第10話「想定外の新居」

##第10話「想定外の新居」

 折手さんが案内してくれた先にあったのは、天を貫くような摩天楼。キラキラと輝く超高層マンションだ。

 その威容に圧倒されていると、折手さんは早速歩き出す。その後を追いかけて大きな自動ドアをくぐって中に入ると、落ち着いた照明のエントランスが現れた。カウンターには制服姿のスタッフが立っている。


「コンシェルジュは二十四時間常駐してるから、何か困ったことがあったら彼らに相談するといいわ。クリーニングとか宅配物の受け取りとか」

「へええ……」


 恭しく一礼するコンシェルジュ。慌てて会釈し返すけれど、まるで場違いな感じがして挙動不審になってしまう。折手さんみたいな大人の女性ならこんな高級ホテルみたいなマンションも様になっているけれど、萎びた院生として一人暮らししていた僕には環境が全く合っていない。


「そういえば、荷物って……」


 一日に色々ありすぎて忘れていたけれど、そもそも引っ越しの準備すらしていない。僕の自宅は特区外にある大学近くの安アパートだ。とりあえず、今日のところは一度戻って、また立て直すべきじゃないだろうか。


「大丈夫よ。手配してるから」

「手配?」


 折手さんは何やら含みを持たせて不敵に笑う。首を傾げた僕の目の前で、エレベーターがベルを鳴らした。


「部屋は42階の4217号室よ」

「よんじゅっ」


 初めて聞く階数に思考が回らなくなる。エレベーターはあっという間にものすごい高さまで駆け上がり、静かに扉を開いた。絨毯を敷き詰めた長い廊下が現れ、左右に整然と扉が並んでいる。


「ちなみに私は4216号室だから」

「えええっ!?」


 何でもないように伝えられた言葉にひっくり返りそうになる。こんなマンションに住むことになるというだけで驚き疲れているのに、まさか折手さんがお隣さんになるとは。もはや理解が追いつかない。


「あの、こ、ここの家賃って……」


 恐ろしくなって尋ねると、折手さんは不思議そうな顔をする。考えたこともないとでも言うように首を傾げたあと、恥ずかしそうにはにかんだ。


「分からないわ」

「ええ……」

「会社が借りてる物件だし、家賃は経費なのよ」

「なんだか申し訳なくなって来たんですけど」


 面接も試験も受けていないのに、とんとん拍子で世界的大企業に就職が決まった上に、こんな立派なマンションの一室が与えられるなんて。あまりにも現実味がなさすぎる。

 もしかして、本当はまだファミレスで眠っていて、夢でも見ているのだろうか。


「いいのよ。和毛くんは私がスカウトしたんだから」


 折手さんはこちらに向き直って、はっきりと言う。僕より身長が高いのに、更にヒールを履いて高くなった目をこちらに向けて。彼女がそう力強く断言すると、なぜかそれだけで少し心が軽くなった。


「この待遇に見合うだけの活躍を期待してるわよ」

「うぐぅ」


 ぽんと肩に手を置かれ、再び胃が痛くなる。今日やったことといえば、書類をスキャンしたくらいのことだ。どれくらい頑張ったら、これに見合うだけの業績が上げられるのだろう。

 気が重くなった僕を連れて、折手さんは廊下を歩く。そして辿り着いたのは、4217号室の立派な扉の前だ。


「さ、どうぞ」


 促され、ドアノブにバンドを近づける。識別コードが認証され、ロックが自動的に解除された。ドアを開くとひとりでに照明が点灯する。そこに現れたのは――。


「うわっ!? え、えええっ!?」


 うずたかく積み上げられた段ボールの山。ドアのそばに立つ折手さんは得意げに笑っている。おろおろとしながら入室し、一箱開封する。中から出て来たのは、見慣れた専門書――僕の私物だった。


「なんで!?」

「昼のうちに運ばせてもらったわ。申し訳ないけど、秘密結社だと色々制約もあるの」


 全く信じられない出来事に驚きすら通り越して硬直していると、折手さんが順を追って説明してくれる。

 ∀NEはヴィランを擁する悪の秘密結社だ。当然、その職員にも高い機密厳守が求められる。この高級マンションも、職員を保護し、ひいては情報を秘匿する意味合いがあるのだという。

 僕も∀NEに入職したことで、すでに多くのことを知ってしまっている。そのため、一日でも元々住んでいた特区外に出すわけにはいかない。引越しの代わりに荷物は全て∀NEによって移送され、僕が何もしなくてもすぐに暮らせるように準備が整えられていたのだ。


「す、すごいですね……」


 特区内では、外の常識は通用しない。

 そのことを改めて思い知った。

 これ、部屋にあった荷物全部あるんだよなぁ。鍵とか大家さんへの連絡とか、どうなったんだろう。ていうか、部屋に人を入れるつもりが全くなかったから、色々と恥ずかしい状況だった可能性もある。

 そういうところが強引に進んでしまうのも、特区内だからで説明がつくのかもしれないけど。


「ベッドとか冷蔵庫とかは備え付けのものがあるから、それを使ってね。あ、冷蔵庫の中身は全部もう移してあるわ」

「あ、ありがとうございます……」

「それじゃあ、私はこれで。今日は疲れただろうし、ゆっくり休んでね。明日は8時半くらいに声を掛けるから、一緒に出勤しましょう」

「何から何まで、ありがとうございます」


 気がつけば明日の予定まで合わせてしまい、折手さんは軽く手を振ると隣の部屋へ入ってしまった。本当に彼女がお隣さんになってしまったらしい。

 あまりも唐突に生活環境が変わって、驚き疲れてしまった。


「お、お邪魔します」


 自分の部屋という実感が湧かなくて、恐る恐る入室する。

 ダンボールの数を見たところ、本当に僕の私物が全て運び込まれているようだ。

 とは言っても、もともとが男の一人暮らしだ。本が多少多いものの、荷物自体はそう多いわけでもない。立派な2ドアの冷蔵庫を開くと、数日前に買ったコンビニ弁当と、仕送りで貰ったものの持て余していた梅干しの瓶が入っていた。

