第4話 屋凪家の暖かな夕食

「ちなみに屋凪やなぎ君のおススメはどれなの?」


 リビングと地続きのキッチン内に食欲を誘うコンソメの良い匂いが漂い始めたころ、不意に佐倉さくらさんがそんな言葉をかけてきた。


「今持ってるやつはあんまお気には召さなかった?」


 佐倉さんがどこか不満げに机の上に置いたのは、最近一部界隈で話題の血みどろのバトル漫画だ。圧倒的な画力と登場人物たちの掛け合いが魅力的なのだが、どうやら彼女にはハマらなかったらしい。


「んー、確かに面白かったは面白かったけど、一応私も女の子だからなぁ……」

「そうは言われても……」

「そういえば気になってたんだけどさ」


 そういって佐倉さんが手に取ったのは、俺がシャワーを浴びていた間に彼女が読んでいた漫画だ。


「どーして屋凪君の持ってる漫画って恋愛ものが多めなの?」

「え、あー……」


 確かに、言われてみればそうだ。あまりジャンルに拘って本を買うタイプじゃないと思ってたけれど真実は本人も知らないところで違っていたらしい。


「無意識だったかも」

「なにそれ」

「面白そうだなって思ったものは買うようにしてるから気にしてなかったんだよ。ちなみに俺のおススメは積みあがってるタワーの左から二つ目の下の方のシリーズ」

「これ? いいじゃん、表紙の女の子可愛くて」


 佐倉さんに勧めたのは俺の持ってる漫画でもお気に入りのシリーズだ。主人公が見た目のわりに意外と熱い奴で好きなんだよな。


 でもそういやあれも幼馴染が主人公にフラれる話だったはず……。


 そう思い至って違うものを勧めようとしたけれど、既に佐倉さんは意気揚々ともう一ページ目をめくってしまっていた。まぁいいか、所詮漫画の中の話だし。


 それから簡単に洗い物を済ませていると、いつの間にか佐倉さんの読む漫画も二冊目に突入していた。そういえばここから三人目のヒロインが登場するんだっけ。


「あー……」


 それからしばらくして、味見を済ませたポトフの出来に思わず頬を緩めていると不意に佐倉さんが悲鳴にも嗚咽にも似たような声を喉から絞り出した。


「い、いきなり驚かせるなよ」

「いやね、聞いてよ屋凪君」


 佐倉さんがソファから乗り出すようにキッチンの方を覗いてくる。そういえば彼女に貸している姉の服は少々佐倉さんの体格には不釣り合いだ。


 姉はよく言えばスレンダー、悪く言えば貧相な体形をしているせいで、彼女の動きにつられて佐倉さんの胸元が何というかたいへんに大胆に自らの存在を主張している。


 これはいいものを見せてもらった、と同時に滝川は随分と惜しいことをしたなぁなんて下世話なことを思いつつ、俺はそんな心情を悟られまいと誤魔化すように味見用に掬った取り皿のポトフの残りを啜った。


「で、何を聞いてほしいんだ?」

「いやね、私この子の気持ちが痛いほど理解できて……」


 そういって佐倉さんは漫画のとあるページをこちらに見せつけるように開いてくる。漫画のページの向こうからひょっこりと覗く佐倉さんの綺麗な瞳と視線が交わる。いや、別に本が邪魔でその豊かな胸元が隠れてしまって残念だなんて微塵も思ってないことはしっかりとここに主張しておこう。


 話が横に逸れてしまったが、佐倉さんが今開いているページに映っているのは彼女が読んでいる漫画のいわゆるサブヒロインの女の子だ。


 立場で言えば主人公の幼馴染。あぁ、そういえば彼女もなかなか自分の気持ちをはっきりと口にしない女の子だったな。その結果主人公とヒロインの仲を取り持つために随分と損な役割を受け持つことになってしまった。


