第18話「混乱は忘却の中に」

「いやぁ、まさかこんなところで出会うとは奇遇だね。和毛君だったか。君は特区外で暮らしていたはずだが、もしかして特区内の企業で就職できたのかい? そいつはめでたい。いや、私がそんなことを言うのは、少し変だろうが。とにかく、無事に働けているようで、こちらとしても安心したよ。ほら、遠慮せずに食べなさい」


 昼過ぎの喫茶店。一方的に捲し立ててから、思い出したようにテーブルの上に置かれたショートケーキを勧めてくるのは、全く見知らぬスポーティな雰囲気の男性。鮮やかな赤髪をワックスで固め、スーツ越しにも屈強な体つきがよく分かる。日に焼けた肌には笑い皺が刻まれ、今もニコニコと顔に艶を浮かべながら笑っていた。

 折手さんと別れ、一人でステーキハウスを出た直後、僕は彼に声を掛けられた。正直言って、本当に一切知らない人なのだが、なぜか向こうは僕の名前を知っていた。そのまま流されるように近くの喫茶店に押し込まれ、そのままなぜかコーヒーをご馳走になっている。


「えっと、すみません。人違いかと思うんですが……」

「いや、そんなはずはないよ。和毛恭太郎君だろう? ほら、医学部の」

「あ、はい……」


 僅かな希望を抱いて腰を浮かせるも、がっちりと両肩を掴まれて椅子に戻される。

 始終困惑しきりの僕を見て、謎の男性は懐から名刺を取り出して渡してくれた。


「えっと……トウミ精工の……釈堂英二、さん?」


 その名前を見ても、やはりピンとこない。けれど、名刺の中には一つだけ、引っかかる文言が記されていた。


「トウミ精工って……」

「――そう。君が就職面接を希望していたトウミメディカルの親会社だ」


 その名前を口にした瞬間、周囲を取り巻く空気が一瞬で変わる。

 あれだけニコニコと笑っていた釈堂さんの目が鷹のように鋭くなり、他の客席から聞こえていた和やかな談笑がピタリと止まる。驚いて周囲を見渡すと、店内に居た全ての人間が、ふっと表情を決してこちらを見ていた。


「えっ? ――そ、そうなんですか?」


 きょとんと首を傾げる。全くもって、身に覚えがない。

  トウミメディカルという会社自体は知っている。トウミ精工傘下の精密医療機器メーカーで、特区外でも業界では高い知名度を誇っているからだ。

 しかし、そんな企業に僕が就職しようとしていた。という事実を僕は知らない。


「……少し、詳しく話す必要がありそうだね」


 ぴくりと釈堂さんが眉を揺らす。

 明らかに異様だった。この場から今すぐ逃げ出したかったけれど、すでに店の出入り口は店員が鍵を掛けている。いつの間にか、僕は閉じ込めれれていた。


「なに、危害を加えるつもりはないよ」


 雰囲気を一変させた釈堂さんは、コーヒーカップを傾けながら言う。その口調は冷徹で、逆らえばその内容が保証されないことを暗に示していた。


「そんなに身構えなくてもいい。私が聞きたいのは、トウミメディカルの面接の日に、君がどこで何をしていたか、という話だ」


 釈堂さんはテーブルに肘をつき、顔の前で指を絡める。


「一週間前、君は トウミメディカルの面接を受けるため、この特区内にやってきた。しかし、 トウミメディカルの人事部は、その日は君が現れなかったと言う。特区内侵入後の君の動きを追ったところ、実際には トウミメディカルの社屋には訪れていた。しかし、それから夜までの記録は全くない。まるで幽霊みたいに、痕跡が消えてるんだよ」