 段ボールの壁を退けて部屋の奥に進むと、その広さがあらわになる。対面式のキッチンに、広いリビング。開放感あふれる3LDK。どう考えても持て余す広さだ。


「なんてこった」


 思わずそんな言葉が漏れ出す。

 荷物を全部開けても、一部屋の半分で収まってしまうぞ。∀NEの福利厚生が手厚すぎて、むしろ落ち着かない。

 寝室にあたる部屋を覗くと、立派なベッドが鎮座ましましている。ずっと使い続けていた万年床とは大違いの、真っ白でふかふかのスプリングベッドだ。ダブルとまではいかなくても、セミダブルくらいはあるんじゃなかろうか。


「お、おお……」


 浅く腰掛けるだけでもその素晴らしさがよく分かる。

 荷解きをしなければいけないと考えつつも、僕はしばらく動くことができなかった。


━━━━━


「ふぅぅぅ」


 扉を閉めると同時にヒールを乱雑に脱ぎ捨て、廊下を歩きながらセーターを脱ぎ去る。身軽になると同時に、折手寧々はリビングに置かれたソファへとダイブした。


「つ、疲れた……!」


 悪の秘密結社∀NEの職員が暮らす高層マンションの4216号室。そこは、全く同じ間取りである隣の4217号室とはまるで違う様相を呈していた。

 壁際に向かって高く積み上がるのはパンパンに詰め込まれたゴミ袋の山。その下には洗濯物やコンビニ弁当の空き容器といった生活の残骸が地層を作っている。足の踏み場と言えるのは、玄関とバスルームとソファの間を繋ぐ細い線だけ。それもまた、森の中に通る獣道もかくやといった心細いものだ。

 入居して以来ほとんど窓を開けたことのない部屋だが、24時間空調のおかげでギリギリ環境が保たれている。腐海に飲まれる間際、といった具合ではあるが。

 悪の秘密結社∀NEの幹部である寧々の日々は激務に次ぐ激務だ。今日は病み上がりということで早めの退勤が叶ったが、普段は早朝に出勤して深夜に帰宅する日々である。故に、せっかくの高級マンションの一室がまるで獣の巣のようになっていても、それは仕方ないことなのである。


「ああああ、やっちゃった」


 窮屈なチノパンを脱ぎ捨て、あっという間に下着だけのだらしない姿になった寧々は、長い銀髪を掻き乱す。そして、まるで猫が何もないところを見つめるように、一方の壁をじっと見つめた。猫と異なるのは、彼女が壁の向こうに居るであろう存在に思いを馳せている点だ。


「まさかこんな、ゴリ押ししちゃうなんて」


 寧々はローテーブルの上に積み上がった弁当の空容器を払い落とし、その下にあるファイルを手に取る。ちびっ子の知人から、せめて重要書類はしっかり管理しておけと激詰されて押し付けられた書類ファイルだ。身分証とか契約書とか、この部屋の腐海に飲まれてはマズいものがざっくばらんに突っ込まれている。

 そんなファイルの一番後ろのページに、丁寧におり目なく納められた紙が一枚だけあった。テキストデータをそのままプリントアウトしただけの飾り気のないものだが、彼女はそれを眺めてニヨニヨと口元を緩める。

 そこに書かれているのは、悪役ポジションであるはずの自分に宛てて書かれた感謝のメッセージ。彼女が初めて貰うファンレター。

 これを書いた青年は、これを書いたという事実を忘れているはずだ。それでも、彼女は手紙を読んだ時、居ても立ってもいられなくなった。

 自分の持ちうる権限とコネと貸しを総動員させ、頑なな人事部に微笑みを送って、彼を手に入れたのだ。メディカルポッドの中で目覚めてから、激動の1日だった。後悔はしていない。していないが、少し無茶をやりすぎた自覚はあった。


「うぅぅぅ。どうすればいいの!?」


 ファイルを閉じて、ソファに寝転がった寧々はパタパタと足を動かす。

 何よりも彼女を悩ませているのは、成り行きとはいえ正体を隠してしまったことだ。彼は折手寧々の正体を知らない。なぜか人事部の有能なスカウトマンだと思っている。そんなわけがないのだが……。

 だが今更正体を明かすのも難しかった。彼は昨日の出来事をすっかり忘れているのだ。今、寧々が正体を明かしても、彼は驚くだけだろう。そして、入社したばかりの新人研究員と寧々では立場に差がありすぎる。強引に迫れば、パワハラと訴えられかねない。


「……と、とりあえず、当面のところは頼れる先輩として親睦を深めるのよ。そうしてお互いに理解が深まったところで、自然な流れで正体を明かす。そうしたら、きっと……ふへっ」


 妄想の世界に片足を突っ込み、寧々は人前で晒せない表情を浮かべる。だが、問題はない。なぜならこの部屋には彼女一人しかいないのだから。たとえ特区であっても、内心の自由は保証されているのだ。

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