一章

第12話 ちょっとだけ図々しく

 バタフライ・エフェクトという言葉が存在する。


 ほんの些細なことがきっかけとなって、それがのちに非常に大きな事柄の引き金に繋がるという考え方のことだ。


 実に思春期男子の厨二心をくすぐるワードではあるのだが、似たような日本語の表現に「風が吹けば桶屋が儲かる」と聞くと途端にそのスケールも小さく見えてしまうものだ。


 つまり俺が何を言いたいのかというと、時に一つの行動が周囲の俺への評価をガラリと変えてしまうこともあるということだ。果たして俺のちょっとした気まぐれは、ブラジルで羽ばたいた蝶のように力強くあれただろうか。


「……なぁ、屋凪」


 それは、新学期早々ヒメが俺の家に遊びに来た日から一夜明けた日のことだった。


 相も変わらず一緒に昼食を食べる友人がいない俺が、スマホを片手に教室の隅でぼんやりとしていた時のことだった。


 胃の中に詰め込んだ菓子パンの居心地に僅かながらの嫌悪感を覚えていると、ふと頭の上から聞き覚えのある声が投げかけられた。


「ん、なんだ間島か」

「悪かったな俺で」


 声をかけてきたのは教室内で俺の前の席に位置している間島というクラスメイトだった。すらりと伸びた身長に筋肉質な体つき、日差しでからりと焦げた肌にちょこんと乗った坊主頭が印象的なこの男とは、席が前後ということもありそこそこに口数を交わすようになっていた。


 社交的ではないとはいえコミュ障を自称している身でもない。クラスメイトとの日常会話ぐらいは難なくこなせはするのだが、天性のめんどくささとオタク気質がそれを中途半端に邪魔しているのが俺こと屋凪緑郎やなぎろくろうという男だ。


 そのせいで目の前の男が青春を一体どんなスポーツに費やしているのか知らないし、それ以上にこいつの下の名前すら覚えていない。


 そんな彼がいったいどうして俺なんかに声をかけてきたのか。


「あのさ、今朝のことなんだけど」


 それは、この男が今腰を掛けている椅子を朝のホームルーム直前まで温めていた人物が原因だった。


「…………佐倉さんのことか?」

「また随分溜めたな」


 そりゃ溜めるだろ。だって十中八九間島が聞きたいことなんぞ、俺とヒメの朝のやり取りが原因なのだから。


「おはよー、ロク君っ!」


 話は今日の登校直後まで遡る。


 未だに布団に戻りたがる意識をどうにか体の中に留めながらやっとの思いで教室にたどり着いた俺を待っていたのは、季節外れのひまわりのように華やかな声だった。


「え、あ、あぁ、おはよう、佐倉さん」


 教室には既に結構な数のクラスメイトが姿を現しており、各々が朝の貴重な時間を自由に過ごしている。そんな中冴えない量産型男子高校生に投げかけられたその声は周囲の注目をやたらと集めた。


 佐倉さんはどうやら友人たちと歓談中だったようで、どこか怪訝そうな表情を浮かべる他の女の子たちを尻目に彼女はなぜかするりと俺のもとにやってきた。


「……ロク君の記憶力はニワトリ並なの?」

「朝っぱらからチクチク言葉が過ぎないか」


 開口一番に投げかけられたその言葉に、思わず大きなため息がこぼれてしまう。


「いやだって、昨日言ったこともう忘れてるし」

「……なんか約束してたっけ」


 チラチラとこちらの様子を窺うクラスメイトの視線がどうにもむず痒い。俺としては早くこの時間が終わってほしいものなのだが、だけど目の前の美少女はそんなことお構いなしに会話を続けるつもりのようだ。


「名前のことだよっ!」

「えっ、あ、あぁ……」

「あだ名で呼んでくれるんじゃないの、作戦参謀?」


 決して忘れているわけじゃなかった。だけど昨日はあの空気に飲まれてしまったがゆえにできたことであり、いざ改めて一晩寝て冷静さを取り戻すとやっぱり俺には佐倉さんをあだ名で呼ぶのは荷が重いと思ってしまう。


