第26話「直感に従え」

 カゴ三つ分の食料品。しかも割高なコンビニの。占めて総額32,000円。初任給もまだ入ってこない新入社員にはあまりにも重たい金額だ。自分でもなぜこんなことをしたのか分からない。

 パンパンに詰まったレジ袋は四つ。なぜか、僕とお姉さんで半分ずつ分けて持って退店する。


「お前、いい奴だな。おかげで助かった」

「いえ……」


 自分のお昼ご飯も買えなかったのに。

 まあ、お姉さんが喜んでいるならいいかな。

 豪快に笑うお姉さんは、特区内の住人らしいアッシュグレイの長髪だ。黒いタンクトップにスキニージーンズ、ちらりと覗くのはしなやかな腹筋。肌は小麦色に焼けていて、健康優良快活明朗といった文字が頭に浮かぶ。


「こんなにたくさんのご飯、どこかに差し入れですか?」


 流れで荷物持ちまでしてしまって、沈黙に耐えられなかった僕は当たり障りのなさそうなことを尋ねる。


「おう! ちっちゃい部屋でずっと会議ばっかりしてっから、退屈だって言ったら投げ出されたんだよ。一応、あたし結構エラいはずなんだけどなぁ」


 どうやら、食料調達という名目で体よく厄介払いされたというのが実情らしい。お姉さんは唇を尖らせ、ぶつぶつと文句を言っている。何か重要な案件が進んでいるのに自分だけは蚊帳の外、という状況は親近感が湧いた。


「お姉さんのところも大変なんですね」

「なんだ、お前もなのか?」


 思わずぽつりと溢すと、興味を持たれた。とはいえ、∀NEの内情を見ず知らずの人に漏らすわけにはいかない。僕は少し考えたあとで、素性を悟られない程度にぼかして、自分の身の上を話した。


「最近入った会社で、ちょっと大変なことが起きてて。でも、僕は新入社員だから、何もできないんです。上司や周りの人たちは忙しそうで、何をしても邪魔になりそうで」

「ふーん」


 割と深刻な雰囲気は滲み出てしまったと思ったが、お姉さんの反応は意外にもあっさりとしていた。思っていたものと少々異なる反応に、僕の方が困惑してしまう。


「まあ新入りって使えないよな。大人しく家帰って寝てりゃいいんじゃないのか?」

「ええ……」


 結局、返ってきたのはあまりにも適当な、取ってつけたようなアドバイスだった。

 自分が能力不足で使えないということは他ならぬ僕自身がよく分かっている。でも、だからと言って早退して広いマンションの部屋に引き篭もる勇気もない。そんなことをどう言葉にしようか悩んでいると、お姉さんの方が先に口を開いた。


「やることないなら、いるだけ邪魔だろ」

「うぐっ」

「帰って寝てた方が役に立つんじゃないか?」

「う、ぐ……」


 お姉さんの言葉には遠慮がなく、それだけにストレートに突き刺さった。彼女の言葉は正論だ。僕みたいな足手纏いは、自分の家にいる方が全体の利益になるのかもしれない。


「……でも、僕もなにかしたいんです」


 それでも、人は正論だけでは動かない。

 ∀NEに入社してまだ一週間だけど、それなりに色んなことがあって、僕自身∀NEの研究員だと自覚してきた。まだ知識も能力も足りないのは分かっているけれど、僕だって∀NEの一員なのだ。∀NEが危機に瀕している今、何もしないでいられるはずがない。

 お姉さんがニヤリと笑う。まるで、僕がそう言うのを待っていたかのようだ。


「それなら、やればいいじゃん」

「えっ」


 いや、それは。僕はまだ新入社員で、仕事にも慣れていないし。勝手に動いたらまわりに迷惑を掛けるかもしれないし。

 そんな言葉が飛び出しそうになる。それよりも早く、肩を強く引かれた。


「うわっ!?」


 気が付けば、お姉さんの顔が間近にあった。鼻と鼻が触れ合いそうなほどの距離。彼女の吐息が頬にかかる。猫のように丸い瞳が、きらりと輝いて僕を覗き込む。まるで内心まで見透かされているようで、思わず目を逸らしたくなる。けれど彼女はそれを許してはくれない。


「やりたいと思ったことをやるのが一番だよ。自分の直感に従えば、一番いい結果が出るんだ」

「自分の、直感」


 その言葉のひとつひとつで、心を縛り付けていたものが解けていくような心地がした。僕はできない理由だけを見つけて、自縄自縛に陥っていたのだろうか。まわりに迷惑になるからと言い訳して、楽な方に進んでいただけなのか。


