3日目 木曜日

第15話 大きなマスクの女

 その日の放課後、旧校舎は極めて静かだった。

 猛烈な寒波も少し収まり静かにそよぐ風が茶色く乾燥した木の葉を揺らしてカサカサと音立てる。

 上田は今日一日学校を休むらしい。今朝、律儀に電話をかけてきた。


『わたし、麻里です。今、家にいます。まだ体調があまりよくないので今日は一日休むことにしました。あと、昨日はありがとうございます。その……伏見さんにもお礼を言っておいてください』


「ああ、わかった。でも、ななせへのお礼は自分で伝えろよ。今日はゆっくり休んでろ」


 それだけ言って電話を切った。


 上田が一人いないからと言って、それほど静かになるわけではない。元々上田は物静かなほうだ。


 少ししてななせがやってきた。元々が小顔ではあるのだが、その日の彼女はその顔の半分を受けつくすような大きな白いマスクを着けていた。


「マコト、元気?」


 僕はいたって元気なのだが、当のななせはとても元気だとは言い難い声だった。のどがかすれて明らかに風邪声だった。


「うつされたのか?」


「人聞き悪いこと言わないで。麻里ちゃんがうつしたわけじゃなくてアタシが勝手に持って帰っただけだから」


「まあ、確かにそれはそうだけど……。そういえば上田は今日学校休むって、ななせにもお礼を言っておいてくれと言われたので、自分で言えと言ったんだが、連絡はあったか?」


「ううん、ないよ。アタシ、麻里ちゃんの連絡先知らないし」


「え、そうなのか?」


「だって、別に同じ部でもないし、そんなもんでしょ?」


 ななせは文芸部唯一の電化製品、湯沸かしポットのところに行きスイッチを入れる。


「マコトも飲む?」


「ああ、お願いする……っていうか。いいよ。ななせは座っていてくれ。コーヒーくらい僕が淹れるよ」


 さすがに風邪をひいた様子のななせにそんなことまでやらせるわけにはいかない。


「そう、ありがと……こほん」


 お湯が沸くのを待つ間、椅子に座ったポケットから手鏡を出したななせは自分の姿を鏡で見ながら前髪を整え、ぽつりと「あ、やっぱイケてるわ」とつぶやく。

 気になってそちらのほうを見ると、ななせは待っていましたかと言わんばかりに言う。


「ねえ、アタシってさ、マスクでこれだけ顔隠れてても十分にかわいいよね?」


「は?」


「は? じゃないでしょ。かわいい? って聞いてるの」


「マスクをした状態でカワイイ? って聞かれてもな。なに裂け女だよって感じだ」


「そんなことを聞いてるんじゃないの。かわいいかどうかって聞いてるの」


「はい、かわいいかわいい」


「あは! 一回言えばわかるのに、わざわざ二回も言うなんて、相当かわいいと思ってるんだね! でも、やっぱりこうして――」


 ななせはマスクを外す。小さな体に似合わず大きめの口があらわになる。


「――マスクを外したほうが、もっとかわいいよね!」


「そうだね。かわいい、かわいい、と」


「あははは、だから一回言えばじゅうぶんなのに二回も――」


「お湯、沸いたぞ」


「あ、はいはいー」


 ななせは少しゴキゲンに二つそろいのマグカップにインスタントのコーヒーを淹れる。僕の使っているマグカップはもともとななせが持ち込んだもので、自分用のマグカップも文芸部の部室に置いたままにしている。この旧校舎に湯沸かしポットがあるのは文芸部の部室だけで、それ故に時々旧校舎を使用している皆の給湯室としても扱われがちだ。


