかっちゃいますか」


 話の流れと今のお嬢の表情を考えるに、そう結論付けるのは容易だった。


 中央の男は俺から見ても一見すると気が弱そうに思えてしまう。顔は確かに女受けしそうな優し気な見た目をしているが、それだけでお嬢が惚れるとは思えない。


 きっと俺の知らないところでこの前のヒメ達みたいな一口じゃ語れないエピソードがあって、その結末として今みたいなお嬢の表情が生まれてしまったことには違いない。


「お嬢が忘れてしまいたいことって、そいつへの恋心なのか」

「……屋凪さんは察しが良すぎてちょっと嫌いです」

「そりゃ悪かったな」


 自嘲交じりに笑みを零すと、お嬢はすぐにその写真を少しずつ小さく引き裂いた。


「良かったのか?」

「この写真の場所は、思い忘れが終わりましたゆえ」


 引き裂いた写真をさらに細かく手で裁断し終わると、まるで自分の気持ちに踏ん切りをつけるようにゴミと化してしまったそれを通学鞄の外ポケットへと放り込んだ。


「家に捨ててくれてもいいんだぞ」

「……こればかりはさすがに自宅で処分いたします」


 写真を千切る仕草や先ほどの語り口から言って、きっと彼女はもう何度も似たような行為を行ってきたのだろう。


 思い出を忘れてしまうための行為。


「……だから思い忘れ、か」

「思い出を忘れてしまえば、こんな苦しい気持ちもいつか忘れてしまうんじゃないかと思えるのです」


 そんなこと本当にできるんだろうか。忘れるという行為は、それそのものが記憶から薄れてしまうがゆえに起きやすい出来事だ。


 本人にとってそれ自体が重要な事柄じゃなくなっていくからこそ起こってしまう脳の欠陥。


 だからこそ、大事なことはいつまでも記憶のどこかにこびりついてしまう。


「……本当は、そんなことないって分かってるんです」


 ぽつり。まるで心の奥から絞り出すように、お嬢は小さくそう零した。


「本当に好きだったっていう気持ちがそんな簡単に無くなってしまうわけが無い。私が記憶喪失にでもならない限り、そんなことは万が一にでもあり得ないんです」

「……ロクでもないことを言うなよ。みんなお前に覚えていてほしいに決まってる」

「あはは。やっぱり屋凪さんは優しいお方です」


 ソファに浅く腰かけたお嬢はそのまま勢いよく天井を見上げるように体を倒した。まだ乾ききっていない艶やかな黒髪がだらりと力なさげに彼女の体を這うように垂れていく。


 ヒメと違って姉の服がぴったり着こなせてしまうぐらいに華奢な胸元が、彼女の呼吸に合わせて寂しげに小さく上下していた。


「……じゃあどうしてあんなことを続けるんだ?」


 思い出を忘れたいがために写真を引き裂いてしまう行為は、まるでそれ自体が彼女自らが自身を傷つけていくような行為にも思えた。


「……吹っ切りたかったのですよ」

「吹っ切る……?」

「…………もう大丈夫だって、思いたかった。例え小田切おだぎり君が真白ましろさんと両想いになったとしても、そんな二人を心から祝えるわたくしでいたい。一つの心の区切りが……欲しかった」

「それが思い出の場所を巡ることで果たされると?」

「……わたくしは、そう信じておりました」


 いつかヒメが言っていた。


 失恋は、世界から自分が弾き出されたかのような喪失感を味あわせられるのだと。


 『思い忘れ』はそんな彼女が再び世界の中に戻ってくるためのいわば儀式なのだ。


 これは理屈や理論なんかじゃない。ただ納得のために。どれだけそんなことをしても無駄だと思われても、お嬢自身が納得しない限り世界への帰還は果たされないのだ。


「でも、それもやっぱり難しくなってしまいました」


 不意にお嬢の表情が柔らかくなった。


 さっきまであんなに難しい表情をしていたのに、それが最初に彼女と出会った時のようなものに変わっていく。


「難しくなったって……」


 俺の言葉に答えるように、お嬢は先ほどの手帳からもう一枚の写真を取り出した。


「彼とわたくしが最初に撮ったものだそうです」


 そこに映っていたのは二人の小さな子どもだった。


 外国の人形のような綺麗な装飾が施されたドレスを身に着けた女の子が、どこか似合わないタキシードを着た男の子の横で笑っていた。


 手渡された写真の手触りからして、その一枚がそれなりの時を過ごしてきたことがすぐに分かる。


「……思い出の写真なんだな」

「物心ついたころから大切にしているものなのですが……。屋凪さんはその写真がどこかお分かりですか?」

 

 そう尋ねられて再び写真を見てみるものの、何か石造りの建物と木製の扉が見えるだけで、どこだかさっぱりわからない。

 

「いや、えっと……。すまん、どこだかさっぱり」

「まぁ、そうですよね……」

「それがどうかしたか?」


 お嬢の表情は柔らかいが、それは決して何かが前に進んだからと言う訳ではない。むしろ逆だ。彼女の顔に浮かんでいるのはある種の諦観。諦めに近いような感情だ。


「……わたくしにも場所が分からないのです」

「場所が分からないって……」


 橋の上での突拍子もない行動や先ほどまでの話を鑑みるに、彼女の思い忘れに大切なのは『場所』だ。思い出の場所に赴くことによって、ようやくお嬢は自らの気持ちに踏ん切りをつけられる。


 それが分からないということは、彼女の『思い忘れ』が完遂されないということだ。


「記憶をどれだけひっくり返しても、家族に聞いても、誰もその場所を覚えていないのです。この街のどこかということは確かなのですが……それも一人では限界が参りました」


 しかしお嬢の諦めとは裏腹に、俺の頭の中には別の言葉が湧いていた。


 人生ってのは思い通りにいかないことばかりだ。その過程でたくさんの後悔が付きまとうことはある種の必然といえるだろう。


 幼馴染の背中を押したことだって、仲良くなった女の子に気の利いた言葉をかけてやれなかったことだって、何もかもが後悔の連続だ。だけどそれでも、たとえ間違ったって歩くことだけは止めちゃいけない。


 そんな後悔だらけの人生だからこそ、出来ることだってあるはずなのだ。


「……何か、俺が手伝えることはあるか?」


 そう口にした瞬間、口元に自然と笑みが零れた。屋凪緑郎やなぎろくろうという人間はいつからこんな男になってしまったんだろうか。


 女の子と喋るのですら精一杯だったのに、いつの間にか随分とカッコつけたがるようになってしまった。


「でもそんな、これはわたくし一人の問題で……」

「橋で助けたとき言ったろ、協力することはやぶさかじゃないって。それは別に家でシャワーを貸すことだけに限った話じゃない」

「……どうしてそこまでしてくださるのですか?」


 上目遣いでこちらを見つめるお嬢の視線が俺と交差した。寸分の期待と、だけどその期待に決してすがってしまわぬようにという強い思いが伝わってくる。


 こんな時ヒメならなんと言うだろう。まぁいいか、俺は俺だ。俺なんかができる範囲でなんだってやってやる。


「それは俺が――SMS同好会の作戦参謀だからだ」

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