第30話「デートのお誘い」

 自宅で泥のように眠り、翌日。しっかりと疲れを残したまま出勤した僕は、再び無人の第三研究室に出迎えられた。自分のデスクの上には新見さんの書き置きが一枚。どうやら彼女は第一研究室の仕事に協力している様子。つまり、またもや僕にできることは何もない。

 仕方がないから資料整理を進めていると、不意にドアが開いた。


「新見さん、おかえりなさ――」

「よう、新人! こんな所に居たのか!」

「うわぁっ!?」


 部屋の主が戻ってきたものとばかり思って振り返ると、そこには思いもよらぬ人物が立っていた。さっぱりとした黒いタンクトップとスキニージーンズというあまりにもシンプルな服装に小麦色の肌。アッシュグレイの長髪はあっちこっちに乱れまくって、まるでジャングルを三周してきたばかりのような荒れ放題。どこの野生児かと見紛うけれど、彼女こそ∀NEの首領――シエラさんだ。

 なんの前触れもなく突然現れた組織のトップは、僕の上げた悲鳴に不満そうな顔をする。つかつかと大股で近づいて来たかと思うと、がばりと腕を首に引っ掛けてきた。


「おいおい。随分な挨拶だなぁ。シエラさんがわざわざ来てやったってのに」

「だから驚いてるんですよ! 新見さんなら第一研究室ですよ」

「知ってるよ。∀NEのボス舐めるな。あたしは恭太郎に用があって来たんだ」

「ぼ、僕に……?」


 不穏な気配を感じて目を向けると、シエラさんはボールを前にした子犬のように目を光らせる。本能的に彼女から距離を取ろうと体を捻るも、肩に掛けられた腕は頑として動かない。嘘だろ、鉄筋でも入ってるのか?


「ははは、そんなに喜ばなくていいぞ」

「あんまり喜んでません!」

「おおん? ボスのお誘いを断ろうってのか?」

「そこまで言ってないじゃないですか!」


 昨日今日なのに何なんだこの距離感は。本当に∀NEのトップに君臨する人物なのか疑わしくなってくる。昔からこういう太陽の権化みたいなコミュ力お化けとはとんと縁がないから、ついドギマギしてしまうのだ。

 けれど、勝手に顔を赤くする僕をしっかり確保したまま、シエラさんは不意に声のトーンを落ち着かせる。


「まあちょっと付き合えよ、新人。オルディーネの治療もほとんど終わってるし、怪人開発も大詰めに迫ってる。反撃の準備が整うまでに、いろいろやっとかなくちゃならないことがあるんだ」

「なっ。それを僕に言われても……」

「恭太郎だから誘ってるんだ」


 反撃は幹部連中が取り仕切るものだと思っていた。けれど、シエラさんは真剣な表情だ。彼女の熱い吐息が鼻先に降りかかる。


「山本ヒロシとも繋がりのある、背広の男」


 その言葉で反射的に背筋が伸びた。

 トウミメディカルの職員だ。路地裏で何か取引をして、それを偶然見てしまった僕の記憶を消した奴。彼の正体はいまだに掴めず、そのまま∀NEは混乱に陥ってしまって、調査は滞っている。


「まさか、素性が?」

「いいや?」


 はっとして顔を向けるも、シエラさんはきょとんとして首を振る。思わずがっくりと肩を落とし、机に手を突いた。そんな僕を見て∀NEのボスはケラケラと笑う。本当にこのいい加減なお姉さんが全超能力者の頂点に立つような実力者なのだろうか。


「分からないから二人で調べるんだよ。情報部も防諜工作でてんてこ舞いだからな。今この基地で暇を持て余してるのはあたしとお前くらいだぞ」

「暇をって……否定はできませんけど」


 あっけらかんと言われると余計に悲しくなる。基地全体が忙しそうにしているのは肌で感じるし、下手に手伝おうとしても余計に手間を増やしてしまうことも分かる。だからこうして一人静かにしていたのだ。


