第13話 ヒメの憂鬱と新たな少女

 新学期が始まって三日が経った。


 俺はと言えば新しく今年から同じクラスのメンバーとなったクラスメイト達の顔と名前が未だに一致しない謎の不具合を抱えながら、相も変わらずヒメと放課後を共にすることになる。


「待った?」

「まぁ、そこそこ」


 俺らと同じ青ヶ峰高校の制服に身を包んだ生徒たちをぼんやりと見送っていると、不意に聞き馴染みのある声がこちらを呼んだ。


「ロク君、校門の前でぼーっと女子高生眺めてるの怪しすぎるよ」

「んなことしてねぇよっ」


 ヒメは相も変わらず教室で友人たちに捕まっていたらしく、ちょっとだけ申し訳なさそうに肩を竦めて見せるとそのまま俺の前を歩いていく。


「今日も俺の家でいいのか?」

「んーあー、それなんだけど、ロク君って本屋さんとか詳しい?」

「まぁ、それなりには……」


 本なんて電子書籍でいいじゃないかという人は大勢いる。実際俺も使っているしその便利さといったら一度使うとなかなか抜け出せない沼だ。


 しかしそれでも紙の書籍というものにはオンリーワンの魅力があると主張する層がいるのもまた事実だ。実際俺は本当に気に入った作品は出来るだけ紙で手元に置きたいタイプである。


 人に貸せるし、気に入ったページだけ何度も読み返すことができる。何よりも紙を触っていると作品への没入感が上がる気がするのだ。


 そんなわけで街の書店にはそこそこに詳しいつもりではいる。書店の一つぐらいすぐにだって案内できるだろう。


「何か欲しいものでもあるのか?」

「あぁいや、そういう訳じゃないんだけど……なんとなく見ておきたい気がしたから」


 そういうとヒメは意味ありげに一つ笑みを浮かべて見せた。もしかしたらこれも彼女なりの『負けヒロイン』勉強の一貫だったりするんだろうか。それなら断る理由もない。


 ヒメの目的を達成するためには色々な種類の本を取り扱っている方がいいだろう。そうなると駅前の商業施設にある文芸堂という書店はいいかもしれない。


「駅の方に向かうけどいいか?」

「ロク君に任せるよ」


 それからというもの、俺とヒメは道中他愛のない話をしながら駅を目指した。話題は主に新しいクラスについてだ。


「ミーちゃんが園芸部でエンドウ豆を収穫したからって今日お昼に振舞ってくれたの。これがまた甘くておいしくて。素材本来の味ってやつ? そういえば田沢君達のラグビー部って今度大学生との壮行試合をやるんだって。相手は体も出来上がってるから不安だって嘆いてたよ」

「そ、そうなのか」


 普段からあまり人の名前と顔を覚えるのが得意ではないと思っている身からしたら、周囲に新しい人間が増えるこの時期は少々苦手だ。


 そんな俺とは逆にヒメはすっかりクラスにも馴染んでいる。今年から新しく同じクラスになったメンバーとも積極的に交流しているらしく、会話にもよくクラスの連中の名前が出てくる。


 さっきからこうして楽しそうに俺に話しかけてはくれているが、ミーちゃんも田沢も顔が一切出てこないのは内緒だ。


「そういえば今日間島にヒメとのことを聞かれたよ」

「え、なんで!?」


 全く心当たりがないといった表情を浮かべるヒメに、俺は昼休みの出来事をかいつまんで話した。しばらくして合点がいったのか、ヒメはひとつ「あぁ、なるほど」と声を漏らす。


「なるほどってなんだよ」

「いやね、ロク君の言う通りになっちゃったから」


 そういうとヒメは露骨に大きくため息を吐いた。


「ランコに、井出君に私の連絡先教えてもいいかって聞かれたの」

「あー、ヒメと仲良くなりたいのか」

「そうらしいよ」


 そういえば昨日そんな話をした気がする。


 ヒメはモテる。それは去年一年同じクラスに居ただけの俺ですらわかる。可愛くて愛嬌もあって人当たりもいい。明るくて誰にでも分け隔てなく優しいヒメを好ましく思ってしまうのは思春期男子ならば当然の反応だろう。


 そんなヒメを一年間間接的に守り続けてきた存在が彼女の幼馴染でもある滝川奏太たきがわそうただ。イケメンで勉強もできてスポーツも得意。こいつもまたヒメに負けず劣らずのコミュ力お化けだ。


