第15話 重なる想いと微笑みのワケ

 どこかでずれてしまった人生が、気づけばもう修正できないほどに奇妙な方向に進んでしまっていたことに俺は今更ながらに気づいた。


 ガラス越しに聞こえる水音に出来るだけ聞き入らないようにしながら、俺は真希姉のタンスからひったくってきた女性ものの衣服を洗濯機の上にそっと置いた。


「着替え、良かったら使ってくれ」

「助かります」


 浴室の向こう側から扉一枚を隔てて聞こえてくる小早川さんの声は、先ほどより幾分か明るく聞こえた。


「まさかこんなことになるとは……」


 我ながら自分の行いに頭を抱えてしまいそうだ。


 日本有数の大会社のご令嬢。おまけに性格もルックスも一級品と来たもんだ。そんな人物が俺の家でシャワーを浴びている。きっと一年前の俺に言っても高熱で見た幻覚か寝不足による妄想を疑ってしまうに違いない。


 これもきっと、どこぞの『負けヒロイン』を雨の日に拾ってしまったのが原因だ。


「替えの衣服まで用意してくださり助かりましたわ」


 若干浮ついた心を何とか鎮めようと冷蔵庫から取り出した麦茶をこれでもかと胃の中に流し込むこと数十分、俺の用意した着替えに袖を通した小早川さんが未だしっとりと濡れた髪にタオルを通しつつリビングの方へとやってきた。


「……おぅ、なんかすごいな」

「……?」


 俺の視線に小首をかしげながらこちらにやってくる小早川さんへと近くのソファを案内すると、彼女は上品に腰を下ろして再び髪へとタオルをあてる。


 なんというか、それぐらいシンプルに語彙力をどこかに落としてしまうほどの光景だ。


 最初に出会った時から思っていたけど、程よく朱に交わった色白の肌に黒真珠のような艶やかな髪が本当に目を惹く。


 昔読んだラノベで「深窓の令嬢」なんて表現を見かけたことがあるが、こういう言葉はきっと目の前の美少女にこそふさわしい言葉なのだろう。


「こ、コーヒーでも入れようか。砂糖とミルクはどうする?」

「ありがとうございます。それではミルクだけいただきますね」

 

 いつまでも見つめてしまいそうになる自分に恐怖して、俺は彼女から逃げるようにキッチンへと向かった。注文通りミルクたっぷりのカフェオレを片手にリビングへと戻ると、小早川さんは心ここにあらずといった具合にぼんやりと部屋の一点を見つめていた。


「服、サイズ大丈夫だったか?」

「ええ、さすがに下着まで用意していただいたのはちょっと驚いちゃいましたけど」


 驚いた、というのは彼女なりの柔らかな言い回しで、実際彼女の視線はどこか距離を置くようなじっとりとした目をしていた。


 だけどその視線にもなんとなく親しみが伝わってくるあたり、本気で心からそう思われてはいないことだけは伝わってきた。


「あー、俺、姉がいるんだ。服も姉のタンスから借りたもので」

「……下着もですか?」

「それは……不可抗力ということでなにとぞ」


 深々と彼女に向けて頭を下げると、すぐに頭上から小さく零れるような笑い声が聞こえた。


「屋凪さんって面白い人なんですね」


 そう言って表情を綻ばせる彼女に、さっきまで落ち着いていた心が再びざわつきを取り戻した。こんなもん完全にお手上げだ。


 どう頑張っても俺なんかの耐性じゃ目の前の美少女の魅力に抗えない。


 なるほど、去年一年彼女の名前が頻繁にクラスの連中の会話に出てきたのはこれが理由だったのか。思春期男子ってのは単純なもので、可愛い女の子のことについては話題に事欠かない。それはヒメや柊木さんは当然のこと、小早川さんも例外ではなかった。


「えっと、小早川さんは……」


 会話さえしてしまえばどうにか出来るかも、なんて安直な思いで言葉を探す。こんなことになるんだったら本当に『サルでも分かる美少女との受け答え辞典』の出版をどこかの出版社に頼み込んでおくべきだった。