僕はブラックで、ななせは自分のカップにはたっぷりのコンデンスミルをくわえるのがいつものスタイル。


「アタシは今日部活休みだから、今日はずっとここにいるね」


 そんなことを言いながらななせは部室の書架に刺さった大量の本の中から、数少ない漫画を数冊持ち出して僕から少し離れたところで読書を始めた。


「なあ、ところで……」


「なあに?」


「上が静かなようだけど、ほかの軽音部はどうしたんだ?」


「うん、なんかさ、アタシが風邪ひいちゃったって言ったら、『じゃあ部活動はしばらく休みにしよう』って、ことになっちゃってさ」


「ああ、そうなのか。それで……いや、そうならそうで、ななせも帰ったほうがいいんじゃないのか? 大体、風邪をひいているのはななせなわけだからさ」


「え、だってさ、あとでたい焼き食べに行くでしょ? 昨日の約束、守らなかったんだから普通今日は守るよね?」


「ああ、まあ、それは構わないんだけど……何なら今から行くか? 別に俺が帰る時間まで待つ必要もない。部は俺一人だし、今すぐ帰っても問題はないわけだけど」


「あ、でもそれじゃあおやつの時間にはちょっと早いかしら? こうみえてダイエットには気を遣ってるから食事の時間もそれなりに気にしてるんだよね」


「そ、そうだったのか?」


 僕はコンデンスミルクたっぷりのコーヒーの入った彼女のマグカップを見た。「そんなものを飲んでいたら台無しだろ」と心の中では思ったが声には出さない。


 まあ、折角久しぶりの静かな放課後だ。たまにはのんびりと読書をするというのも悪くはない。


 僕は、鞄から読みかけの文庫を取り出す。横溝正史の『八ツ墓村』だ。同名タイトルの映画があまりにも有名で、繰り返し映像化されているものの、その肝心な映画のほうが原作からはだいぶ遠い仕上がりになっているので、初めて読んだときは少し面食らってしまった。テレビでバスケットボールの試合を見ながらふと読み返したいと思ったことは口が裂けても言うべきではないだろう。


本作は、田舎の古い因習が事件の背骨としてある物語だが、実際に読んでみると、ミステリでありながら、わりとラブコメしている。横溝作品には割と多くの作品に対して言えることなのだが、呪いだとか、祟りだとか、そういうオカルティックなワードになぞられる事件の真相は必ず人為的に引き起こされたものであり、そこに不思議は存在しない。


だが、やはり一歩引いてみたところから全体を見てみると、まるで怨念や祟りが存在したかのように、子孫や関係者に不幸が降りかかり、結果を見るとやはり呪いは存在したという見方もできる。その見事な構成こそが横溝作品をミステリでありながらもホラー作品に数えられるゆえんだろう。


しばらく読書を続けていたが、ななせが読書に飽きたころにふと話を切り出す。僕が相変わらず本を読んでいるにもかかわらず。


「ねえ、そういえばさ、昨日アンタたち、二人で何してたの?」


 面倒くさいが、それを無視して読書を続けられるほど僕の肝は座っていない。


「上田を保健室に送って行って、そのあと家まで送っていった。そのあとはななせも

知っている通りだけど?」


「いや、そうじゃなくってさ。そうなる前のハナシよ。麻里ちゃんがなんでたおれたのかって話なわけよ。昨日ちょっとだけ聞いたんだけどさ。導かれただとか、怨念だとか、なんかあまり穏やかなこと言ってなくてさ。まあ、熱で少しうなされてたのかなって思ったんだけど、なんだか気になっちゃって……」


「ああ、まあそういうことならあまり気にするほどのことじゃないとは思うよ。ほら、上田はちょっとさ、なんていうか妄想的な癖があるというか、そんな感じだからさ」


「要するに中二病ってことよね。まあ、それは見ればわかるわ。部屋を見てもやっぱりそんなカンジだったし」


「うん、まあ、確かにあの場所が多少神秘的だったというのはまあ、確かにそうなんだろうけれど、それで少し舞い上がってしまったというか、元々熱があるのに興奮してしまったんだろう」


「ふーん、そっか、で、どこの話をしているのよ?」


「ああ、その、この間の油揚げの話があっただろ?」


 僕は、旧校舎の裏山の向こうにある、あの絶景スポットについての話をした。

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