 こんな存在がヒメの近くにいたからこそ、ヒメとお近づきになろうとする並の男たちは涙を呑んできた。


 しかし今年は事情が違う。


「奏太が香澄と付き合い始めたからってみんな私を安く見すぎなんだよ、もうっ」


 そう言ってヒメはプリプリとその可愛らしい顔をめいっぱいに膨らませて見せた。


「みんなそういうつもりじゃないって」

「じゃあどういうつもりだってのさぁ」

「あー……」


 ヒメの視線が何も言わずとも、俺に先を促してくる。さてどう言ったものか、慎重に言葉を選びながら俺は少しずつ言葉を探した。


「えっとほら、その……ヒメは元々モテるだろ」

「……嬉しいこと言ってくれるじゃん」

「滝川のことを抜きにしても、新しい環境になれば誰だって声の一つぐらいかけてみたくなるもんじゃないか?」

「私、そんなに魅力的かなぁ」

「明るくて優しくて友達も多い。ヒメは十分魅力的だろ」

「……やるじゃん」


 三度目に耳にするその言葉は、だけど今までと違ってどこか力なさげに聞こえた。


「でもさぁ、だったらさぁ……」


 俺の前を歩いていたヒメの足が、不意にぴたりとその歩みを止めた。


「どーしてずっと一緒だった私を選んでくれなかったんだろうねぇ……」


 青とオレンジが少しずつ溶け合っていく四月の空に、その声は切ないほどによく似あっていた。無力感にも、そして喪失感にも似た声色が街のどこかに混ざって消えていった。


「……急ごうぜ、もうちょい遅くなると社会人が増えるんだよ、あの書店」

「そだね」


 再び前を進むその背中に、俺はそれ以外にいったい何と言葉をかけられただろうか。


 その答えは、目的の書店にたどり着いても結局俺の中で導き出されることはなかった。


「えっと……ロク君のおすすめってある?」

「俺が紹介しようと思うものって大体うちで読めるぞ」

「……確かにっ!」


 さっきの空気はどこへやら。努めて明るく振舞うヒメを他所に、俺はぼんやりと直前の出来事を思い返していた。


 実は俺が気にするほどもしかしたらヒメは気にしていないのかもしれない。たまたま零れたその言葉に、俺がズルズルと引きずられてしまっているだけのような気がする。


「んじゃぁこれとこれと、あと……これもあらすじ面白そう」


 漫画が二冊と文庫本が一冊。意気揚々とレジへと向かうヒメを見ていると、さっきまでのもやもやもただの杞憂だったように思えてしまった。


 いや、本当は俺がそう思いたかっただけなのかもしれないけれど。本当のところは、きっとヒメは俺なんかには話してくれないだろう。


「……今日はありがとね、付き合ってくれて」

「これぐらい構わないぞ」


 それからすぐ、書店を出た俺たちは駅前のロータリーで立ち話をしていた。


「それよりも文庫なんてすぐ読めるのか?」


 あくまでも今回の目的は『負けヒロイン』勉強の参考書探しだ。その参考書がいつまでも参考にできなければ意味がない。


「大丈夫だよ、本を読む時間なんてたっぷりあるんだから」

「家だと意外とそういうタイプか?」

「うんにゃー、家だともっぱらテレビっ子」


 意外だな、と思ったけど、ヒメはやっぱり俺の想像通りのヒメだった。


「じゃあいつ読むんだよ」

「私たちには授業中というとても有意義な読書タイムが存在するではないですか!」

「授業中は有意義に勉強する時間なんだよ」

「たははー、こりゃ一本取られたね。まぁ、少しずつ読んでいくよ。それじゃまた明日」

「……おう、また明日」


 これまでとは違って今日はまだ日も高い。別に俺とヒメは付き合っているような関係でもないのだから家まで送り届けるような気の利いたことも必要ないだろ。


 そういうのはいわゆる主人公の役目であって、彼女の行く末を見届けたいだけの俺のような人間には過ぎた役目だ。


 ――本当にそれだけなんだろうか。俺は彼女になにかをしてやれるんだろうか。


 人混みに紛れてそんなことを考えていると自然と視界が下を向く。僅かに荒れたアスファルトの白線に沿ってただぼんやりと自宅を目指す。


「そういえば、作戦のことすっかり聞きそびれちまったな……」

 

 だからだろうか。


「ちょっとお尋ねしたいことがあるのですが」


 暖かな春の風に乗って、その声はやたらと甘ったるしく俺の鼓膜を震わせた。


「……へ?」


 帰路の途中にかかる二級河川の橋の上。最近改築されたばかりの石造りの欄干の上で、こちらの視線を捉えた彼女は小さく微笑んだ。


 吸い込まれてしまいそうな、という比喩表現はこんな時のためにあるのだと思った。


 それほどまでに美しい、だけどあまりにも見覚えのある制服を身に着けた彼女は――


「あの、実はわたくし……あっ、ひゃっ!」


 そのまま、足を滑らせて盛大に川へと落ちていったのであった。

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