色の白いは七難隠すといえど

 吉瀬好は今まで経験したことがない程の体調不良に見舞われていた。

 入職してからこの数年、吉瀬は世界的なパンデミックや新型感染症の院内感染が広がる中でも、一度も罹患することがなかった。よって無遅刻無欠勤を通し、鉄壁の美貌も相まって『鉄壁の要塞』とふざけた二つ名をつけられる始末である。

 それもそのはず、吉瀬は自身の体調管理には、人一倍気を付けていた。

 コンビニのものではあるが、毎日必要量の野菜を食し、小麦を避け、米を少なくし、肉や魚は適度に摂る。栄養バランスは、栄養士からのお墨付きをいただいたこともある程だ。どうしても補えない栄養素はサプリメント頼りだが、そればかりにならないのとも、栄養士から絶賛された理由である。

 また、外出する時には必ずアルコール除菌シートを持参し、使う椅子やテーブルの触れる面をそれで拭く習慣があった。

 友人らには「やりすぎだ」と言われるが、吉瀬からすると自分だけのためではなく、自分から誰かにうつさないためにしていることなのだ。

 そんな吉瀬だから理解していた。

 これはただの体調不良ではない、と。

 前触れのない偏頭痛に襲われた昨夜、吉瀬は早々に眠りにつき、朝早くに気に入りの入浴剤を入れた熱い湯に浸かって、生姜湯を飲み、朝食に豆乳と自家製サラダチキン、トマトや枝豆やオクラの入ったサラダ、キャロットラペ、雑穀米を食していた。

 美容に気を遣っている女子の鏡のような食事を、つまり彼女は朝から摂ったのだ。

 昨夜は葉物を口にしただけで吐き気に襲われ、ろくに食べていない。それから見ると急な食事量とも思えるが、それでも問題なく完食し、胃がムカムカとすることもなかった。

 だが、どうだろう。

 昼前になって急な頭痛に見舞われた。理由は不明だった。

 大部屋にいないからこそ、吉瀬は知らないのだが、この時、外塚が現れた事により、幡野万莉が急変したのだった。

 幡野は二度目の急変である。

 看護師らは落ち着いて対処しているが、まさか誰も吉瀬に影響が及んでいるなどとは考えもしていない。よって、彼女は一人で耐える他なかった。

 携帯が振動する。

 吉瀬は震える手でポケットからそれを取り出し、非常階段の人気の少ない場所へと隠れた。

「はい」

『……大丈夫か?』

「なに、どうしたの」

『……外塚が病院に来てる』

「…‥だから、何」

『話さなくていいのか?』

「彼、私のことも、あんたのことも嫌いでしょ」

『ご明察。分かってたのか』

「……睨まれたことがあるの。万莉と話してて、視線を感じて、そっちを見たら、外塚だった。……怖かった」

『……そうか』

 互いに黙り、言葉を探した。

 小嶋は吉瀬が立っているのもやっとな状態なのではないか、と案じていた。人の気持ちを理解出来ない男ではあるが、こうもあからさまに声が低く、覇気のない話し方をされては流石に気が付くというものだ。

『今、どこにいる』

「……本館の、二階、かな」

 吉瀬は悩んだ。小嶋に頼るのは癪だが、この病院内で一番信用のおける男だ。鉄剤やなんやを買わせて、嘘を吐いていたことをチャラにしてやろうか、とも考えた。

『俺でよければ、行くけど』

「あんたが一番安心なのが癪だわ」

『……ゼリー飲料とか、適当に買ってから行く。座って待ってろ』

「非常階段にいるから」

 分かった、と言った小嶋はさっさと通話を終了させ、白衣を翻す。

「おい、どこに行く!」

「悪い、急用だ。俺は医者でも看護師でもないし、ここじゃあ役立たずなんでね」

 と、自身を怒鳴りつけた外塚に対して憎まれ口を叩きながら、大部屋を後にし、人目も憚らず全力で走った。

 小嶋は、少なからず後悔していた。

 互いに好意はないとはいえ、腐れ縁で、互いに一番の理解者である吉瀬を巻き込んだことを。二人の関係が、友人よりももっと遠いものになることのリスクを、小嶋は考えに入れていなかった。

 意外と女々しいところがある、と今回吉瀬との衝突で自覚したのだ。

 吉瀬とは喧嘩らしい喧嘩をしたことがない。憎まれ口を叩けど、吉瀬は「嫌なやつ」と言って少し拗ねるだけで、チョコレートやクッキーを詫びとして差し出せば「こんなのいいのに」と笑顔になるような人だった。

 本当に、優しい人間なのだ。

 だからこそ、普段はなんてことない、今までチクリともしなかった良心が傷み、初めてことの重大性に気付いたと言える。

「吉瀬」

「……やっと来た」

 力なく、脂汗を額に浮かべている吉瀬が、潤んだ目でこちらを見ている。見るからに大丈夫な様子ではない。強がりだとは思っていたが、まさかここまでとは、と小嶋は呆れた。

「お前、早退したら」

「うるさいな……鉄剤ある?」

「ん、と、水」

「ありがと」

 普段はしないであろう胡座で床に座り込んだ吉瀬は中世的で、絵になる。

 そんなことを思うも、やはり心配ばかりで、鉄剤のキャップも、ミネラルウォーターのペットボトルのキャップも、全部小嶋が取ってやっていた。

「あんた、意外と過保護よね」

「……反省してるってこと」

「反省、か…‥私も、ごめん。あんた主導じゃないのに」

「いや、いいよ。俺の考えが浅かった」

 この言葉に、吉瀬は小嶋もここまでの事態になるとは想定していなかったのだと理解した。

 段々と落ち着いた頭で、吉瀬は未だ目覚めない親友へと想いを馳せた。

「さて、どうしたものかね」

「今、万莉に何が起こってるの」

「電話来た時、丁度急変した。発作らしいが、どうだろうな。大丈夫だとは思うけど」

「もう、ずっと夢を見てるなら気を違えても仕方ないよ」

「ああ、その証拠に、一人壊れた」

「……え」

「橋場友恵。三十代で、体力がないのが懸念材料だったが、やっぱダメだった。精神科に入ってもらって、うちで一生面倒見るとさ」

「……そう」

 吉瀬は三度みたび、幡野万莉の身を案じた。

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