第11話「緊急出勤」

 翌朝、目を覚ます。枕が変わったことよりも、ベッドの心地よさが圧倒的に優っていたようで、夢も見ないほど深い眠りを堪能することができた。おかげでいつもは気が重い寝起きもすっきり爽快だ。

 朝食を適当にインスタントの味噌汁とパックごはんで済ませたあと、壁の如く積み上がった段ボールを少しずつ片付けていく。いかに男一人ぶんとはいえ、一晩で片付くほどではなかった。今後も合間を縫って少しずつ片付けていくことになるだろう。


「せっかく広い部屋になったんだし、積読を収納する本棚も買っていいかもなぁ」


 昨日、書類のデータ化を進めながら新見さんから待遇についても説明があった。悪の秘密結社∀NEの下っ端研究員でも、初任給はかなりのものがある。家賃もかからないし、可処分所得はかなりのものだ。以前の自宅では床に積み上げていた本たちの居場所を作ってやることもできるだろう。


「おっと、もうこんな時間か」


 荷物の整理を進めていると、あっという間に時間が進む。たしか、折手さんは8時半と言っていたはずだ。

 どうせ研究室で着替えるので、通勤時はラフな格好でいい。パーカーを軽く着込んで、折手さんがやってくるのを待つ。


「……あれ?」


 時刻は8時40分。しかし、折手さんがやってくる気配はない。もしかしてドアの前に立っているのかと思ったけど、そうでもない。エントランスに行っても、コンシェルジュさんに聞いても、折手さんの行方は知れない。


「自分が時間間違えてるのかな」


 そんな不安に駆られつつ、4216号室の前に立つ。ドアの側にはインターホンが付いている。コンシェルジュさんは折手さんが外出している姿を見ていなかったはずだから、まだ部屋にいるはずだ。


ピンポーン。


 ドア越しに音が響く。数秒ほど間を開けて、インターホンのスピーカーが繋がった。


『……うぇあ?』


 呂律の全く回っていない声がした。……声だよね? たぶん、折手さんの声っぽい。でも明らかにこれ、寝起きっぽいというか……。


「あの、和毛です。えっと8時半に待ち合わせだったと思ったんですけど」

『……………………んびぇっ!?』


 しばらくの沈黙の後、形容し難い奇妙な音がスピーカーから発せられる。


「お、折手さん!?」

『だっだだだ大丈夫だから5分、いや1分、あいや、30秒待って!』

「お、落ち着いてください。ゆっくりで大丈夫ですから!」


 スピーカーは繋がったままで、バタンガタンベタンゴトンと荒々しい物音がけたたましく響く。スピーカーが切れていても、ドア越しに聞こえてきそうな迫力だ。


「折手さんの部屋、どうなってるんだろう」


 何か山のようなものが崩れる音や、水が勢いよく噴き出す音、およそマンションの一室から聞こえていいものではないような音が次々と奏でられる。まるでテーマパークのパレードを数秒に圧縮しているかのようだ。


「ごめん、お待たせ!」


 数分後、吹き飛ばす勢いで扉が開き、中から折手さんが現れる。物音で戦々恐々としていたが、彼女はすっきりと整った身なりで全く隙がない。どこからどう見ても、有能なOLといったスーツスタイルだ。ぜーはーと肩で息をしているけれど。

 あれ、ドアの隙間で見えにくいけど、折手さんの足元に赤色の着古したジャージのようなものが――。


ドガアアアンッ!


「うわあっ!?」


 暗がりに落ちていたものの正体が分かりかけたその時、高級そうなドラム式洗濯機が勢いよく壁に衝突した。立て続けに猛烈な勢いで物音が響き、部屋の奥で何やら凄惨な出来事が発生した気配がする。

 しかし、折手さんはニコニコと笑みを保ったままさっとドアの隙間から飛び出し、びたんと勢いよく閉じた。


「あの、折手さん?」

「ちょっと建て付けが悪いのよ」

「えっ」


 建て付けが悪いと洗濯機が吹っ飛ぶの……?

