第21話「記憶世界の僕を追え」
目を開くと、そこは春の陽気に包まれた大都会の賑やかな大通りだった。馴染み深いようで、異質な光景。内心に抱く違和感の正体を探し、すぐに気がつく。道ゆく人々のほとんどが鮮やかでカラフルな色彩をしていた。その髪色が鮮烈に記憶されている一方で、彼らの表情はまるで溶けた蝋人形のように曖昧だ。
「――くん」
まるで水中で目を開いているかのように、全ての輪郭が揺らいで見える。雑踏の喧騒もどこかで響く信号機のメロディも、そのすべてが水に垂らしたインクのように広がり、混ざり合っている。
「和毛君!」
「はっ」
不意に肩を叩かれ、意識が急に澄み渡る。振り返れば、黒いラバースーツに身を包んだ長身の女性――オルディーネさんが仮面越しに心配そうな目を向けてきていた。
「大丈夫? 気分が悪い?」
「だ――。大丈夫です。あんまり突然に変わって、びっくりしただけなので」
オルディーネさんの手の感触は、この全てが霞がかった世界のなかで唯一しっかりと認識できた。
僕は彼女と話すうちに、自分がなぜここに居るのかを思い出す。
ここは他ならぬ僕の記憶世界。時間は現実から一週間前の地点。オルディーネさんの背後に目を向けると、特区の内外を隔てる堅固で巨大な鉄の壁と、その足元に開かれた関所が見える。僕はたった今、あの門をくぐって来たばかりなのだ。
「落ち着いて。この世界は和毛君の記憶に存在を頼っている脆い世界よ。だから、和毛君の頭の中にないものはこの世界にも存在しないの」
オルディーネさんはビルとビルの隙間を指で指し示す。暑いくらい日差しのきつい日和にも関わらず、その路地は異様なほどに真っ暗だった。まるで、その奥には何もないかのように。――いや、本当に何もないのだ。僕はあの路地裏に何があるのかを知らないのだから。
「私たちの目的は、和毛君の動きを見届けること。ほら、あそこにいるでしょう」
再び、オルディーネさんが別の方向を指差す。そこに立っていたのは、ルクルートスーツに身を包んだ、見るからに部外者といった様子の僕だった。初めて訪れる特区の、活気に満ちた街並みに、見ているこっちが恥ずかしくなるくらい浮き足立っている。
過去の自分を第三者の視点から見るという稀有な経験は、逆に違和感を抱けなかった。まるで、画面越しにゲームのプレイヤーキャラクターを見つめているようだ。ゲームと違うのは、キャラクターが僕の意思に反して勝手に動くことだけ。
記憶世界でトレースされた僕もまた、ようやく我に返って歩き始めた。
「さ、追いかけるわよ」
「え? うわっ!?」
てっきり地道に歩いて尾行するのかと思ったら、いきなりオルディーネさんが後ろから抱きついてきた。背中に感じる柔らかな弾力に驚いていると、そのまますっと持ち上げられる。それと同時に足元に滑り込んできたのは、いつも彼女が使っている大盾だった。
「こ、こんなのあったんですか?」
「記憶世界は自分の記憶が依代なの。だから、そこにあると強く念じればこういうこともできるってこと」
オルディーネさんはこの世界での過ごし方も熟知しているらしい。僕は彼女と共に大盾のボードに乗って、空から和毛恭太郎を追いかけた。
「あ、あの、ちょっと苦しいんですけど……」
「二人乗りだと落ちたら危ないから。何も成果を挙げてないのに、現実世界には戻れないでしょ? ほら、もっとくっついて」
意識しているのかしていないのか、オルディーネさんは僕の胸に腕を回してぎゅっと密着してくる。後ろからほのかに香る女性の甘い匂いに、つい拍動が加速してしまう。もしかして、現実世界でレザリアさんにモニタリングされてるんだろうか。
「うーん。和毛君、なかなか進まないわね」
「えっ?」
首元で囁かれ、意識を地上を歩く恭太郎に向ける。彼は数歩歩いてはキョロキョロと周囲を見渡してあからさまに怪しい。横を通り過ぎる特区の住人たちも、微笑ましい顔で彼を見ていた。
「その、特区に入るのは初めてで。ヒーローバトルで見たことのあるビルやお店がいっぱいあったので、興奮しちゃって……」
「なるほどねぇ。まあこの辺はメインストリートだし、特区外の人も見覚えあるんでしょうね」
過去の自分の行動を解説するというのは存外恥ずかしい。早くトウミメディカルへ行けよと思うが、なかなか恭太郎は進まない。あからさまに浮き足立っていた。
「あ、アイス買ってるわ」
「……
このあたりはまだ僕も覚えている。あれは特区外からやって来た観光客目掛けて網を張っている店にまんまと引き寄せられたのだ。確かに目の前でアイスクリームが作られる様子は圧巻だったけれど、氷の粒が大きすぎてジャリジャリとしていたことをしっかりと覚えている。
「アイスは普通に機械で作ったやつの方が美味しいわよ?」
「もう知ってます……」
