A.過去へ行く理由を思い出せ

 被験者の一人が目を覚ました。

 依田藤吾というその青年は、北海道の田舎の出で、早い時期から地元を離れようと考えていた、と小嶋くんがまとめてくれた資料にあった。

 なんとも冴えない、どこにでもいそうな青年だ、というこの大部屋へ来る前の診察室で抱いた印象を思い出した。今もそれは変わりない。

 目を覚ました彼が語り出したのは、過去へ行き、親の顔を久しぶりに見て夢かと思った、同級生のことは何も覚えていなかった、という平凡なものだった。

 それだけならどれ程よかったか。

「あの、過去ってどのくらい忠実にした方がいいんですか?」

「……はい?」

 なんと愚かな青年だろうか。

 折角のやり直す機会を、皆が出来るわけではない体験を得たというのに。

「なんか、どのくらい影響出るとか分かんないんで、どうしたらいいか分かんなくて」

「そうですか。でも、依田さんは……過去をやり直したいんですよね?」

 言葉を選び、極力責めているような響きにならないように気を付けて、彼に目的を思い出させる。

 溜息が出そうだった。特大の、深い深い溜息が。研究室へ戻ってからにしよう、と思っても耐えるので一苦労だ。

「あ……そっか。そう、ですね」

 言外に意味を察した彼は、静かになって頷く。

 元々頭は悪くないようだから、説明さえしっかりと聞いていれば、最初から失敗なんてしなかったのだろう。

 そうだ、彼はすぐに眠ってしまったのだった。きちんとした説明をしなければ。

「依田さん、いきなりの事で驚きましたよね。すみません、私もつい説明をしていないことを忘れていました」

「あ、いや、こちらこそ、その」

「ああ、いいんです。今回の臨床試験についての説明、何が目的かというところを、もう少し詳しく説明しますね」

 資料なんてものは、私が用意した、私の経験に則ったものしかない。

「まず、今回依田さんにご協力いただいているこの臨床試験は、夢の中で過去に戻り、人生をやり直すというものです。」

「はい」

「依田さん、さっきまで寝ていたと思うんですけど、どうですか?身体のだるさとか、スッキリ感とか。ありますか?」

「なんか、少しだるい気がします」

 素直に答えてくれることに安堵して、溜め込んでいた溜息がホッとついたひと息へと変わった。

「そうなんです。眠っているはずなのに疲れが取れていない。普段寝ていても、たまにありませんか?全然寝れなかったなぁ、みたいな。あれと一緒です」

「ああ、なるほど。あの、ノンレムとか、そういうのですよね」

「そうです、そうです。今まで依田さんは、ずっと浅い睡眠をしていて、ちゃんと休めていない状態だったんです。今回の試験の目的は、その浅い睡眠の中で起こる事象に関するものなので、終わる頃にはヘトヘトのクタクタになっていると思います」

 私もそうでした、と付け加えて、目を細める。青年は頷いて、少しだけ嫌そうな顔になったものの「分かりました」とポツリと溢した。

「では、注意事項を何点かお伝えしますね。まず、過去に戻ってやり直すことが目的なので、今までとは違う道を選ぶようにしてください。同じ選択肢をしてしまっては、試験の意味がなくなってしまいますから。頼みますね」

 先程の質問への回答を、今はっきりと提示してみせると、依田さんは少し困った顔で頷いた。

「次に、一度目覚めてしまった時、戻れるというデータはないので、もしこの後眠ってみて過去に行かなかった場合は、そこで試験終了となります。正直、私はこのデータが一番欲しいと言っても過言ではありません。診察室でお伝えした通り、私は三日間ずっと寝ていましたし、今までの試験ではしっかりと過去へ行けた人自体が少ないんです。」

「……どのくらい?」

「今まで二百名近く試験をしてきましたが、過去へ行けたのは依田さんを入れて五名。人生を改変出来た人はいません。一度、今の依田さんのように目を覚ましてしまってから、もう一度過去へ行けた人がいないんです。」

 ふう、と溜息を吐いて、困ったように笑って見せる。

 しかし、少ないとはいえども築いた実績から、この事象は一部の先生方にも、認められた。それがあるから、今こうして臨床試験が出来ているのも事実だ。

「最後に、夢の中でもし死んでしまった場合、その時点で現実の身体も死にます。」

「……は?」

 言葉とは不釣り合いだと分かっていても、笑って見せる。穏やかに、静かに。

 目の前の青年が動揺した。

「それは、え……どゆこと」

 見たまま、声も震え目もウロウロと泳ぎ出し、次第に血の気も失せてきた。

 だが、これは一番重要なことだから、どんなに酷いことだとしても、言わなければならない。

「今、依田さんが生きていられるのは奇跡と言えます。自転車で交差点へ進入する時、左右の確認を怠ったことはありませんか?赤信号の横断歩道を無視して渡ったことはありませんか?その時、もし車が突っ込んできていたら?……考えたこともありませんよね。」

 言葉を切り、再びニコリと笑ってみせる。

 気味悪そうに私を見る青年と吉瀬さんを無視する。

「死んでしまっては元も子もありません。死なないように、今まで通り気を付けて。過去で死んで現在では目が覚める、なんて都合のいいことはありませんから。無茶はしないように、過去を依田さんの思うように生きて、現実を変えてください」

「……はい」

 圧を与えている訳ではない。としても、彼は何かしらを感じていると、その目から分かる。

 緊張していて、少しだけ上擦った声で返事をした依田さんの目は、まだウロウロと泳いでいた。

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