「僕が、そんなことやっても良いんでしょうか」

「知らないよ。自分のことは自分で責任持て」


 さっきまでとは打って変わって、気持ちいいほど素っ気ない。まるで猫みたいだと思った。

 彼女の言葉はなぜか不思議と心を打つ。鬱々としていた僕を突き動かしてくれる。


「あの、お姉さん。名前を聞いてもいいですか。あ、僕は和毛恭太郎と言います」

「うん?」


 たまたま偶然出会っただけだとしても、彼女との縁を繋ぎたかった。慌てて自分の名前を伝えると、お姉さんはぴたりと動きを止める。怪訝そうな顔をして、僕をじろじろと舐めるように見る。


「ふーん」


 そして、何か面白いことでもあったのか、口元を緩めた。


「あ、あの、なにか?」

「いやいや、なんでもないよ。そっかそっかぁ。君がニコゲキョータローかぁ」


 絶対になんでもないことは無いはずだ。僕は絶対にお姉さんのことを知らない、お互いに初対面であることは間違いないはずだ。けれど、彼女は僕の名前を以前から知っているような口ぶりだった。

 まさか、と脳裏に一つの推測が浮かぶ。

 ∀NEはヴィラン陣営の中でも上位に位置する実力派の組織だ。当然、目の敵にしているヒーロー陣営の組織も多い。お姉さんも見たところ、何かの超能力者だろう。それに昨日からずっと会議ばかりと言っていた。その会議というのは、∀NEが議題に上がっているのではないか。


「あ、その……。人違い、かも」


 今更遅すぎる。

 僕は下手な言い訳をしつつ、足を止める。けれど、お姉さんは僕を逃すつもりは毛頭ないようだった。彼女の身のこなしな滑らかで、到底、デスクワークで鈍りきった僕が逃げられそうもない。まずい。これは、まずい。

 オルディーネさんの役に立ちたいと思っていたのに、逆に迷惑を掛けてしまう。敵対組織に捕まったとなれば、どうなるか。新見さんたちは助けてくれるだろうか。それとも、末端は蜥蜴の尻尾のように切り捨てられるのか。

 一度転がり始めた思考は止まらない。悪い方向へと一目散に転がり落ちていく。

 どうやって逃げればいい? いや、だめだ。気が付けばひとけの無い小路に入ってきてしまった。もしかして、彼女はそう誘導していたのだろうか?


「あれ、もしかして何か勘違いしてない?」


 お姉さんが首を傾げる。勘違いとはどういうことだろう。

 少なくとも、僕は∀NEの基地内で彼女を見たことがない。綺麗な褐色の肌は珍しいし、見ていたら覚えているはずだ。

 怪訝な顔をする僕に、お姉さんは何やらショックを受けた様子だった。悲しそうな顔をして一歩近づいてくる。


「あ、あれぇ。私、全然覚えられてないの? ほら、このお顔に見覚えない?」


 自分の鼻を指差しながら。


「わ、分かりません。誰ですか?」

「がーん。……最近の子はなってないなぁ」


 僕が首を横に振ると、お姉さんは今度こそ憔悴した顔になる。そして、ふっと顔から感情を消して、僕を見つめる。あまりにも急激な変貌に、ぞくりと背筋が寒くなる。

 逃げられない。

 本能でそれを感じた。スピードもパワーも、圧倒的に違い過ぎた。

 生唾を飲み込んで、覚悟を決める。僕も∀NEの研究員だ。たとえどんな拷問を受けようとも、情報なんて絶対に――。


「うわ、こんなとこにいた。勝手に居なくならないでくださいよ」


 奥歯を噛み締めたその時。路地裏の壁が開いてエレベーターが現れる。中から出てきたのは、小柄な桃髪の女性。というか、レザリアさんだ。彼女は僕よりも先にお姉さんの方を見て声をかける。呆れた色も滲ませているけれど、珍しく敬意を含んでいる。


「あれ? レザリアじゃん。会議は終わったの?」


 お姉さんの方も、砕けた様子でレザリアさんに応じている。

 あれ、二人は知り合い? というか、お姉さんはレザリアさんよりも偉い人? え、もしかして会議って……。


「あ、あの……」

「あれ? どうして和毛君がここに?」


 レザリアさんは今気づいたとばかりに驚く。僕とお姉さんの不思議な取り合わせに、首を傾げていた。ということは、僕を探して来てくれたというわけではないらしい。


「あの、こ、この方は?」

「知らないの?」


 恐る恐る尋ねると、レザリアさんはぎょっとする。そんなにまずいことだったのだろうか。

 彼女はため息をついて、謎のお姉さんの正体を口にする。


「この人は∀NEの首領。特区内で最強と言われる超能力者、“ビースト”のシエラさんだよ」

「えっ……」


 衝撃の事実に絶句する。

 謎のお姉さんことシエラさんは、レザリアさんの説明にむんと胸を張っている。

 そんな……。なんで∀NEのボスが買い出しに出て来てるんだよ。

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