「まるで私みたいじゃんっ」

「自分の気持ちを後回しにしちゃうあたりが似てるって?」

「屋凪君は気の利いた言葉の一つも言えないの?」

「俺は常に自分に素直なんだよ」


 まぁ、それ以上に誰かに上手く気を使えるほど器用じゃないってのがあるけれど。


「……じゃあ、さっきのも本音なんだ」


 不意に佐倉さんが口元に意味深な笑みを浮かべた。


「さっきってのは……?」

「私の誰かを想える優しさを、君は素敵だって思ってくれたんでしょう?」


 あぁちくしょう。美少女ってのはこういう時どうして笑顔一つがそんなに絵になるんだ。


「えっと、あっと……それはその……っ」


 吸い込まれてしまいそうなその視線に俺がすっかり飲まれてしまい、何も言葉を発せずにいたその時だった。


「おーい、我が可愛い弟よ。お姉ちゃんが帰ってきてやったぞー」


 そんな呑気な声とともに玄関の扉の向こうから一人の女性が姿を現す。


 家の扉は俺と佐倉さんが入った際に施錠済みだ。ちなみにこの家の玄関の扉を開けられるカギを持っているのは俺以外にはこの世界に一人しかいない。


「……あれぇ、もしかして私、最悪なタイミングで帰ってきちゃった?」


 ――つまり、我が姉、屋凪真希やなぎまきその人だけである。


「ま、真希姉っ!?」

「えっと、お、邪魔してます……、屋凪君と同じクラスの佐倉瑞姫さくらみずきです」


 直前までの妙な雰囲気はどこへやら。まぁでもなんというか、今だけは少し姉の登場に感謝したい気持ちもある。あんな状況、俺だけだったら雰囲気に飲まれてとんでもないことを言い出しかねなかった。


「いやぁまさか私の弟にそんな根性があったなんてねぇ。初めまして、緑郎ろくろうの姉の屋凪真希です」


 姉と佐倉さんは互いに小さく会釈を交わすと、そのまま姉の方は自室へと姿を消し、一方の佐倉さんはなぜかキッチンの俺の方へとすり寄ってきた。


「屋凪君、お姉さんいたんだ……」

「……まぁね」

「あぁ、やけに着替えの用意とかも手際がいいなって思ってたんだけど……」


 そういえば佐倉さんに替えの服を用意したのは俺だった。ずぶ濡れになった佐倉さんの服は今は乾燥機の中にぶち込んである。下着もあるからと機械の操作からなにからやったのは佐倉さん自身だけど。


「瑞姫ちゃんだっけ?」


 そんな時だった。姉の部屋のわずかに空いたドアの向こう側から、真希姉が佐倉さんを呼ぶ声が聞こえてきた。


「せっかくだし晩御飯食べていきなよ!」

「あ、はい、いただいていきますっ!」


 それからしばらくして、我が家の小さなリビングには俺の渾身の夕餉がずらりと並んだ。


 と言っても炊き立てのご飯と俺の作ったポトフ、それに姉が適当に帰り道に買ってきたらしいお惣菜が並んだ簡素な食卓なのだけれど。


 いつもと違うのは自由奔放な姉が珍しく早い時間にここにいることと、そしてプライベートでは一度も交流のなかったクラスメイトの美少女がここにいることだろうか。


「い、いただきます……」


 恐る恐る俺の作ったポトフに口をつける佐倉さん。


「……うぅ……ぁ」


 途端、彼女は突然堰を切ったかのようにその綺麗な顔に細い滝を作り始めた。


「ど、どうしたんだよいきなりっ」

「いや、だって……これ、温かくて……っ、おいしくてぇ……ぅうっ……」

「あぁっ! いけないんだぁっ! 女の子を泣かせるなんてっ!」


 そしてそんな光景を見て茶々を入れてくる真希姉。それどころじゃないんだから今は勘弁してくれ。


「そ、それは嬉しいけど今はちょっと落ち着いてくれ、な? 泣かれると俺も困っちゃうからさ」

「ご、ごめんね……っ」


 それからというもの、どうにか泣き止んだ佐倉さんを伴っての屋凪家の三人の夕食はようやく再開となった。


 それにしても――なんというか、今は本当に、姉がいてくれてただただ良かったと思うばかりである。  

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