1日目 火曜日

第2話 不倫の噂


 ――読書の秋だ。


 読書をするうえでこれほどに恵まれた環境があるだろうか。

 僕らの通う私立高校は山の斜面の中腹にあり、その斜面に沿って校舎が建てられている。


 校門をくぐって一番手前にあるのが最も新しい新校舎。

 そこからまっすぐに伸びる階段に沿ってひとつずつ古くなっていく校舎。

 斜面の一番奥にあるのがこの旧校舎だ。


 二階建ての木造建築で各階に教室は二つだけ。さらにその上にちょこんと乗っかる形の三階部分は時計塔の機械室になっている。時計の針はすでに動きを止め、時間は全く持ってでたらめな方向を差している。


 かつてはこの学校の校舎はこの木造校舎だけだったらしいのだが、時代が進み、生徒が増えるにつれその下に校舎を一棟ずつ増やしていったという。


 今となってはこの古い旧校舎はほとんど使われていない。

 故にほとんど廃部寸前の部活動の部室としてのみ使われている。しかもこの旧校舎、少し前には幽霊が出るだとかそんなうわさも流れ、無関係の生徒は好き好んで足を運ぶようなことはしない。

この上なく静かな場所であり、僕の所属する文芸部の部室はこの旧校舎の一階にある。


これほどに読書に適した場所があるだろうか、しかも、今日用意した本は格別だ。


 岩井志麻子の『ぼっけえきょうてえ』 第5回角川ホラー小説賞を受賞した作品で、『ぼっけえきょうてえ』とは岡山弁で「とてもこわい」という意味だ。 


 過去に幽霊騒動があっというこの旧校舎は当然建物も古く、ホラー小説を読むにこの上ない雰囲気がある。むしろ雰囲気がありすぎるほどだ。


 しかし何もそこまで怖がる必要はない。あいにく僕は怪異譚だとか、都市伝説だとか真に受けるようなロマンチストじゃない。かといって、それをあえて馬鹿にするほど許容の狭い人間でもなく、エンターテイメントとしてのそれを楽しむことのできる懐の大きい人間だ。


間もなく作中に没入し、秋の冷たい風がカタカタと古い窓をたたいて揺らす音さえも耳に入らなくなった頃合い……


「マッコトー!」


元気があり余り過ぎてこちらの迷惑さえも顧みない勢いで教室のドアを開き、読書にいそしむ僕の向かいに無遠慮に椅子を引いて座る伏見ななせという美少女。

机に両肘をついて合わせたこぶしの上に顎を乗せる。じっとこちらを見つめるように話しかけてくる。


「ねっ、ねっ、マコト。聞いた? 早乙女花蓮のハナシ!」


 手に持っていた文庫本の位置を少し上に持ち上げ、彼女からの視線を隠す。

 別に、、伏見ななせのことが嫌いだとか苦手だとか、そういうことじゃない。


――むしろ逆。あまりにも無邪気に見つめてくるその瞳に、僕は思わず吸い込まれそうになってしまうのだ。いくらなんでも、こんな至近距離で目なんて合わせられるものか。

心臓は大きく拍動するし、呼吸も苦しくなる。もう、それだけで文字なんて読めてもいないのだが、それでも読むふりをしながら文字列越しに様子をうかがってみると、首をかしげながら文庫本を迂回してくる視線と正面衝突を起こしてしまう。


「聞いてる?」


 ふう、とわざとらしくため息をつき、冷静さを保ちながら栞を挟んで文庫を閉じる。


「サオトメカレン、サオトメカレン……ななせのクラスメイトだったけ?」


「ぶっぶー。もう、なんでマコトは早乙女花蓮を知らないわけ? アイドルだよ、団子坂のセンターだよ?」


 団子坂何タラというアイドルユニットがあることくらいは僕も知っていた。だけど……


「うん、まあ、なんていうのかな……個人の名前を言われてもわからないな。なにせ、みんな同じ服を着て並んでいるから僕には誰が誰だか区別ができなくて」


「はあ? 何おっさんみたいなこと言ってんのよ。マコトはアタシの顔見てアタシだってわかるでしょ? ほら、アタシたちだってみんなおんなじ制服着てるじゃない。要するにマコトが興味を持っていないっていうだけのことよ」


「でも……」


「でもなに?」


 よくないことだ。すぐこうやってつまらない意地を張って相手を言い負かしてしまおうとくだらない屁理屈を言ってしまうのはよくないとわかりつつも、どうしてもそれを抑えることができない自分……無念。


「でもさ、その理屈だと、僕はアイドルには興味がないけどななせには興味があるっていう理屈になる」


「……」


「……いや、その……」


「あるでしょ、興味。アタシに」


 目の前で、そんなの当り前だとばかりにまっすぐと僕を見つめる視線。冗談を言っているふうではない。少し、照れくさくて視線をそらしながら……


「いや、そういうわけではなくて……ななせは、特別だよ……」

 何とか言い逃れたつもりだったけれど……


「そっか! やっぱアタシは特別だよね! うん、特別かわいくって、特別興味があるってことね!」


 たぶん、もう何を言っても悪い方向へしか行きそうにないので話を先に進める。


「で、その早乙女ナントカがどうかしたの?」


「あ、それがさあ……不倫してるらしいよ」


「そうか……そんなに興奮されても、僕はよく知らないから何とも言えないな……ん? 話が見えたぞ。団子坂、つまりはD坂だね。となると不倫の相手はソバ屋の主人だ」


「えっと……何を言っているの? 話が見えない。不倫の相手はマネージャーよ」


「ああ、ごめん。気にしないで。それで、その子はアイドルやめるの?」


「え、そんな、やめないに決まってるでしょ」


「本人がやめるやめないは別にしても、不倫が発覚したならどのみちアイドルを続けていくのは困難じゃないのか?」


「まあ、別に発覚したっていうか、噂だからね、うわさ。証拠があるわけじゃないし」


「なんだ、ただの噂ならそんなに気にする必要ないんじゃ」


「噂があるってことは、それはもうほとんど真実と言っていいのよ。火のないところに煙は立たないんだから」


「横暴だな。むしろ、火が付く前兆として煙が立つものだよ。その時点で対応すれば、火は付かない。まあ、女子っていうのは噂が好きだよな」


「はいマコト、女子ってひとくくりにしない。そういうのは今の時代いろいろとヤバいんだよ。それにうわさを信じるということは女子力が高いっていう証拠でもあるんだからね」


「適応進化。確かにそうかもしれないな。嘘かもしれなくとも、有益な噂を信じた個体だけが生き残る」


「まあ、むつかしいことはよくわからないけど……まあ、いいわ。それよりさ、今日、部活の後で39アイス食べに行かない?」


「アイス? もう11月だよ」


「アイスに季節なんて関係ないでしょ? 食欲の秋だよ? 今ならスノーマンキャンペーンで一つ頼むともう一つおまけしてくれるんだよ?」


「甘いものは好きじゃないんだけどな……」


「マコトが甘いもの好きかどうかはこの際関係ないの」


「あ、ああ……そういうことか……」


「行くの? 行かないの? どっち?」


「……わかったよ、行くよ」


 ――なんて、断るわけがない。本当はななせと放課後に出かけるだなんて、嬉しくないわけがないのだ。

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