「はぁー……そういうところだよロク君。私たちはこれから世界中の『負けヒロイン』を救うんだよ?」

「それは、まぁ、そうだけどさ……」


 乗りかかった船、というにはもう既にだいぶ手遅れで、俺の乗った船はもうグアム近海を行く当てもなく絶賛漂流中だ。


「全く……私がせっかくいい作戦を考えてきたってのに」


 そう言うと佐倉さんは露骨に顔をしかめて見せた。俺への不満を伝えるつもりなのだろうが、持ち前の愛嬌たっぷりの可愛らしい顔じゃその威力も半減だ。


「ロク君はさぁ、もうちょっと図々しく生きてもいいと思うよ?」

「……図々しく?」


 そういうと佐倉さんは俺の目の前の机の席を引くと、そこにどっしりと腰を下ろした。席の持ち主である間島は部活に青春を捧げている男だ。当然朝練も欠かさず顔を出しているらしく、始業式から今日までホームルームの直前の時間まで顔を見せることはない。


「そだよ。ロク君はなんというか、他人の様子を伺いすぎてやしないかい?」


 覗き込むようにこちらに顔を寄せる佐倉さん。息がかかりそうな距離まで近づいたその顔に思わず腰が引けてしまうが、直後に俺の心に沸いたのはそんな彼女の行動に対する焦りではなく、ある種の納得のような感情だった。


「……どんな表情なの、それ」

「あぁいや、なんというか……そういう風に見えてたのかと思って」

「んーまぁ、去年同じクラスメイトだったってだけの人間の評価だけどね」


 そんな風に人から言われたのは初めてのことだった。俺は自分のことを取り柄のないめんどくさがりやの陰キャ野郎だと思っていたけれど、それは全て他人にマイナスな感情を持たれたくないという自己防衛の手段に過ぎなかったのだ。


 我ながらなんとつまらない男なのだろう。


 嫌われることに怯えて、ただ他人と他人以上の関係を築いてしまわないように。そんな振る舞いは結局のところ目の前の美少女には全部お見通しだったわけである。


「…………恥ずかしいなぁ俺」

「ロク君がどんな結論にたどり着いたのかは分からないけど、まぁでも、そんな自分から脱却する方法がありますっ!」

「あだ名で呼べっていうんだろ」

「察しが良くて素晴らしいね」


 確かに彼女の言う通りかもしれない。佐倉さんは言っていた。自分が何をやりたいのかを知ってもらいたいのなら、自ら行動を起こしていくしかないのだ。


 下心が全くないかと言えば嘘になる。やっぱり見てくれのいい女の子と一緒にいる時間は楽しい。だけどそれ以上に、俺は佐倉瑞姫さくらみづきという『負けヒロイン』の往く道を見届けたいのである。


 そのためには、俺もそれにふさわしい人間を目指さなければならない。


「……っと、ごめんね、間島君もう来ちゃったみたい」


 佐倉さんの視線につられるように顔を動かすと、ちょうど教室の入り口から間島がこちらに歩いてくるのが目に入った。


「それじゃ」


 間島が来るということはすぐにホームルームが始まるということだ。どこか名残惜しそうな視線を残して立ち上がる佐倉さん。


「あ、あのさ、ヒメっ!」


 彼女をその名前で呼び止めさせたのは、半分の諦めと半分の決意。


 どこか驚いた表情で、それでいて嬉しそうに振り向く佐倉さんを、となりの間島は唖然とした表情で見つめていた。


「なにかなっ、ロク君っ!」

「さ、作戦、考えたんだろ!?」


 ただそう呼びたかっただけ、とは恥ずかしくて口にできそうにないので、咄嗟に俺の口を大して気にも留めてなかった言葉がついた。


「ふふっ……放課後に教えてあげる!」


 以上が今朝のホームルーム直前の出来事だ。


「屋凪、佐倉さんとどんな関係なんだ?」

「……ただの作戦参謀だよ」


 ヒメとお近づきになりたい男は多い。間島ももしかしたらその一人だったりするのだろうか。


 俺もきっとそう思われてる一人なのかもしれない。だけどそうじゃないと示すためには、俺は俺自身の行動でそれを周囲に示していくしかないのである。


「なんだよそれ」

「俺もおんなじこと思ってる」


 自然と口元に笑みが零れた。いつの間にか居心地の悪かった菓子パンはどこかに消え去っていて、あとに残るのはちょっとばかりの充足感。


 直後に鳴った昼休みの終了を告げるチャイムにつられて五限目に使う教材を机の上にほっぽりだすと、あけ放った窓からは春の陽気をたっぷりと含んだ温かな風が教室を通り抜けていった。


 どうやら俺の羽ばたきは、まだ春風にも及ばないらしい。

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