「というか、シエラさんも暇なんですか?」


 仮にもトップであろうお方がこの窮地に暇を持て余すとは何事か。そういえば昨日も買い出しに駆り出されていたし。もしかしてお飾り――。


「おい、失礼なこと考えてるだろ」

「ぐえっ」


 どうやって心を読んだのか、シエラさんが腕を締め付ける。顔の側面がタンクトップで圧迫され、喉が詰まって変な声が出た。必死に腕を叩いて降参の意を示すと、彼女はふんと鼻を鳴らして力を緩めてくれた。


「あんまり強すぎるから、下手に動けないのさ。とりあえず、許可なく能力を使ったら、すぐにクソガキが飛んでくる」


 そう言って彼女は首元に手をやる。彼女の細い首に掛かっているのは、頑丈そうな金属製の首輪だった。繋ぎ目も一切見当たらないそれは、おそらく普通の方法では外すことができないのだろう。何かの通信を示すように、小さな赤いランプが明滅している。

 クソガキ、というのはもしかしなくてもS.T.A.G.EのKさんのことだろうな。


「ま、逆に言えばいつでもすぐに使える便利な通報ボタンを持ってるわけだ。死にかけてもとりあえず助けてもらえるだろ」

「どんなことさせるつもりなんですか……」

「さぁ、まずは医療部にいくぞ」


 質問には答えないまま、シエラさんは僕を引きずって研究室から出る。道中、通り過ぎる職員が僕たちを視界に入れまいと必死に顔を背けていたのは、気のせいじゃないだろう。

 市場に連れていかれる子牛の気持ちになりながら、やって来たのは医療部だった。僕の権限では入室できないその場所には、オルディーネさんが眠るメディカルポッドが置かれていた。


「オルディーネさん!」


 薄緑色の液体の中に浮かぶ彼女は神秘的だ。傷もほとんど完全に癒えており、シエラさんの言った通りすぐにでも起き出しそうだ。けれどガラス越しに見る彼女は固く目を閉じて、深く眠っている。


「恭太郎はオルディーネに懐いてるらしいな?」

「懐いてっ!? いや、そういう訳じゃ……」


 シエラさんの言葉に驚き、訂正する。

 オルディーネさんに二度も命を助けられたこと。しかも、一度は完全に忘れていた。それでも彼女は僕のことをまた助けてくれたのだ。ヴィランとしてその名を馳せている彼女だけど、その心はきっと誰よりも清らかなのだ。


「なんだ。おっぱいがデカいから好きなんじゃないのか」

「ちょっ!? ち、違いますよ!」

「本当に?」

「…………」


 なんで本人の目の前でこんなことを言われないといけないんだろう。オルディーネさんの意識が戻っていないのが不幸中の幸いだ。万が一本人に聞かれていたら、死んでしまいたくなる。二度も助けられた命だから、死ぬわけにはいかないけれど。

 僕を揶揄ったシエラさんはニヨニヨと性格の悪い笑みを浮かべながら、医療部の棚を無遠慮に物色する。そうして乱雑に掴み取ったのは、どう考えても劇薬入りっぽい遮光瓶と注射器だった。


「何やってるんですか?」

「備えあれば嬉しいなってね。能力が使えないなら、装備を整えとかないと」

「どれだけ危険なことをするつもりなんですか……。僕はただの一般人ですよ」


 シエラさんが何を企てているのか全く分からず、不安が胸を締め付ける。怯える僕に彼女は振り返って、不敵に笑った。


「何を言ってるんだ。――君ももう立派な悪の組織の研究員なんだぜ」


 そう言って彼女が軽く振って見せたのはおどろおどろしいドクロマークの描かれた薬瓶だ。本当に、何をするつもりなんだ……。


「背広の男を探すなら、向こうから見つけてもらうのが手っ取り早い」

「はぁ?」


 物色した薬類をジーンズのポケットに差し込みながら、片手間にシエラさんは言う。

 背広の男はかなり周到に身を隠しているようで、∀NEの情報部もまだその足取りも素性も掴めていない。本職さえ見つけ出せない相手に対して、シエラさんは大胆不敵な作戦を考えたようだ。


「ソイツは恭太郎を殺したい。ヒーローバトルのど真ん中に放り込んだあたり、その殺意は本物だろ?」

「まさか……」


 彼女の言わんとすることを察してしまって、顔から血の気が引く。さっと青くなった僕を見て、彼女は頷いた。

 訂正しよう。彼女はやっぱり悪の組織のトップに相応しい。

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