第11話 私の作戦参謀

「ふぅ……これもよかった……」


 読み終わった漫画をパタリと両手で閉じながら、佐倉さんは感慨深げに小さく息を零した。


 その仕草が妙に色っぽくて一瞬魅入ってしまったが、そんな俺を現実に引き戻すがごとく真希姉が隣から声をかけてくる。


「でしょっ!? ちょっとだけ古い作品だけど、世界観と絵が最高なのよっ!」


 そう言ってのける真希姉の姿にはもう美少女メイドの影はどこにもなく、ソファの上にはどこに出しても恥ずかしい怠惰なオタク大学生の姿しかなかった。


「ちょっと設定が難しかったけど、チトセとシュウスケの関係がもうたまんないですよっ! 恋人を守るために世界と戦うことを選んだチトセ。そしてそんなチトセをただ見守ることしかできないシュウスケっ! その関係がもどかしくてもどかしくて……っ!」


 熱の入った語りを見せる佐倉さんの手には一昔前に一部界隈で話題になったとあるセカイ系作品の漫画が握られている。セカイ系というと難しく思えるかもしれないが、この作品の本質はそんな世界で生きる二人の若い男女の生きざまだ。


 そしてそんな作品に色を添える人物こそが――


「瑞姫ちゃんの目から見て、アカネはどうだった?」

「あぁ、アカネ……」


 真希姉の問いかけに、ヒートアップしていた佐倉さんのテンションが急速に冷凍されていった。


「彼女は……幸せだったのかねぇ」


 アカネとは、作中で登場するシュウスケの古くからの友人だ。シュウスケへの恋心を押し殺しながら、二人の関係を暖かく見守ってきた存在。


 そんな彼女は、激化する戦火の中で戦いに巻き込まれて命を落とす。


 シュウスケへの恋心をボロボロの体の奥に隠しながら、最後まで二人の幸せを願って。


「どうでしょう……それは分かりません」


 佐倉さんは少しずつ慎重に言葉を選んでいるようだ。


「でも、きっとそれは分かった気になっちゃいけないことなんじゃないでしょうか」

「……なかなかに難しいことを言うね」


 そう言いのける真希姉だったが、その顔はどこか満足げな色をしていた。


「まぁ考えな、若者どもよ」

「真希さんだって十分若いじゃないですか」

「あっはっはっ、華の女子高生にそういわれるとなんだかむず痒いね」

「そのワードチョイスはおっさんくさいけどな」

「弟よ、随分と生意気な口を利くようになったじゃないか」


 グリグリとわき腹を抉ってくる我が姉の綺麗なおみ足から脱出すると、俺は読み終わった漫画を自室へと戻すべく立ち上がった。


「ありがとう、屋凪君」

「これぐらいいいって。それよりもなんというか難しいな、負けヒロインって」


 負けヒロインの勉強を始めて数時間。魅力的な負けヒロインには数多く出会えたものの、俺たちは結局負けヒロインが一体何なのかさっぱりわからずじまいだった。


「あんまり意識して読んだことなかったけどさ、いざこの子は負けヒロインだって思って読んでいくと余計わかんなくなるよな」

「……そーかも」


 そんなやり取りを、真希姉はただ何か言いたげな表情でニマニマと見つめるのみだ。


「どーしてそんなに嬉しそうなんだよ」

「いやぁー。ただ姉としては、可愛い弟がこうして可愛い女の子と楽しそうに青春してるのがうれしくてねぇ」

「なんだよそれ」

「父さんと母さんが居なくなって2年。成長を見守ってきた姉としては嬉しいわけですよ」


 勝手知ったる姉弟のやりとりに、しかし一人だけ場違いなほどにショックを受ける女の子がいた。


「えっ……屋凪君のご両親ってもう……っ」


 ただ一人我が家の事情を知らない佐倉さんである。


 小さく口元を震えさせながら、佐倉さんは俺と真希姉の顔を交互に見やる。どう声をかけたものか、そんな彼女の心情がまるで手に取るように伝わってくる。


「はぁ……」


 その様をあまりに気の毒に思った俺は、そんな彼女に助け舟を出すべくすぐに口を開くのだった。


「佐倉さん、安心してほしい。俺の親父は仕事でイギリスに住んでるだけだし、母さんはそんな親父についてっただけなんだよ」

「え、あ、そ、そうなんだっ!」


 とある商社に勤めてる親父は二年前にイギリスのロンドンへと単身赴任が決まった。そんな親父を心配した母さんは、一人で外国なんて行かせられないと親父を助けるべく縁もゆかりもない場所へと付き添ったのだ。