「あ、あの……。本当によく分からないんですけど……。その、僕はトウミメディカルの面接を受けていなくて、そもそも、そちらに伺ってすらいないんです」


 淡々と語られる、僕の知らない僕の行動。

 一週間前のその日の記憶はほとんどない。釈堂さんの言葉は、何一つ実感が湧かないのだ。


「すみません。えっと、その日の僕はファミレスで酔い潰れてしまっていたみたいで……」

「なに?」


 全く記憶が飛んでいるのだ、と謝りながら伝える。すると釈堂さんは初めて怪訝な顔をした。

 僕は覚えている限り、初めて特区内へと足を踏み入れた日のことを話す。とはいえ、本当に記憶は曖昧で、ほとんど何も覚えていない。


「まず、申し訳ないんですが僕はトウミメディカルに応募したんでしょうか?」

「まさか、自分がどこに面接に行ったかも覚えていないのかい?」

「情報収集の過程でトウミメディカルを見た覚えはあるんですけど、ESを提出したかどうかは……」


 釈堂さんの目つきが鋭くなり、周囲も剣呑な雰囲気に変化する。

 僕がその場凌ぎの誤魔化しをしているのだと思われたようだ。


「め、メールも残ってなくて、どこに行こうとしたのかも覚えてないんです。特区に入った直後で記憶が途切れてて、気がついたら翌日の朝で」


 慌てて潔白を証明するためスマホのメールボックスを開いて見せる。釈堂さんはじっくりと念入りにそれを確認して、間違いではないことを知る。


「つまり、 トウミメディカルへ面接に向かったその日一日の記憶を失っていると?」

「す、すみません……」


 自分がどこの企業を希望していたのか。それを僕は知らない。そんな馬鹿な話があるかと我ながら泣きたくなるが、事実なのだ。

 釈堂さんの話では、僕はあの日、 トウミメディカルの社屋までは向かっていたらしい。しかし、その後の足跡が途切れ、そして夜まで現れなかった。


「もしかして、僕が産業スパイ的な人間だと?」

「――そうだな。端的にいえば、それを疑っている」


 恐る恐る脳裏に浮かんだ可能性について尋ねると、釈堂さんは逡巡の後に頷いた。肯定するということは、ある程度その容疑が晴れたと考えていいのだろうか。


「 トウミメディカルは特区内企業で、外部に流出しては不味い情報も多い。だから出入りする人間は内外を問わず監視されているんだが、君が不審な動きをした。それに――君は覚えていないのかもしれないが――その日の夜、君が再出現したのは、特区内の戦闘区域に指定されていたエリアだった」

「戦闘区域?」


 再び衝撃の言葉が投下される。

 僕が忘れている僕は、特区内の戦闘区域――つまりヒーローバトルの現場に迷い込んでいたというのだ。S.T.A.G.Eの認可を受けて行われるヒーローバトルは、事前に申請された一定の区域内で行われる。非常に危険が予測されるその場所は、一般人はどう頑張っても立ち入れる場所ではない。


「ど、どうして……?」

「それが分からないから、我々も調査をしているんだけどね」


 突然消えて、突然現れる。とても自分の事とは思えない。全く、その時の記憶がないのだから。

 釈堂さんの口から語られる僕の動きは、自分で聞いていても怪しさに満ちていた。 トウミメディカルの社屋を訪れてから、夜になって戦闘区域に現れるまでの間、僕はいったい何をしていたのだろう。


「まさか、君はそこで負った怪我のことも覚えていないのかい?」

「怪我、ですか?」


 驚いて袖を捲る。けれど、すぐに確認できそうなところには、怪我らしい怪我も、傷跡らしい傷跡も見当たらない。いたって普通の健康体だ。

 首を傾げる僕を見て、釈堂さんは更に眉間に皺を寄せる。


「教えてください。僕は、怪我をしたんですか?」

「――そうだ。おそらく、重度の全身火傷。それに骨折や出血もあったはずだ。……本当に覚えてないんだな」

「はい。全く、実感も湧かないです」


 それだけの重症を負っていたら、一週間やそこらで完治するはずがない。ましてや、僕はその日の翌朝、ファミレスで酔い潰れていたのだ。本当に釈堂さんの言葉を信じていいのか疑念が浮かんでしまうのも仕方ない。

 けれど、釈堂さんはいたって真面目な表情だった。


「君は突然、戦闘区域に現れた。その出現の瞬間は、町中に取り付けられたどの監視カメラにも映っていないんだ。突然、前触れもなく出現した君は、そこでヒーローバトルに巻き込まれた。それで……セブンレインボーズの攻撃の余波を受けて、重症を負った」

「セブンレインボーズ?」


 極光戦隊セブンレインボーズ。その名前はよく知っている。特区外に住んでいたころから、ネット配信でよく観ていた。七人の超能力者たちによるヒーローチームで、釈堂さんの勤めるトウミ精工がスポンサードしている陣営だ。


「それじゃあ、セブンレインボーズが助けてくれたんですか?」

「いいや、違う」


 釈堂さんはよく日に焼けた顔を横に動かして否定する。


「君を助けたのは――」


 彼が口を開きかけたその時。

 突然、盛大な破砕音が耳朶を打つ。体の真横、サンシェードが下された窓が砕け、外から真っ赤な鋼鉄の盾が飛び込んでくる。


「和毛君!」


 聞き覚えのある声が名前を呼び、僕は手を掴まれる。流れ込む陽光に目が眩み、その姿はひどくぼやけていた。けれど、滑らかな曲線を描く体とそれを包む黒いスーツはすぐに分かった。


「オルディーネ! なぜここに!?」


 釈堂さんの焦る声。店内に居た他の人たちも、手慣れた動きでトートバッグやエプロンのポケットなどから銃を取り出し、彼女に向けて構える。それらが一斉に火を噴く。

 しかし、横から滑り込んできた分厚い盾が、それを全て阻む。


「ウチの可愛い新人を誘拐しておいて偉そうに。トウミ精工、覚悟しておきなさい」

「ま、待て! その男はいったい――くっ!?」


 こちらへ手を伸ばしてきた釈堂さん。しかし、テーブルの上に置かれていたコーヒーカップがひとりでに動き出し、中の熱いコーヒーを彼の顔面にぶちまけた。

 釈堂さんが大きく仰け反ったその隙を突いて、オルディーネさんは僕を横抱きに抱えると、サーフボードのように乗っていた盾を動かして店から飛び出す。

 燦然と降り注ぐ陽光の下、僕に影を落としながら覗き込んだ彼女の口元は、ほっと安心したように笑っていた。

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