第17話 二階に誰かいる

「あ、どうも」


「どうも」


 相手のあいさつに合わせて同じように声を掛ける。まるで老犬のような優しい表情だ。ドラムセットのシートに腰掛け、シンバルを一人磨いている。


「井上、来てたのか?」


「うん、ごめん。邪魔しちゃったかな」


「ジャマ? 何を言ってるんだ?」


「いや、ほら、その、伏見さんと……」


 どうやら井上は、僕とななせが付き合っているとでも思っているらしい。まあ、悪い気はしないけど。


「別に、ななせが練習できなくて暇だからとコーヒーを飲みに来ただけだよ。よかったら一緒にどうだ?」


「うん、でも……」


 井上はドラムに視線を落とす。どうやら一人でも練習をしようとやってきたのだろう。だけど、僕がななせと一緒にいるところを見て音を出してもいいか悩んでいたのかもしれない。


「練習、しに来たのか?」


「うん、一応家に練習用の音の小さいドラムセットは置いてあるんだけどさ、やっぱり雰囲気が出ないというか……。あ、でも、やぱぱり邪魔、だったかな?」


「気にするところじゃないだろ。部室なんだし」


 本音を言えば、邪魔だと言ってしまいたいという気持ちもある。しかし、はやりそれは筋違いだというもの。仕方ない。ささやかな、静寂だった。


「それじゃあ、お言葉に甘えて――」


 井上が練習の準備を始めたところで、部室の戸が開く。


「あ、やっぱり井上くんじゃん! 練習?」


「うん」


「そっかー。アタシも歌いたいな」


「ななせ、お前は風邪ひいてるんだろ。今はやめとけよ」


「だよね。わかってる、わかってる。だから部活動もお休みになってるわけだし……」


 いいながら、折角練習を始めようとしている井上に話しかけて邪魔をしてしまうななせ。

 あきれた僕はスマホの着信音に気づき、通話ボタンを押す。


『あ、もしもし、わたし、麻里です。今、家にいるんですけど……』


「と、言うか、ヒドイ鼻声だな」


『風邪ひいちゃったみたいです』


「わかってるよ。今朝聞いた。ゆっくり寝てろよ」


『はい、すいません。ちょっとお願いがありまして……』


「なんだ?」


『はい、あの、犬に餌をやってほしくて……』


「犬?」


『昨日見かけた、あの犬です。おなか、空かせてるかもしれないので』


「下手に餌付けすると住み着くぞ」


『たぶん、もう住み着いてます』


「だろうな」


『だったら、あげたほうが優しいです』


「まあ、そりゃあそうかもな」


『お願いします』


「ああ、わかった。わかったから上田はもう寝てろ」


『はい、すいません』


 通話ボタンを切る。ななせと井上が、僕のほうを見ていた。どうやら話を聞いていたようだ。


「麻里ちゃん?」


「ああ、そうだ。犬に、餌をやっておいてほしいそうだ」


「犬って、あの、足をけがしてるっていう?」


「あれ、僕。犬が足をけがしてるなんて言ったっけ?」


「違うの?」


「いや、してたと思うけど」


「やっぱそうじゃん。有名でしょ。おじいちゃんみたいな顔したやつでしょ?」


「そう、それ」


「結構見たっていう人いるよ。人面犬」


「人面犬っていうか……」


 ふとみると、そんな話を横で聞いていた井上が顔を青ざめさせている。


「どうした? 井上」


「いや、その犬ってもしかして……いや、そんなはずはないよな。だってアイツは……」


「なになに? 気になるじゃない」


「うん、実はね……」


 井上は、過去に犬を拾ったことがあるという話をしてくれた。今から約四年前、僕らがまだ小学生だったころの話だ。家の近所の公園の隅に、段ボールに入れられた、まるでおじいちゃんのような顔つきの犬だそうだ。足をけがしているようで、かわいそうにと思った井上は家に連れて帰ったそうだ。


 しかし、母親が犬アレルギーだということもあり、犬はまた公園の箱に戻したのだという。


 その数日後、近所の道路で事故があったという。道路に飛び出した犬を車がはねてしまったそうだ。犬は足をけがしていたらしく、うまく逃げることができなかったらしい。


 もし、あの時自分がもっと両親を説得して家で飼うことができていれば、その犬は死ななくてもよかったのではないかと未だ後悔しているらしい。


「でも、それって仕方なくないか? アレルギーがあったというのならやはり説得しても無駄だったろうし、別に井上が悪いわけじゃない」


「そうかもしれない。でも、アイツのほうはそうは思っていないかもしれないじゃないか。僕のことを恨んで、いつか復讐しようと考えているのかもしれない」


「おいおい、ちょっと待てよ。もしかして井上は僕たちが見たっていうその犬が、その時の犬だって言いたいのか?」


「だって、足をけがしていたし、顔もおじいちゃんみたいだった」


「だってその犬は事故にあって死んだんだろう? それならどう考えても――」


 僕が井上の過ぎた考えを否定しようとしたところで、ななせが口を挟む。


「ねえ、井上。その犬の特徴もっと詳しく教えてくれないかな」


 ななせにしてはやけに神妙な面持ちだだ。


「うん、それなら……」


 井上はスマホを取り出し、中の写真データを引っ張り出す。


「あの時、一枚だけ写真を撮っていたんだ」


 その写真を覗く。茶色くて毛の短い犬で、おそらく柴犬を含むミックス犬とみるべきだろう。鼻筋が短くて、確かに頭の禿げた老人のように見えなくもない。だが、昨日僕が見た犬はグレーのシュナウザーだ。どう見たって、似ても似つかない別の犬だ。しかし……


「あ、間違いない。これだ。この犬だよ。アタシも見たことあるし、ほかに見たっていう人の証言とも一致する。間違いなくこの犬だよ。ねえ、マコトが見た犬っていうのとはどう?」


「ああ、間違いないな。僕が見た犬もこの犬で間違いない」


 僕はつい、嘘を言ってしまった。あまりにも、井上がおびえてしまっているようだったから。「生きてたんだよ。生きて、この学校に住み着いていたんだよ……」


「いや、そ、そんなはずはない……だって、あの犬は間違いなく死んだんだ。事故にあって……」


 僕の偽の証言はさておき、井上はまるで怨霊に追い回されているような錯覚にでも陥っているのだろうか。全身を震わせ、おびえてしまっている。


 しかし、どう考えたって、死んだ犬がこの山に住み着いているなんてありえない。もしかすると、四年前に事故で死んだという犬が井上の知っている犬とは別の犬で、本当にあの時の犬がこの山に住み着いているという可能性だってありうるし、単に似ているだけの別の犬という可能性だってある。


 いや、そもそもが裏山に住み着いている犬は井上の記憶にある犬とは実際似ても似つかない。


 だけど、今の井上にとって、それは一番ドラマティックで、一番オカルティックな結論にたどり着こうとしている。もしくは井上自身が、誰よりもそれを望んでいて、自分を罰してほしい。そんなことを考えているのかもしれないと、僕は考えてみたりもした。人は見たいせかいを見ようとするものだ。


「やっぱり、今日は帰るよ」


 井上はそう言いだし、僕はそれを止めなかった。心が不安定なまま練習をしたって、あまりいいことにはならないだろう。


「うん、気を付けてね、井上くん」


 ななせは不安そうな井上を見送り、結局旧校舎にはまた僕たち二人だけになった。

 僕もあまり読書を続ける気にはなれず、上田に頼まれた、犬の餌やりのことだけが頭をよぎる。

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