奥底に沈めていた後悔を掬う
段々と目の前が霞んで、頭に靄がかかったような心地だった。
鎮静剤を投与されていたからそのせいとも思ったけれど、どうやら違うらしい。
ピピピ、ピピピ、と繰り返される静かな電子音は懐かしいものだった。
中学生の時に使っていた携帯電話のデフォルトで入っていたアラーム音が、部屋にこだましていた。好きな音楽にしたくても恥ずかしくて出来なかったのをよく覚えている。
恥ずかしがることなんてないのに。
……中学生の時?
ハッとした。
途端に頭がクリアになって、同時にショボショボとしていた目も冴える。けれど、目の前はクリアにはならず、ガタガタな表面のアスファルトをザクザクとチョークで塗り潰したような、そんな曖昧な輪郭の景色が広がった。
見慣れた光景。
ぼんやりとした視界はコンタクトをしていないせいだから、それを付ければはっきりと輪郭を掴むことが出来る。
早く顔を洗ってコンタクトをしないと。
そう思ってベッドから抜け出したというのに、身体は意に反して机の上にある眼鏡ケースへと手を伸ばした。
再びハッとして、今度は鳥肌が立った。
携帯だけではない。もう随分前から使っていない眼鏡がそこにある。
手が自然とそれをとって、ツルを耳にかけた。
なにが。どうして。……なんで?
いや、理由は分かっている。ちゃんと説明を受けた。その上で選択をして、改めて説明を受けて、鎮静剤を打たれて。
ああ、なんということだろう。
現実になってしまった。
過去になんて渡れず、そんな事あるわけない、とあのおじいちゃん先生に言うつもりだったのに。まさか、本当に。
「万莉?起きたの?」
私を呼んだ母の声にハリがある。懐かしい響きだ。
明るい母の声。
私の大切なお母さん。
早く会いたい、と気持ちが急いて部屋を飛び出す。
こぢんまりとしたアパートの一室。リビングにくっついて洋間が二つある、二人暮らしには丁度いい間取り。懐かしい。
懐かしいばかりの心のまま、リビングへと飛び出した私を見てパチクリと瞬きをする母は、あの頃の母だ。
「なにしてるの?早く用意してご飯食べなさい」
ふと緩めた表情は、今見れば分かる。
疲れている。
目元に少し影があって、少し肌もゴワゴワとしていて。乾燥もしてそう。
当時は見ても分からなかった。母がどれ程の苦労をして私を育ててくれていたか。
「……うん」
間を置いて笑顔で答えた私を不思議そうな顔で見て、困ったように笑う。
「ほら、早くしないと」
優しい声で、自分を支度をしながら言う。汚れの目立たない靴下と、汚れても大丈夫なTシャツと。動きやすいボトムの膝は色が褪せている。
「あ、いけない。お母さん先に行くから、何かあったらメールしてね。園に電話でもいいし」
「うん、分かった」
「ちゃんとご飯食べてね」
言いながら、母はテーブルの上にある白米と焼き鮭と味噌汁へと目を遣った。
「うん。いってらっしゃい」
「いってきます」
あと何回、この背中を見送れるのだろう。
母は私がもう少しで高校を卒業する、という時期に体調を崩した。
鬱だった。なんてことはない、よくある病だけれど、当時はそうでもなかったように思う。特別視する人が多かったような、そんな気がする。母の場合は更年期だろうと軽く見ていたこともあり、分かった時にはかなり危うい状態だった。十年近く経った今も自宅で療養している。
無理をして働いていたせいもあるだろう。
母は保育士で、年少さんのクラスを受け持っていた。保護者からは「優しくて子どものことをよく見てくれている、頼れるベテラン保育士」と認知されていて、母はそれを誇りに思っていた。
離婚さえしていなければ、きっと母はもっと気楽にいられたのかもしれない。いや、父だった人がもっとまともな人間だったなら……願ったところで叶いはしないけれど。
ふとカレンダーへと目を遣る。
今日は二〇一一年八月二十三日らしい。
パッと何年前か見当が付かず指折り数え、伸ばしたばかりの薬指を再び折り曲げたところで止まる。
「十四」
つまり、約十四年前にいるということだ。
「えーっと、受験前?かな」
壁にあるフックにハンガーで吊るされた制服の組章にもⅢ-Bとあり、やはり中学三年だと確信する。
受験。
妥協した覚えもないし、志望校へ進学したはずだ。
「後悔、してるのかな」
いや、違う。
はたと思い至ったのは、家事にほとんど手を付けず、母に頼りきりだった日々。あの時、母の負担を少しでも軽くしてあげられていたなら……少しは違った未来になるのだろうか。
部屋を見渡してみる。
雑然としているところはほとんどなく、母がこまめに整頓していると分かる。確かに、これはここ、と母は決めてそこにしまっていた。
使った後出したままにして、よく怒られたっけ。
《時刻は、午前八時になりました。ここからは——》
テレビの中でアナウンサーが話すのが聞こえる。弾かれるようにテレビを見ると、アナウンサーが言う通り、デジタル表示の時計は八と〇を並べていた。
感傷に浸っていたが、時間がない。
「ヤッバ!」
母が用意してくれた朝食をかき込んで、急いで制服を着る。
セーラー服でよかった、と思いながらバッグの中身を確認もしないで、家を飛び出そうとした。
が、後悔しているならやらなければならないことがある。
テーブルの上、クセで食べたまま置きっぱなしの食器。
今だから分かる。乾いた米粒とか、冷えた油は洗っても落ちにくい。一人暮らしを始めてから、いや、母が家のこともできなくなってから、家事をやらなければならないのは当然私だった。
バッグを担いだまま、クルッと踵を返してテーブルの前へ。割らないように注意しながら、それでも急いでシンクへと食器を置き、蛇口を捻って水を張る。少し粗いけれど、やらないよりマシだ。自分に言い聞かせて、玄関まで小走りで向かう。
二人暮らし。支え合わなければならない。私のやるべきことが、はっきりと見えた。
もう、後悔なんてしない。
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