第29話 神田池の河童の正体は
入山して約一時間ほどしたところで僕たちは山間にひっそりとたたずむ小さな池にたどり着いた。
まかり間違っても、絶景とは言い難い。さほど大きくもなく、水も緑色に濁っていて、その水面の三分の一ほどは落葉に埋め尽くされてしまっている。
その昔、河童が住んでいたというのだからもう少しきれいな水質を予想していたのだが、これでは河童どころか魚もそれほど住んでいるとは思い難い。あるいは昔はもっと、山水の流入が多く水質もきれいだったのかもしれない。
「あ、でもこの水中が不透明なところだとか、もしかしたら謎の巨大生物とかいたりする可能性を感じませんか」
オカルト好きな上田は相変わらず夢見ごころなことを言いながら池のほとりに座り込んだ。
散々歩き通して疲れていただろう。僕も横に座り、ペットボトルの水を飲みながらくだらない蘊蓄を垂れる。
「残念だけど、この池に巨大生物はいないよ。それに河童にしたって無理だ。もっと流動のある川の様な所なら住んでいてもおかしくないけれど、何しろここは山に降った雨水が集まってできた大きな水たまりみたいなものだ。もちろん、下流で川ともつながっているだろうし、魚が昇ってきて住んでいたっておかしくはないけれど、巨大生物や河童が餌を確保できるほどにはいないだろうね。
ほら、イギリスのネス湖に有名なネッシ―という巨大生物の伝説があるだろう? ネッシーの伝説自体は六世紀ごろから伝えられてはいるけれど、なんといっても有名なのはあの、いわゆる外科医の写真だ。あれはもともとエイプリルフールネタとして作られたおもちゃの潜水艦の写真だったということが公表された今でも多くの人々がネッシーの存在を今でも信じている。
だけど、規模としてはかなり大きいけれど泥炭が流れ込むことで水の透明度の低いネス湖は同時に食物連鎖の底辺となる植物プランクトンも極めて少ないと言える。そのプランクトン量で生存可能な水棲小動物があり、それを餌とする中型水棲動物、それを餌にする大型という風に計算すると、ネス湖はあれだけの大きさがあっても、せいぜいワニが10匹生存できるかどうか程度らしい。で、あれば、古代よりネッシーのような超大型動物が繁殖を行い今日に至るために常に二匹以上のネッシーが存在し続けたということは、どう考えても無理なんじゃないかな」
僕はまた、くだらないことを言ってしまったと思う。悪い癖だ。
隣で、炭酸飲料をペットボトルから喉に流し込んだ上田が濁った池を見つめながら言った。
「そんなことはどうでもいいんですよ。いるかいないかなんて大した問題じゃないんです。多分いないんだろうな、なんてどこかわかっていても、この濁った水を見ていると、その奥に何かいるのかもしれないと思うことができるだけで楽しいんですよ。だから、透明すぎる水はよくないんです。そこに、いないことがはっきりわかってしまうから……」
――見たいものを見ているだけ。
「せっかくなので、そろそろお昼にしませんか」
「お昼? ここで?」
決して絶景なんかではなく、時間もまだ昼には遠く及ばない。しかし、歩き疲れておなかが減ってきたと言えば確かにそうだ。しかし、今日はピクニックが目的で来たわけでもなく、僕は食べ物なんて特に用意していない。
「わたし、今日。お弁当を作ってきたんです。実はそれで、昨日夜更かしをしてしまい、今朝、起きられなかったのです」
朝、寝坊していたことをさらりと言い訳した上田がリュックを下ろし、中から籐籠を取り出す。言われてみれば今日一日、山道で転んだ時もしきりにリュックをかばっていたように見えたが、そういうことだったのか。僕が荷物を持ってやるべきだったかなんていまさらにして思う。
籐籠から出てきたのはサンドイッチだった。道も整備されていない山中の濁った池のほとり。雰囲気こそは微妙だが、これはもう完全にピクニックだと言っていい。泥のついた手をはたき、サンドイッチにかじりつく。中はキュウリとハムのサンドイッチだ。シンプルだけど、パンに塗られていたからしマヨネーズにしっかりとからしが効いてアクセントになっている。肉厚なキュウリがたっぷりでカリカリとした触感が心地よい。歩き疲れていて味のしっかりしたものよりもシンプルでアクセントだけが効いたサンドイッチを普段よりもいっそうおいしく感じてしまう。
「どうですか? おいしいですか?」
「ああ、これは無茶苦茶うまいぞ!」
少し興奮気味に言ったのは決してお世辞を含んでいたわけではない。正直な話、結構ずさんなところのある上田にこれほどの料理スキルがあるとは思っていなかった。
「えへ、そういってもらえると、嬉しいです……」
上田ははにかみ、そして、その頬を涙が伝った。
「え、ぼ、僕、何か嫌なこと言った?」
上田は自分が涙を流していることに気づいていなかったらしく、頬を伝う涙を慌ててぬぐいながら「す、すいません。その、からしが効きすぎただけですから」と言い訳をした。
