彼女の無事を願えば願うほど
出勤した時、小嶋と上林先生が話していた。不思議には思ったものの、それを無視して大部屋に入ると、ベッドが三つ空いていた。
「おはようございます」
「あ、おはよう」
「あの……」
「ん?」
声を掛けると引き継ぎを書く手を止めず、先輩は視線だけ私と空きベッドの間を行き来し、頷いた。
「目覚めた二人はもう検査に行った。もう一人は、夜中に急変して」
「えっ」
サラッと言って退けた先輩は小さく溜息を吐き、薄く眉間に皺を寄せた。
「けど、今回は割と優秀よ。これでも」
先輩はもう何度かこの臨床試験に立ち会っているらしく、昨日も場の空気に飲まれていなかった。
「先輩、何回目なんですか」
「私?……三回目。気分良くないよねー。目の前で健康だった人が急変しても、なす術なし」
「ゼロ?」
「ぜろ。全部、やれることはやった」
ゾッとした。
まだ目を覚まさずにいる万莉が、夢の中でどんな思いをしているのか。
不安で、心配で、落ち着かなくなってしまった。
「吉瀬さん?」
「あ、はい」
「大丈夫?」
「大丈夫です、すみません」
冷静さを取り戻そうと、額に手を当てる。まだ朝だというのに。
「じゃ、あとよろしくね」
「はい。お疲れ様です」
「お疲れー」
帰っていく先輩の背中を見送ると、目の前には、昨日再び眠りについてから目を覚さない依田さんがいる。
彼は、何をそんなにやり直したいのだろう。
万莉はどうしてここにいるのだろう。
余計な思考ばかりが巡ってしまい、どうにも冷静でいられない。
上林先生に昨日の出来事について話すべきか、その結論も未だに後回しにしている。
言えば、この試験から外されるかもしれない。そうなるなら、喜ぶべきか、否か。
今を逃したら一生、万莉と会えないかもしれない。
だから、この試験だけは乗り越えよう。
そう思う気持ちもあるのだが、それよりも私自身に起きている変化に恐怖している方が大きい。
万莉が人生を変えることで、私の人生も変わる。
それ程深く関わっていたのだ、とポジティブに考えられることはなく、ただただ、過去に築いた万莉との関係性が崩れていっているようで、悲しくなった。
「おはようございます」
「おはようございます」
シトシトと静かに降る雨のような足音をさせて、上林先生が隣に立った。ひんやりと冷たくなったように感じた。
「……表情が暗いですね。何か、ありましたか?」
「あ、えっと……」
考えがまとまらないままにその時が訪れると、やはり人は硬直するものだ。
先生はそういった変化に人一倍気が付く人だ、と小嶋が話していた気がする。
「あ、さっき、小嶋と話してましたよね」
「ええ。おふたりは、なんでも腐れ縁だとか」
「そんな感じです」
「彼も君も、とても優秀だと皆が口を揃えますよ」
「いえ、そんな——」
「とても謙虚だ、とも。これは、君に限った話ですがね。小嶋くんは優秀さを自覚し、ひけらかしたい人でしょう?今は、かなり我慢しているようですね」
「仰る通りです」
上林先生と話していると、自分の会話のテンポに持っていくタイミングがない。ずっと主導権を握って渡そうとしない。看護師から曲者扱いされている所以だ。
「いやぁ、それにしても、今回はかなりいいデータが取れそうですよ。幡野さんは一度も目を覚まさず、ずっと夢の中。依田さんと橋場さんも順調の一言に尽きる。いやぁ——」
「あのっ」
「……どうか、しました?」
話を遮ったけれど、不機嫌になる様子はなく、少しばかり愉しげな表情で先生は私を見た。
「小嶋も、何かこの試験と関係あるんですか?」
「ああ、彼ですか」
ふふ、と小さく笑んで、想定内とでも言うように、ゆったりとした間の後口を開いた。
「実はね、被験者のリストアップを、彼にお願いしているんですよ」
「……え?」
寝耳に水だ。
——興味あるんだけどねぇ。
——女か。なら分からんわ。
小嶋の言葉がリフレインして、頭にこだまするあいつの声と同じだけの不信感が広がっていく。
なに、知ってたってことでしょ。万莉がいることも、私との関係も。それなのに、あいつ。
「おや、聞いていませんでしたか?」
「……ええ、たまにしか話さないので」
嘘だ。
この病院に勤める人の中でも信頼していた。顔を合わせることになんのストレスもない、唯一の気の置けない存在だ。
これも、万莉と関係が——
「気分が優れませんか?」
「いえ、大丈夫です。すみません」
平静でいようとしても、どうしても表情が強張ってしまう。先生にはもう隠せない。仕方ない。割り切るしかない。
「確か、彼の同級生が一人、いたと思ったんですが……吉瀬さんはご存知でしたか?」
「……そうかな、とは、思っていました」
「そうでしたか。……目、覚めるといいですねぇ」
「そうですね」
私はずっと、不安で仕方ないのに。
先生はチラリと私を見て、眉を吊り上げた。私の反応を見て、万莉との関係を、関係の深さを探っているらしい。それだけは悟られまい、と動揺している頭を鎮め、切り替える。
「では、何かあったら呼んでください。データの整理をしていますから」
「分かりました」
シトシトと雨の音がする。
それはピタリと止んで、今度は雪を踏むような音を立てた。
「そうだ、一つ忘れていました」
「なんでしょう」
声のした方へ顔を向けると、上林先生のあの不気味な笑みがそこにはあった。
「吉瀬さんにも、何か変化があるかもしれません。些細なことでも構いませんから、気が付いたことがあれば教えてくださいね」
では、と今度こそ先生は大部屋を後にした。
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