第35話「現れたヒーロー」

「はぁ、はぁ……。これで全部か?」


 背広の男が会議室の壁の裏に隠していた薬品を袋に詰め込んでいく。書類も乱暴に掴んでは押し込み、ずっしりと膨らんでいた。あれが全部、トウミメディカルが表沙汰にできない悪事の証拠。僕はそれをしっかりと手元のカメラに収めている。


「ふっ、くっ」


 男は袋の口を縛って肩に掛けようとする。壮年の男には重たすぎるようで、肩に食い込んだ袋に苦悶の表情を浮かべた。それでも、彼は諦めるわけにはいかなかった。一つでもこの場に残せば、それが証拠になってしまう。表で繰り広げられているセブンレインボーズ対∀NEのヒーローバトルが終結すれば、被害を受けた戦闘区域が全て補償対象として修繕される。それが終わるまでは民間人の立ち入りが禁止となり、S.T.A.G.Eに証拠品が見つかってしまうからだ。

 だから背広の男は避難指示が出ているにも関わらずこんなところまでやって来て、証拠品を全て始末しようとしている。


「ぬっ!?」


 重たい袋を抱えて男が歩き出したその時、布地が裂ける乾いた音がする。直後に書類が床に散乱し、ガラス瓶が絨毯の上に転がる。あまりの重量に袋が耐えきれず、縫い目からザックリと破れてしまったらしい。


「クソ! クソォ!」


 男が悪態を吐きながら書類の束を拾い集める。しかし袋はもう使い物にならない。証拠品は彼の両腕で抱え切れるほどの量ではない。


「――仕方ない。こうするしか」

「っ!?」


 テーブルの下で息を潜めていた僕は、カチッカチッと金属が擦る音に眉をあげる。数度の試行の末、男の手のひらで小さな火が灯った。発火能力じゃない、ライターの炎だ。

 彼は書類の一枚を手に取り、火の上にかざす。すぐに黒い染みが広がり、燃え上がる。彼はそれを乱雑に書類の山に投げた。炎は見る間に大きく育ち、書類を食い破っていく。メラメラと音を立てて絨毯にも燃え広がる。


「チッ」


 男は苛立ち混じりに舌打ちして、会議室から出ていく。彼の足音が遠ざかり、僕はあっと声を上げた。炎は勢いよく揺らめいている。僕も今すぐ逃げなければ。


「そ、そうだ、物証を――」


 映像だけでは足りないかもしれない。確かな現物があれば、よりいいだろう。僕は安易な考えを抱いてテーブルの下から這い出し、まだ火の手の迫っていない薬液の詰まったガラス瓶へと手を伸ばす。全部は回収できなくても、いくつか持っていければ釈堂さんの助けにもなる。

 けれど、僕は油断してしまっていた。


「誰だ!」

「うわっ!?」


 背後から男の声がする。驚いて振り返ると、部屋を出て行ったはずの男が僕を見ていた。テーブルの下に身を潜めていれば気配を消せていたけれど、完全に姿を現してしまえば仮面の効果も半減してしまう。僕の正体はともかく、そこに誰かがいるということは分かってしまう。

 男にとっては、それだけで十分だった。


「貴様、ここで何をしている!」


 男が吠える。彼は僕の手に握られたカメラとガラス瓶を見て全てを察したようだった。獣のような唸り声を上げて駆け寄ってきた。


「ひぃぃ」


 完全に失敗した。

 男の手には大量の紙束が抱えられている。ここにある書類だけでは万が一燃え残った時に証拠が残ってしまう。だから、無関係の書類も焚き付けに使おうと持って来たのだ。

 僕は彼が戻ってくる可能性を考えていなかった!


「このっ!」


 男が険しい表情で掴みかかってくる。僕は燃え盛る炎の裏へと回り込み、必死にそれを避ける。けれど向こうの執念も凄まじい。激しい火焔の向こうから肌が焼けるのも構わず飛び込んできた。


「がっ」

「それを寄越せ!」


 胸ぐらを掴まれ、勢いよく壁に叩きつけられた。後頭部を強く打ち、視界がぐらぐらと揺れる。その隙に男は僕の手から瓶とカメラをもぎ取った。

 だめだ……。


「とりゃああああっ!」

「なにっ!?」


 前に倒れ込むようにして襲いかかる。カメラは絶対に死守しなければならない。

 男に寄りかかると、彼は床に倒れ込んで背中を打ちつけ、鈍い呻き声をあげる。

 お互いに泥臭い戦い、いや戦いとも呼べない揉み合いだった。僕は一介の研究員で、戦闘訓練も受けていなければ超能力もない。対して、向こうも同じ研究職なんだろう。年齢もあって荒事に向いているようには全く見えない。僕は男の腹に跨ると、その手からカメラを取り戻す。


