第20話「深い深い水底へ」

 レザリアさんの放った突拍子もない言葉。僕はこれから、オルディーネさんと一緒に記憶世界に潜るという。一から十まで意味のわからないことだった。

 詳しい説明を求める僕をベッドの縁に座らせて、レザリアさんは語り始める。


「まず、君には謝罪しなければならないことがある。一週間前の記憶を消したのは、わたしなんだ」

「え?」


 混乱しているところに、更に混乱することを言われる。けれど、事態は更に複雑だった。


「でも、わたしの予測では∀NEで記憶消去剤を投与される前に、君はすでに記憶消去処置を受けている。つまり、二回連続で記憶を消されているんだ」

「え? え、えっと、どういう……?」

「混乱するのも無理はない。まずは順序立てて話そう」


 急に言語能力を失ってしまったような気持ちだった。僕はてっきり、記憶を失っていたのはファミレスでお酒を飲みすぎたせいだと思っていた。けれど、それは∀NEによる隠蔽工作の結果だったらしい。

 一週間前、僕は満を辞してこの特区へとやってきた。目的は、 トウミメディカルの面接を受けるためだ。けれど、 トウミメディカルの社屋にたどり着いた直後、僕は忽然と姿を消す。そして、次に現れたのは数時間後、避難勧告と立ち入り禁止措置の取られた戦闘区域のど真ん中だった。


「おそらく、そのタイミングで一度、何者かによって記憶消去措置を受けているんだ」


 レザリアさんは時系列を整理しながら指摘する。

 消えた時と同じように、まったく前触れなく戦闘区域に現れた僕は非常に混乱していた。それを彼女やオルディーネさんは、ヒーローバトルに巻き込まれたことによる錯乱だと考えていたけれど、そうではない可能性が出てきた。


「そう考える理由としては、二度目の記憶消去――つまりわたしが行った処置の効果範囲が挙げられる。∀NEの医療部で行う記憶消去剤の投与は厳密な計画の上で行われる。君はヒーローバトルでオルディーネと接触する30分前から投与時点まで。5時間30分の記憶を消去された」


 ヒューマンエラーが発生し得ない厳格な手続きの上で行われた記憶消去剤の投与。これによって、僕はオルディーネさんに助けられ∀NEの先進的な治療によって一命を取り留めるまでの記憶を失う。その後、眠りについた僕はあのファミレスに移動させられて、そこで目覚めることになる。

 仮にこの記憶消去措置のみが行われたのなら、僕はヒーローバトルに巻き込まれる30分前までの記憶は覚えていることになる。

 けれど、実際にはそうはならなかった。僕が覚えているのは、特区に足を踏み入れた直後までの記憶だ。


「つまり君は、追加で7時間ほどの記憶を消されてるんだ」

「7時間……」


 合計で12時間半。丸々半日以上の記憶がすっぽりと抜け落ちている。その認識は、僕の体感とも一番合致しているようだった。


「問題は、その7時間を誰が何のために消したのか。それを調べるために、君に協力してもらわなければならない」

「でも記憶は消えてるんですよね? どうやって調べるんですか?」

「そこでわたしの超能力の出番というわけさ」


 レザリアさんは待ち構えていたようにニヤリと笑う。そして彼女はおもむろにオーバーサイズな白衣の袖を捲り始める。今までずっと隠されていた、彼女の素手が露わになる。


「レザリアの超能力は精神感応サイコメトリー。しかも彼女のそれは、特区内でも頭ひとつ抜けてるわ」


 オルディーネさんが僕の隣に座り、そっと腰に手を回してきた。その動きに驚きながらも、説明を妨げるわけにはいかず声を抑える。


「およそ意識に関連することで、彼女が操作できないものはない。だからこそ、∀NEは高い技術力を獲得できたの。怪人を統率するネットワークは、彼女の能力をモデルに開発されたのよ」

「∀NEの完全記憶処理も、わたしの能力でも復旧できないレベルを求めて開発された技術だ。だから、申し訳ないけれど、和毛君の5時間30分は絶対に戻らない。けれど、逆に言えば∀NE以外の者によって施された記憶消去は、復旧できる可能性がある」


 レザリアさんの手が、僕の指を握る。彼女はもう片方の手でオルディーネさんの指も握っていた。ちょうど、僕とオルディーネさんがレザリアさんを介して繋がるように。


「今から、君の意識を一週間前に飛ばす。同時に、オルディーネもね。記憶消去を受けた時点からは、記憶世界の破損が激しい。その中をどうにか耐えて、自分が過去に何を見聞きし、それを忘れたのか確かめてきてほしい。無論、わたしも現実こちらからできる限りバックアップするが、破損した世界は危険が多いからね。オルディーネも頼ってくれ。――そして、これが一番大事なことだが」


 レザリアさんの瞳が僕を見る。彼女は一拍呼吸を置いて、言葉を放った。


「∀NEによる記憶処理を受けた地点。つまり、記憶世界の中で君が戦闘区域に侵入し、レザリアと出会う30分前の時点に踏み込むと、そこは完全なる無の世界だ。記憶という世界の構成要素が全てないから、体を支える地面どころか宇宙そのものが消えているものだと思ってくれ。だから、その記憶の欠落に踏み込む前に戻ってくるんだ」


 それを聞いた僕は背筋が凍るのを感じた。完全な無の世界。そこに迷い込んでしまったらどうなるのか、想像すら及ばない。唯一言えるのは、そこに入ってしまうとレザリアさんも助けられないということ。


「ど、どうやって戻ればいいんですか?」

「強いショックを受けるんだ。高所から飛び降りてもいいし、骨を折るような大怪我を負ってもいい。記憶世界での負傷は精神的なストレスだ。それをシグナルとして受け取った脳は現実逃避を行い、結果としてこちらへ戻ってくることができる」

「じ、自信がないんですけど……」


 いくら記憶の世界とはいえ、自分で自分を傷つけるのは難しい。当たり前だけど、飛び降りたことなんてないし、自分にナイフを突き付けたこともない。悠長に尻込みしているうちに、完全なる無を迎えそうで体が震えてしまう。


「大丈夫、安心して」


 そんな僕の肩に手を置いたのはオルディーネさんだった。彼女の顔は仮面で半分以上見えないけれど、真っ赤な唇が優しく笑うのは見えた。


「そのために私も着いて行くんだから。和毛君がちゃんと戻ってこられるようにサポートするわ」

「オルディーネさん……。ありがとうございます」


 不思議と彼女の言葉には安心感があった。この理由も、忘れてしまったのだろうか。

 それなら、取り戻したい。オルディーネさんと初めて出会った時の記憶は永遠に失われてしまったとしても、何か掴めるかもしれない。


「覚悟は決めてくれたかな」

「――はい。お願いします」


 最終確認。

 レザリアさんは僕が頷くのを見て、指を握る手に力を込める。


「それじゃあ、気を付けてね。――3、2、1」


 ゆっくりとしたカウントダウン。レザリアさんの言葉が脳に溶けていく。

 オルディーネさんが僕に寄りかかったのか、ラバースーツのツルツルした感触が頬に当たった。その厚い生地の下から感じる柔らかな弾力の正体を探ろうとしたその時。


「ダイブ」


 僕の意識は、記憶の海へと潜った。

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