微妙な顔でアイスを食べ終えた恭太郎は、その後もあちらこちらへフラフラと移動する。前日から気が張っていたこともあって、まるで集中力がない。
「うふふ。まだ荷物になるから買えないのにお土産選んでるわね。可愛いじゃない」
「やめてください……」
なんで僕は、命の恩人と一緒に過去の自分の恥ずかしいところを見ているんだろう。
オルディーネさんはすっかり腰を据えて見物することに決めたようで、空中に浮かべた大盾に腰掛けて、足をぶらぶらと揺らしながら見下ろしている。一人だけ立っているのも不安定で落っこちそうだったので、僕も彼女の隣に腰掛けた。
道ゆく人々が僕やオルディーネさんに興味を払う様子はない。まるで見えていないかのように、例え目の前を横切っても一切反応しなかった。それも当然だろう。本来、僕たちはここにいなかったのだから。
「そろそろね」
街中にある電光掲示板に表示された時間を見てオルディーネさんが言う。それは、もうすぐ僕の記憶が消される時間が訪れる合図だ。
恭太郎は トウミメディカルと約束した時間が迫っていることに気付き、早足で歩き始める。僕たちもその後を追いかける。そして、恭太郎が角を曲がったその時だった。
「うわっ!?」
「恭太郎君! しっかり掴まってなさい!」
突然、世界が大きく変わる。全てがまるで砕けたガラスのように断片的なものになったのだ。重力があらゆる方向に入り乱れ、なのに破片に映る人々は平穏な日常を送り続けている。
オルディーネさんが僕の腕をしっかりと絡めるように掴み、ボードを軽やかに動かしてバランスを取る。熟練のサーファーのように重力の荒波を乗りこなし、彼女はすぐに体勢を安定させた。
「こ、これは……」
「和毛君の記憶が曖昧になってるのね。まだこの程度の損壊で済んでるのはラッキーだったわ」
この時間帯のことを、僕は全く記憶していない。けれど、消去された記憶の残骸とでも言うべきものは脳の記憶領域に多少残っているらしい。この砕けた世界は、その残滓をなんとか並べて作ったもの。だから、組みかけのパズルのように隙間だらけなのだ。
ガラスの破片――断片的に残っている記憶の、それ以外の場所。そこは僕が記憶していなかったビルの狭間の路地のように、完全な漆黒が広がっている。それが、完全なる無の世界。∀NEの技術によって完全に消去された記憶の時点まで踏み入ると、この闇が全体に広がってしまうということだ。
「さあ、追いかけましょう」
記憶の断片から断片へ飛び移るように、オルディーネさんはボードを巧みに操る。小刻みに方向転換することで僕は度々投げ出されそうになるけれど、彼女がしっかりと捕まえてくれているおかげでなんとか一命を取り留めていた。
眼下の恭太郎は、いよいよ迫ってきた面接に向けて緊張の面持ちだ。
「あれ、そういえばオルディーネさん」
「何か見つけた?」
「さっき僕のこと名前で――」
「なっ!?」
ふと気が付いたことをそのまま口にすると、突然ボードが大きく揺れる。驚いてオルディーネさんを見ると、彼女は仮面の下の頬を赤くして銀髪を勢いよく振り乱していた。
「あ、あれは咄嗟のことだったから! 馴れ馴れしくてごめんなさいね!」
「いや、だ、大丈夫ですから! むしろ嬉しいので。その、オルディーネさんと仲良くなりたいですし」
オルディーネさんと出会ったのは、少なくとも今の僕の体感では今日が初めてだ。けれど、消されたはずの記憶が呼びかけているのか、どうも彼女とは初対面という気がしない。
だからという訳でもないけれど、オルディーネさんとは仲良くしたい。彼女から名前で呼ばれるのは、嫌ではない。
「そ、そう? ふーん、そっか」
揺れが収まり、オルディーネさんは緩くカールした髪を指に巻きつけて弄んでいた。
「じゃ、じゃあ恭太郎君」
「はい。オルディーネさん」
「〜〜〜! めっちゃ良いわね……!」
呼びかけに応じると、オルディーネさんは顔を背けて何やらぶんぶんと腕を振る。何か小さく呟いていたけれど、町の音が騒がしいのもあってよく聞こえない。再び前を向いた時には、彼女は真剣な表情になっていた。
「恭太郎君、もうすぐトウミメディカルの社屋に着くわ」
競歩より少し遅いペースで人混みの中をすり抜けるように歩く恭太郎。彼の向かう先に、立派なビルが見えてきた。壁面に掲げられているのは、 トウミメディカルの社名とロゴマーク。近代的なビルの入り口には、屈強な守衛が二人立っている。
和毛恭太郎は彼らに軽く会釈して、自動ドアの奥へと足を踏み入れる。次の瞬間、世界は更に崩壊し、更に――。
「ッ!? オルディーネさん、何かが来ます!」
「なんですって!?」
砕け散る記憶の断片の隙間から、しきりに蠢く謎の影が次々と飛び出してきた。
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