食事を終わらせ、少し休んでいると、『キャン』という小さな犬の鳴き声が聞こえた。どこかで聞き覚えのある鳴き声ではあった。あたりを見渡す。こんなところに、人が住んでいるわけもないだろうし、飼い犬がいるとも思えない。野良犬でも住み着いているのだろうかをあたりを見渡す。
ちょうど対岸あたりでもう一度小さな声で『キャン』と聞こえた。
「「あっ、あそこ!」」
二人がほぼ同時にそれを見つけた。この池からちょうど対岸の木に覆われた中に、ボロボロで崩れかかった廃屋を見つけたのだ。まさかあんな家に誰かが住んでいるとは思えないが、
「行ってみよう」
僕が言うよりも先に上田は立ち上がっていた。
池を迂回してたどり着いた家屋。山奥の割には敷地面積もそれなりにある。玄関先には朽ちた木の板にかろうじて『神田』と書かれているのが読み取れた。この家の住民の表札だろうか。少なくとも、この目の前の池こそが噂にある『神田池』で間違いはなさそうだ。
家屋の壁板は朽ちてボロボロになっているし、周りに生い茂った木々の枝が伸びて家屋にも侵入している。茶碗や皿など割れた陶器の残骸や包丁や鍬、鋤などの金属製の生活用品がサビて腐食した残骸なども見受けられる。
かつてはこの場所に、少なくない人間が生活していたのだと思われる。しかし、なぜこの家族はこんな山奥に隠れるように生活していたのだろうか。
『キャンキャン』と犬の鳴き声が聞こえた。その声につられて建物の裏手に回る。家屋の裏はすぐに崖になっていて今にも崩れ落ちそうな岩壁がそびえる。そのたもとに、見慣れた小動物が小さな尻尾を千切れそうな勢いで振っている。
まるでひげの生えた老人のような表情の子犬。泥だらけのシュナウザーはあの、旧校舎の裏に住み着いていたやつに違いないだろう。片脚をけがして引きずっている。
上田がそれをかいがいしく抱き上げる。
「ねえ、そういえばこの子に名前、まだ付けていなかったですよね」
「飼うつもりなのか?」
「うちじゃあ無理ですね。さすがにアパートですし隠し通す自身もありません」
「それなら、名前なんか付けないほうがいいな。情が移ると、厄介なことが増える」
「まあ、それはそうなんですけど……」
「むしろさ、こいつがここにいるということは、この場所って案外学校からすぐ近くの場所なんじゃないのか?」
「学校からすぐ近くというよりは、地図で見るからに、あの裏山の広場からはかなり近いと思います。あの空地も、この池もちょうどこの辺りの航空写真がピントがずれてうまく映っていなかった場所ですから」
崖と家屋の裏手の隙間を少し歩いたところで、崖に横穴があった。入口は決して大きくないが、腰をかがめれば人間が通ることに不自由はない大きさだ。
ためらう理由もなく僕は横穴に入る。先日落したLEDの懐中電灯が今更ながらに惜しくなるが、スマホのライトで応用する。その横穴は数メートル進んだところで立ち上がることができるくらいの広い場所にたどり着いた。
立ち上がり、あたりを見渡した。
「ああ、この場所で間違いないよ。上田さんも、こっちにおいで」
この場所を、オカルト好きである彼女に見せない理由などどこにも見当たらない。
僕は、僕たちは、どうやらすごいものを見つけてしまったらしい。
上田さんよりもまず先に、子犬のほうが到着する。それに続いて上田さんが横穴を這うような形で潜り抜けてきた。僕はそれを見計らい、彼女が見やすいようにその場所にスマホのライトを当てた。
「あ、ああ。これは……」
「いったい何なんだろうね。でも、おそらく神田池だとか、河童だとか、そういう伝説が生まれることに関与しないわけはないと思うよ」
身長の半分ほどの高さの朱く塗られた鳥居。きっと雨風にもさらされないこんな場所だから、その塗料がはげ落ちてしまうこともなく今もこの場所で残り続けたのだろう。
鳥居の奥には仏像なのか、あるいはご神体の様な石像が安置されている。大きさとしては膝から下くらいの小さな石造だ。まるで子供のような体型で、短い手足におかっぱ頭。その口は、少しとがっているようにも見える。
その姿は、河童か、あるいはアマビエのようにも見える。さすがにこの石像を見た人たちが、神田池に河童が住み着いているという伝説を残したのではないと思う。おそらく単なる通行人が、こんな横穴にまで入ってきたとは考えにくい。
だけどこの石像が、このようにして祀られるというのにはそれなりの理由もあるのだろう。例えばそれが、この場所に時折見かけられた生き物の姿を形どったものという可能性を考えるほうが妥当だ。
そう言えば、子犬はどこへ行ったのだろうと思う。空洞の隅のほうで砂ぼこりが舞うような音がして、そちらのほうへスマホのライトを向けると子犬は何やら壁のほうを必死に掘っていた。
「おまえ、そんなとこで何やってんだ」
ライトを向けて二人でそちらのほうへ歩いていくと、子犬は警戒してこちらを振り返る。口には、何か白いものをくわえていた。
「おいおいおい、ちょっと待てよ。それって――」
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