 特区というのは、マンションに至っても不思議がいっぱいなのかもしれない。


「ごめんなさいね、和毛君。私が迎えにいくつもりだったのに」

「いえ、いいんですよ。折手さんもお疲れでしょうし」


 廊下の真ん中で深々と頭を下げられてはこちらが困る。折手さんは僕にも優しく接してくれるけれど、おそらくかなり上の立場の人だろうし。


「それよりも、急がないと」

「うわっ、もうこんな時間!? ごめんなさい!」


 時刻は8時50分。今から走っても始業時間に間に合うか怪しい。


「くっ、いつもなら5分前でもベランダから盾かっ飛ばせば間に合うのに……」

「えっ? なんですか?」

「なんでもないわ!」


 折手さんに手を引かれ、エレベーターに飛び込む。そのまま一階に向かうと思いきや、彼女はコンソールのボタンをポチポチと高速で押し込み始めた。

 これ、昨日も見たやつだな?


「これはあんまり使いたくないんだけど……。和毛君、しっかり掴まっててね」

「え? うわあああっ!?」


 折手さんの言葉を理解するよりも早く、エレベーターが自由落下よりも数段速く落下する。


「ごっ、ばっ!?」


 落下が終わると次は水平移動だ。反応できないまま壁に激突する。なんで折手さんはこの暴走列車みたいなエレベーターで微動だにしないんだ!?


「ぐえっ!?」


 走り出した時と同じく、唐突にエレベーターの速度がゼロになる。ぱかりと開いたドアから、慣性の力に突き動かされるまま勢いよく飛び出すと、そこは∀NEのエントランスだった。


「ど、どうなって……」

「緊急用の連絡通路なのよ。ごめんなさい、立てる?」

「あ、ありがとうございます」


 折手さんに手を貸してもらってよろよろと立ち上がる。時刻を確認してみれば、8時52分。1分ちょいでここまでやって来たのか……。

 ∀NEも秘密結社ということで、セブンレインボーズをはじめとして色々なヒーローから狙われている。その強襲に対応するため、住居から職場まで直通の道も用意されているのだろう。あくまで非常用らしいけど。


「やあやあ、二人とも。朝からずいぶん忙しないね」


 無事にゲートを通過して出勤を果たしたのち、少し息を整えているとのんびりとした歩速でレザリアさんがやって来る。白衣を脱いだ彼女は、小柄な体に大人びたパステルカラーのカーディガンを羽織っている。桃色の髪にもよく馴染んで、思わず見惚れてしまう。


「あ、おはようございます、レザリアさん」


 慌てて挨拶をすると、彼女はかるく手をあげる。だが、やはり長い袖に隠れて素手は見えなかった。


「ところで、どうして二人ともそんなに疲れてるんだい?」

「ちょっと寝坊しちゃって、急いで来たのよ」

「うん?」


 少しぐったりとした様子で折手さんが事情を話す。するとレザリアさんは何やら不思議そうな顔で首を傾げた。


「寝坊って、まだ9時じゃないか」

「まだ?」


 きょとんとする折手さんに向かって、レザリアさんはぱちくりと瞬きする。


「この前からフレックスタイム制が導入されたじゃないか。とりあえず10時までに出社すればいいって、うちのボスが直々に」

「…………ああっ!」


 僕の知らない制度が紹介され、折手さんが目を見開いて声を出す。

 エントランスの方を見てみれば、確かに9時を過ぎているのにのんびりと出勤している人たちばかりだ。∀NEは労働環境の改革を推し進めていると新見さんが言っていたが、フレックスタイムもその一環らしい。


「ごめんなさい、和毛くん……」

「いや、そんな。貴重な体験もできましたし」


 プラスに考えれば、非常時の通路を使えるなんてそうそうある経験じゃない。折手さんは謝ってくれるけれど、面白いことが経験できたと考えればそう悪いことではないだろう。

 そう伝えると、折手さんはうるうると瞳を潤ませて僕の手を握った。


「ふふっ。二人とも一晩でずいぶん仲良くなったんだねぇ」

「ちょっ、別にそういうことは!」

「うぅん? どういうことかね?」


 ニヤニヤと笑いが止まらない様子のレザリアさんにからかわれ、折手さんが翻弄されている。朝から元気な二人とともに、僕は二日目の仕事へと向かうのだった。

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