Q.過去を再現をすべきか否か

 数学の授業中、依田藤吾は板書をノートに書き写さず、教科書に書き込んでいた。

 当然定期テストの後にはノート提出があるから、ノートを作らなければならない。だが、今それをするのは効率が悪く感じられて、せずにいた。

 もう少しで授業が終わる。

「よーし、じゃあ今日はこの辺で。……依田、あとで職員室来ーい」

「あ……はい」

 きっと文句を言われる、と依田はすぐに思い至った。クラスメイトも依田をじっとりとした目で見ていて、居心地が悪い。

 だから、この狭苦しい田舎が嫌いなのだ。

 チャイムが鳴り、授業の終わりを知らせた。

「きりーつ、礼」

「ありがとうございました」

 ガタガタとなうるさい教室の机と椅子の音と、やる気のない同級生達の声。

 早く、行動を起こさなければ、と依田は気ばかり急いていた。

「ノート取んねぇからだぞ」

「うるせぇな。そんな重要じゃねぇじゃん」

「内申下げられるんだー」

「うっせ」

 小さく舌打ちをして、言われた通り短い休み時間を説教のために潰されるべく、依田は職員室へと急いだ。

 少し複雑な作りをしたコンクリート打ちっぱなしの校舎は寒々しい。雪国にあるとは思えない見た目のこの校舎は、外から見ると要塞のようである。

 全校生徒が百人程度しかいない、小さな田舎の中学校。人を避けて歩こうとしなくても、人なんて殆どいない廊下。それすらも依田が通っていた函館にある高校とは大違いだった。

 コンクリート打ちっぱなしの壁と不釣り合いな、木製の引き戸をノックして開ける。

 懐かしい面々がいて、依田は少し笑いそうになった。

 堪えて、下唇を噛んで依田は数学教師を探した。

「おー、こっちだ。座れ」

 そうしている依田に気が付いた数学教師のもり康司こうじが、マグカップ片手に彼を手招いた。

 言われた通り、従って行くとパイプ椅子が一脚あった。ひんやりとしていて、今が秋であることを依田は実感した。

「お前、ノートくらい取らないとダメだろ」

「いや、同じこと書くんならあとで作ろうかなって」

「分かるよ。分かるけど、みんなやってるからさ。お前だけ特別扱い出来ないんだわ。成績は確かにいいけど、それで贔屓してるとかされてるとか、言われるの嫌だろ」

 森は生まれが東京で、親の仕事の都合でこの辺りに住んでいたことがある、少しだけ周囲とは浮いた教師であった。自身がそうであったからか、周囲と少し違ったことをしている生徒がいても強く責めることはせず、それでも足並みを揃えることの重要性を説くタイプの教師だった。

 依田もよく言い諭されていたのだが、当時はウザいな、と思う程度だったものの、これも生徒を思っての言葉だったのだと、二度目の中学三年生である今は理解できた。

「スンマセン」

「うん。いや、悪いことではないんだ。効率いいよな、教科書に書くの。書き写すのめんどいよな。けど、今はまだ我慢だ。いいな」

 依田の中学三年生当時、森は四十になろうとしている年で、よく女子から「オッサン」と言われていた。話し方や嗄れた声がそれに拍車をかけていただけで、実は実際はもっと若く見える。

「あの」

「ん?なんだ?」

 コーヒーを啜りながら森は依田をチラッとだけ見て、パソコンに何やら打ち込んでいた。

「今のランクだと、高校、どこに進めますか。」

 依田のこの問いに、森は「俺に聞く?」と心底思った。森の手元には数学の成績表しかないので、依田のランクなど当然把握していない。

「石野先生に聞け?俺分かんないよ」

 苦笑いしながら短い眉を少しだけ下げて答えると、チャイム鳴るぞ、と依田に教室へ戻るよう促しつつパソコンを待機状態にした。

「うっす」

 返事をしてみたが、依田はパイプ椅子からノロノロと立ち上がるだけで教室へ戻ろうとしない。森は少し呆れて溜息を吐いた。

「子どもじゃないんだから、シャキッとしろよ」

 中学生というのは矛盾した年齢である。

 公共交通機関の運賃は大人料金、アミューズメントパークは中人料金で大人よりも少し安く、スポーツ観戦は高校生以下と括られることが多い。

 しかし、精神は大人に近いものを求められる。

 まだ子どもだ、と子ども扱いをする人もいるが、大体のことは許容されづらくなる年齢である。

 依田はこの時、ふと思った。

 この年齢らしくしなくていいのか、と。

 なぜか引き摺られるように、態度や言葉まで中学時代の自分をなぞっていたのだが、それをしなくていいのなら、と依田は少し気持ちが軽くなった。

 子どもらしいというのは、案外やろうと思ってやる時疲れるらしい。

 演じているからだろうか。それとも、自分はもうそこにいないのに、そうであろうとしているからだろうか。

 ああ、あの医者にコツ聞けば良かった。

 と、思った時。ぼんやりと意識が一瞬遠退いた。

 睡魔に抗っている時のような、落ちてくる瞼を必死に上げている時のような。

 あ、無理だ。

 依田藤吾は諦めて目を瞑り、その場に立ち尽くした。

「……、先生」

「はい?ああ、お目覚めですか。依田さん」

「……戻っ、た」

「ああ、やっぱり。成功したんですね」

 穏やかそうな声で、上林は依田に語り掛ける。だが、その目はギラギラとしていて、これからゆっくりできるわけではない、と依田藤吾はすぐに察した。

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