生きていることは奇跡である

 死にたくない。

 そればかりが頭の中を埋め尽くして、指先が震えているような気がした。

(参加、しなければよかった)

 この説明を、他の被験者も聞いていて、それで今眠りに就いているのかと思うと、もしかして俺はそこまで人生をやり直したいと思っていないのではないか、と思える。

 寝ている間に死ぬなんて。

 さっきまでいた過去は確実に触れた感触なんてものも、リアルに、現実のものと遜色なく感じた訳だから、もし交通事故なんかに巻き込まれたらその分の痛みを差し引きなく受ける事になる。

 全身を襲う強い衝撃も、激しく揺さぶられる脳の不快感も、死の実感も。

 穏やかな笑みで俺を見ていた医者が、スッ、と短く息を吸い、シワシワの唇を開いた。

「夢の中での死因がなんであれ、現実での死因は急性心不全です。突然死、ということでご家族へは説明をさせていただきます。」

 臨床試験で人が死ぬ。

 只事ではないはずなのに、それが当たり前かのように、この医者は言う。

 ふと、遠くどこかでこの医者が事務的に、それでいて悲しそうな声で話すのが聞こえた。

 急性心不全です。臨床試験の最中に、異変が起きまして。ええ。危険性についてはご理解をいただいた上で実施しております。……誠に残念ですが。ご子息の、藤吾さんの死を無駄には致しません。原因の究明とご遺族の皆さんへの補償はしっかりとさせていただきます。この度は、誠に申し訳ございませんでした……

 今までの経験の中で、俺は人の死を扱ったことはない。誰かを死なせたことも、それに近く関わったこともない。普通に生きていればそんなものだ。だから、全く想像をできない。

 人を死なせてしまった時の、遺族への謝罪の仕方なんて。

 担当らしい、あの美人な看護師は動揺していないような顔でいるけれど、それでも先程までの——点滴やなんやの準備をしていた時の——様子とは明らかに違う。

「……そろそろ、薬を投与しましょうか」

 また、始まる。

 ワンテンポ遅れて、看護師が動いた。用意してあるらしい薬剤をセットしようとしていた。

 ああ、本当に。

「あ、あの」

「……どうかしましたか?」

「ちょっとだけ、その……」

「……怖い?」

 小さく、ゆっくりと頷く。

 すると、理解できないというような顔で、医者は俺を見る。俺にはその表情の方が不思議だ。

 死ぬかもしれないのに。

「なにが怖いんです?」

「いや……だって、死ぬかもしれないんでしょ……?」

 俺の顔を見て医者は少し

「……ハァ、ハハ。そうですか。なるほど」

 医者は考えるように視線を少し泳がせ、眼鏡の奥にある窪んだ目が、また笑みを作る。

「今まで生きてきたじゃありませんか。なにも無謀なチャレンジをしてほしい、なんて言っていないんです。現実を良いものにするための選択をしてください、という話です。……どうですか?」

 難しいと感じますか、と熱のない声で言って、医者は俺に考えさせる。

 なぜだか、石野を思い出した。

「……それなら、まぁ……」

 歯切れ悪く返したというのに、医者は昔から知っている近所のじいちゃんみたいに笑って見せて、看護師へと目配せした。

「大丈夫ですか。じゃあ……初回が四グラムだね?二を追加で」

「はい」

 手際よく準備を整えた看護師は、注射器を点滴の管と管を繋ぐ部品に接続させた。

「眠りを助けるお薬ですから。気分が悪くなったら教えてください」

「はい」

 俺の返事を聞いた看護師がゆっくりと親指を押し込み、薬の投与をする。

 さっきも打たれた薬だ。問題ない。生きてたし。眠くなるだけ。

 そう何度か自分に言い聞かせ、納得させながらぼんやりと時間を過ごす。

 そんな俺を医者が笑顔で見守っている。

「依田さん」

「……はい?」

 数分経って、意識もぼんやりとしてきた頃だった。

 目の前が霞み、全体の輪郭がはっきりしなくなったところで医者に呼び掛けられ、返事をする。笑顔で見守っていた医者が、困ったような顔になった。

「申し訳ない。私は嘘を吐きました」

「……嘘?」

「ええ。まぁ、どなたにも当てはまることですが……」

 言うなら早く言ってくれ、と願いながら、ぼんやりとした頭で、なんのことだ、と考える。

「なん、の……どんな」

 勿体振る医者に痺れを切らすも、とうとう瞼が落ちてきた。なんとなく、喋りづらい。

 少し間を空けて、医者がやっと、ゆっくりと語り始めた。

「生きている、というのは、まるで奇跡です。明日死ぬかもしれない。何があるかわかりませんから。私も、それこそ明日ポックリ死んでいるかもしれません。……みんなそうです。みんな。今生きているのも、奇跡のようなものなんですよ。……もう、聞こえていませんね」

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