冴えない男の遺書が見つかる

 私なんかが、あんな美人な、かわいい子に相手にされるなんて、最初から思ってもいなかった。

 健康診断の通知を見て、彼女が「念の為行ってきたら」なんて言わなければ、私はこの怪しい試験にも身を投じなかった。

 欲張りだったのかなぁ。

 欲なんて、何にもないと思っていたんだけど。平和なら、彼女が笑顔なら、それでよかったんだけど。

 夢を、長くて、永くて、辛い夢を見たんです。

 とても、辛くて。

 みんなキラキラしていて、自分も同じようになれるって、思ったんですけど、やっぱり高校生とか大学生とか、ある程度人格が定まっちゃうとダメなんでしょうかね。

 変わろうって思っても、怖くて勇気が出ないんです。

 高校デビューとか、大学デビューなんて言いますけど、陰で囁かれていたのを、私は知っているので、やっぱり怖いんです。

 後ろ指を差される、とか一番耐えられない。

 辛くて、怖くて、どうしてこんな選択をしたんだ、って自分を何度も責めました。

 あんなに辛かった学生時代を、どうして忘れていたのだろうって、辛かったからこそ、忘れたのかとも、思いましたがどうやったって、あんな辛いことを忘れるなんて有り得ない。

 私、大路弘明はこれ以上、この夢の中に留まることが出来ません。

 もっと熟考すべきでした。

 今あるものに満足すべきでした。

 仕事は介護で大変ですが、やりがいもあって、長年勤めたこともあり手当も悪くない。

 恋人も、私に何を求めているのか分かりませんが、いてくれるだけでよかった。

 もしかしたら、彼女を悲しませてしまうかもしれない。私なんかが死んだ時、悲しんでくれる人がいるだけで、私は幸せです。

 唯菜ちゃん、ありがとう。

 感謝の言葉を残そうと思っても、どうしても自分の思いばかりが先走ってしまう。

 しかし、これだけは書き残すべきだ、となぜか思うので、私が体験したことを、ここに記します。


 私は、高校三年生の春のある朝に戻ったようでした。

 父も母も健在で、優しくて、幸せな家だと思っていました。祖母も、そう、同居していたのでよく可愛がってもらっていた、と思いながらたくさん話をしたのです。

 懐かしかった。祖母は十年前に他界しましたから、十年ぶりの再会です。

 ひろちゃん、ひろちゃん、と可愛がってくれて、とても幸せでした。

 幸せな家庭だと信じていました。問題はない、と。けれど、真実はそうではなかった。

 父は実の親である祖母を蔑ろにし、妻である母とは口を利かず、私とも、殆ど話をしませんでした。

 母は「この方が平和でいいのよ。弘明が、その分おばあちゃんを大切にしてあげてね」と言うのです。

 祖母は「お父さんも、悪い子じゃないのよ。“子”なんて言えば怒るけれど、私にとっては、子どもだもの。いつまで経っても、どんなに大きく、おじさんになったって、子どもは子ども。あの子が、今ああしていて幸せなら、それでいいわ。でも、ひろちゃん。ひろちゃんは、もしいいことだと思わないなら、あんなふうになっちゃダメよ。あんまり喋らないかもしれないけれど、いつかお父さんも、おばあちゃんみたいにシワシワになって、頑固ジジイになるから、その時は、今みたいに、たくさん、お話聞いてあげてね。いつもありがとうね、ひろちゃん」と、私に言って聞かせるのです。

 幸せなはずだった家が、そうではなかった。

 当時気が付けなかったのは、きっと私が幼く、人の話をちゃんと聞いていなかったからでしょう。

 今は介護職で、祖母と同じ歳の方とたくさん関わります。だからそこ、聞き流すところと、ちゃんと聞くところの選別が出来、理解してしまったのです。

 ああ、幸せってなんなんでしょう。

 これなら、きっともとの、現実のままの方が幸せだったに違いない。

 どうしたら、父は母と祖母に優しくしてくれるのでしょう。

 何も、わかりませんでした。

 学校は、こんな性格ですから、所謂“イジられキャラ”としていたみたいです。

 この歳になってからやられると、羞恥心ばかりが刺激されて、なにも楽しくなくて、なぜ耐えられたのだろう、と自分が不思議で不思議で仕方ありませんでした。

 卒業までなんて、耐えられなかったんです。


 上林先生、先生の望んだものを残せたか分かりませんが、途中で放棄しますこと、お許しください。


 最後に、父さん、母さんを大切に、優しく支え合って、余生を過ごして下さい。

 母さん、無理はしないで、健康で、今まで通り、優しい母さんでいてください。

 ふたりへ、あなた方よりも早く、ばあちゃんのところへ行くことを、お許しください。

 今まで、ありがとうございました。ごめんなさい。


——大路 弘明

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