「せっかくご縁が出来たのですから、屋凪さんにはあまり距離を感じる呼ばれ方をされたくありませんわ」


 どうしたものかとすっかり困り果てていた会話の間をつなぐように、小早川さんがそんな言葉を零した。


「そうは言われましても……」


 でもこういう時には粘ったところで結局無意味なことをつい先日思い知ったばかりだ。


 かといって何と呼んでいいものか。下の名前で呼ぶなんてご法度だし、そう都合よく俺でも呼べそうなあだ名なんて――


「お、お嬢……とか?」

「あら、それはご存じだったのですね」

「あー、去年クラスの奴らがそう小早川さんをそう呼んでるのを聞いちゃってな」


 最初に耳にしたときはどこぞの任侠映画かなんかかよなんて思ったりしたが、いざ本人とこうやって言葉を交わしてみるとこれが案外似合ってそうだ。


 だけどもしかして本人はその呼び方を気にしてたりするかもしれない。だったら悪いことをしてしまっただろうか。


「いえ、別に気にしてませんよ。実はその逆で結構気に入ってたりするのです」

「そ、そうなのか?」

「ええ、中学までは周りも堅苦しい感じの子ばかりだったので」


 いわゆるお嬢様学校という奴なのだろうか。確かに勝手なイメージだけどお金持ちの娘というのはそういう学校に通っているイメージが多い。


「だからか、ニックネームで呼ばれるというのが新鮮だったものですから」

「なるほど……。ちなみにお嬢がそう呼ばれるようになった理由なんてのも聞いていいか?」

「ええもちろんっ。別に大した話じゃございませんし」


 そう言うと彼女は事の経緯を簡単に話し出した。


「自分には影山というちょっとだけ年の離れた姉のような世話係がいるのですが……」

「専属の世話係って、なんというかすごいな」


 そういうのって創作物の世界のものだけだと思っていたけど実在するのか。


 心の声が顔に出てしまっていたのか、そんな様子を見てお嬢はすぐに「秘書みたいなものですよ」と補足を入れてくれた。いやいや、専属秘書でも十分すごいだろ。


「影山はいわゆる昔気質な仕事人間で、私が小さいころから「お嬢」と呼んで可愛がってくれていたのです。そんな彼女がわたくしが入学してすぐのころに親しくなった友人の前でわたくしをお嬢と呼んでしまって……」

「それがきっかけで少しずつお嬢のクラスを中心にあだ名が広まっていったと」

「ええ、本人はすっごく申し訳なさそうにしておりましたが」


 影山さんからしたら不本意だったのかもしれないが、結果的にお嬢がクラスに馴染めるきっかけを作ったのならいい仕事をしたのではないだろうか。


「それでお嬢、と。俺もそう呼んでもいい?」

「屋凪さんがよろしければ」

「分かった。俺なんかが今後呼ぶ機会があるのならば」


 同年代の女の子をあだ名で呼ぶ権利は得られたが、かといって実際に校内でその名前で呼ぶ機会があるかといわれればそれはまた別だ。


 妙な縁もあってヒメとはこういった間柄だが、お嬢に関しては完全に俺とは別世界の人間だ。彼女には彼女の人生があって、俺には俺の面白みのない人生がある。


 今日はたまたまこうして交じりあったけど、こんな機会が再び目の前に現れるとは俺には到底思えない。


「そういえば一つ気になることがあったんだ」


 まぁ、今日はこうしてたまたま世間話ができるのだ。ならばちょっとぐらい他の連中よりも贅沢をさせて貰うことぐらいいいだろう。


「なんでございましょう?」

「あーいや、あの時橋の上で何をしてたんだろうって」


 夕焼けを纏って微笑む君に世界が息を呑むかのように時を止めた。そんなことあり得る訳が無いのに、そう錯覚してしまうほどに欄干の上に佇む彼女は、あまりにも俺には美しすぎたのだ。


 だからこそ――


「……あの場所で、お嬢はいったい何を悲しんでたんだ?」

 

 あの寂しげな微笑みの意味を、俺はどうしても知りたくなった。


「『思い忘れ』を……していたのでございます」


 そう彼女が答えた瞬間、彼女を始めて見たときに抱いた小さな違和感の正体が分かった。


 彼女の答えの意味は分からない。思い忘れなんて単語は初めて聞いたし、それがどういった行為なのかも想像がつかない。しかしどうしてだろう。どうしても一つだけ確信をもっていえることがある。


 なぜ君の表情はどうしようもなくあの日の佐倉瑞姫さくらみずきによく似ているのだろう。

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