 まぁ、本当はそれを言い訳に憧れていた外国での暮らしがしたかっただけなんだが、家族会議で涙を流した親父のためを思って本人には秘密となっている。


「真希さんっ、私勘違いしちゃいましたよっ!」

「あっはっはっ、瑞姫ちゃんは本当にからかいがいがあるねぇ」

「もうっ!」


 そう言ってケラケラと笑い声をあげる佐倉さんの表情には、いつか見た曇り空は一つもなかった。


 彼女は強い人だ。


 好きな人と結ばれなくても、それでも新しい生き方を模索していける人。


 あぁそうか、『負けヒロイン』というのは一つの強さの形なんだ。


「……屋凪君、そんなに見つめられると照れるんだけど」


 視線の先の佐倉さんが、不意に照れ臭そうに目をそらした。


「あ、いやっ、俺はそんなつもりじゃっ!」


 咄嗟に言い訳を取り繕おうとしても、見つめていたのは事実である。それにこの場には弟の失態を決して見逃さないめんどくさい姉がいる訳で。


「ほぅほぅ……やっぱり我が弟は瑞姫ちゃんにお熱みたいで」

「屋凪君の気持ちは嬉しいけど、私はしばらくは新しい恋はいいかなって」

「だ、だからそんなつもりじゃねぇってっ!」


 そんな抵抗も虚しく、姦しい二つの笑い声に包まれた俺はしばらくの間二人に笑いものにされ続けることしかできないのであった。


「さて我が弟よ」


 ひとしきり笑い終わって満足したのか、真希姉は一つ大きく天井を仰ぐと、壁に掛けられた時計へと視線をやった。


「そろそろいい時間だ、瑞姫ちゃんを送ってやんな」

「ん、あぁ、そうか……」


 真希姉の言葉につられて俺も同じようにそちらへを向くと、時計は既に19時を回っていた。


「じゃ、また送ってくよ」

「不束者ですが、よろしくお願いいたします」

「さっきの会話からなんでそのワードをチョイスしたんだよ」


 こうやって言葉を交わしてみると佐倉さんはノリが良すぎるというかなんというか。こういうところをそつなくこなして見せるのが陽キャのなせる業なのか。


「そんじゃ真希姉」

「おうよ、気を付けていってら。瑞姫ちゃんもまたね」

「はい、またお邪魔させてもらいます」


 そうだよな、この流れだと次回があるやつだよな。


「……どうしたの、屋凪君?」


 玄関で靴に足を通す佐倉さんが、不意にこちらを振り向いた。その仕草が妙にむず痒くて思わず視線を逸らすと、その先では姉が何やら言いたげな表情でニヤニヤとこちらを見つめていた。


「……いや、なんでもない」


 帰宅後どんなふうに弄られるのか今から戦々恐々だな。


「さて、作戦参謀」


 前回と同じように佐倉さんの自宅近くのコンビニまで歩いていると、彼女はどこか楽し気な声で俺を呼んだ。


「なんでしょう、団長様」

「これからの活動には団員たちの結束が大事だと思うのですよ」

「団員っても、俺と佐倉さんしかいないけど」

「なぁんでそんなこと言うのさっ! これから我が団の活動に賛同してくれる人が出てくるかもしれないでしょっ!」


 こんなみょうちくりんな活動にいったい誰が協力しようというのだろう。


「……屋凪君の言いたいことはこの際置いておきましょう」

「多少の自覚はあるのか」

「それは……まぁ」

「それで、佐倉さんは何を言いかけたんだ?」


 先ほどから俺の数歩前で軽快に足を進めていた佐倉さんが不意にその歩みを止めた。


「その佐倉さんってやつ」

「名前がどうかしたのか?」

「去年一年同じクラスだった屋凪君なら、私の友達が私をなんて呼んでるか知ってるよね?」


 そりゃ当然だ。彼女のことを慕う人間はクラス内外問わず多くいる。そうなると自然と佐倉さんを呼ぶ声が教室内に響くのは日常茶飯事で、悲しくも特段昼休みに予定が存在せずにぼんやりと教室で時間を過ごすことが多かっただけの俺の耳に彼女の呼び名が入るのは当たり前のことだった。


「……言いたいことはわかるけどさ、俺なんかが呼んでいい名前じゃないだろ」

「どうして?」


 どうやら彼女がその名前で呼んでほしいらしいというのはすぐに分かった。だけど俺なんかが彼女を気軽にあだ名で呼べるわけが無い。


「そりゃ俺は佐倉さんの友達じゃないし」

「うわ、そんなこと言っちゃうんだ……」

 

 露骨に嫌そうな表情を浮かべる佐倉さん。だけど悪いな、俺は面のいい女の子にちょっと親しくされたからって勝手に勘違いするような男になりたくないだけなんだ。


「はぁ……つまんない男だねぇ」

「悪かったな、友達の作り方も忘れちゃったような男で」

「……そこだよそこ。私と屋凪君の関係を友達だと思ってるところが大きな間違い」

「……へ?」


 そう言うと佐倉さんは大きく身をひるがえし、俺の元へとぐいと顔を近づけてくる。息遣いさえ肌で感じられそうなその距離で、彼女はその整った顔に小さく笑みを浮かべると、俺にこう言葉を続けた。


「だってあなたは、私の作戦参謀でしょ?」


 遠く沈んだ太陽の下、ぼんやりとした薄暗がりの中で、だけど眩しく輝くその顔に俺はそれ以上何も言い返せなかった。


 そういえば彼女から一つ学んだ大切なことがある。


 自分の行動が周囲に自分を知ってもらうためのアピールになる。俺は自分自身を証明するために今まで何かをやってきただろうか。


 きっとこれはその第一歩なのだろう。


 佐倉瑞姫さくらみずきという『負けヒロイン』が誰かの幸せを願う物語。そんな物語の結末を見届ける覚悟。そのための行動の始まりが、きっと今なんだと思った。

 

「……分かったよ、ヒメ」


 俺がそう呼ぶと、佐倉さん改めヒメは嬉しそうに顔をほころばせた。


「やればできるじゃん、ロク君」


 そう言って小さく小躍りするその姿が、俺にはどこの『メインヒロイン』よりも魅力的に見えたのはここだけの話である。

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