「返せ!」

「いやだ!」


 炎の勢いはさらに激しく、天井に届こうかというほどに成長している。早く逃げないと、このまま蒸し焼きにされてしまう。

 しかし――。


「無駄だぁ!」


 目の前で勢いよく、会議室の扉が閉まる。ひとりでに動いた扉に驚いていると、背後で男がゆらりと立ち上がった。


「な、超能力者……!?」

「ハァ、ハァ……!」


 目の前で起きたのは明らかに念動力だ。一体誰が。いや、決まっている。

 振り返ると男の目が異様な輝きを放っていた。彼の足元には空になった瓶が無造作に転がっている。


「飲んだのか!?」

「は、はは……」


 彼は湧き上がる力に困惑し、そして感激していた。両腕を広げ、確かめるように一本ずつ指を折り曲げていく。僕の方へ視線をむけ、腕を伸ばし、虚空を掴む。


「ぐぅぁっ!? がっ!?」


 距離は5メートル以上も離れているのに。喉を強靭な力で掴まれ、強引に持ち上げられた。足が床から浮き上がり、首が悲鳴を上げる。天井スレスレまで持ち上がった僕を見上げて、背広の男は酩酊したような笑みを浮かべる。


「おお、おお……。私にもこんな力が。やはり正しかったんだ」


 アッシュグレイの髪に変化が現れる。灰混じりだった年齢を感じさせる髪にハリとツヤが出て、白に近い色合いへと変わった。その姿は超能力者に間違いない。

 酸素の入ってこない頭で考える。

 彼は一般人ではなかった。無能力者ではなく、弱い超能力者だったのだ。だから特区内で、このトウミメディカルで研究員として働き、そして超能力を高める薬を開発したんだ。

 思い出すのは、クリムゾンファイアの姿。再び姿を現した彼は、以前よりもはるかにその力を増していた。けれどそれと同時に、正気まで失っているように見えた。


「だめだ……それを使っちゃ……」

「五月蝿い!」


 男が腕を振ると僕は勢いよく壁に叩きつけられる。側頭部が割れ、血が流れる。その衝撃で、釈堂さんから貰った仮面が絨毯の上に落ちた。


「お前は――」


 僕の顔を見て、男は怪訝な顔をする。少し思案し思い出したようだ。笑みを深める。


「和毛恭太郎だな? 貴様、なぜこんなところにいる?」


 名前を言い当てられた。当然だろう。僕は彼に命を狙われていた。

 彼の質問には答えない。いや、答える余力は残っていない。沈黙する僕を見て、背広の男はすぐに興味をなくしたように鼻を鳴らした。


「まあいい。これは手間が省けたな。証拠をまとめて消せる」


 彼を見てしまった僕と、薬と書類。この部屋にあるもの全てを抹消すれば、証拠は全てなくなる。

 思いがけない幸運に、背広の男は喜んでいた。僕の意識はだんだんと暗い水の底に沈むように曖昧になっていく。

 こんなところで死にたくない。折手さんにも会えていないし、オルディーネさんとも話せていない。シエラさんにも。

 燃え盛る炎が嘲笑うかのように揺れる。男の黒い影が――。


「お……さん……」


 轟音。壁が勢いよく弾け飛ぶ。

 男が驚いた顔を横に向け――飛んできた赤い盾が彼を薙ぎ倒す。彼の念動力が途切れ、宙吊りにされていた僕は床に向かって落ちる。


「恭太郎くん!」


 なにか、柔らかいものに包まれる。ペタペタとした、弾力とはりがあって、温かいもの。


「ブレイズレッド、この件はあとでしっかり話してもらうわよ」


 優しく抱き抱える腕とは裏腹に、上から放たれた声は地の底から響くような恐ろしげなものだった。

 床に転がっていた背広の男がよろよろと立ち上がる。その手には、燃え残っていたガラス瓶。彼は三つあるそれを勢いよく開封し、飲み干す。その瞬間、周囲の重力がぐんと増した。


「いつも良いところで邪魔をしやがって!」


 男は激昂していた。けれど、彼女は不思議なほど落ち着いていた。彼女が手を挙げると、数枚の盾が飛んでくる。彼女はそのうちの一枚に僕を乗せて、守るように前に出た。


「――申し訳ないけど、こっちは悪役ヴィランなの。容赦しないから」


 次の瞬間、見えない巨大な力と力が勢いよく衝突した。

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