気楽な美男と生真面目な美女

 依田藤吾が眠りについてからどのくらい経っただろう。

 心電図の音がひっきりなしに鳴る広い大部屋の中。

 いくつもあるベッドの上で歳の近い男女が目を閉じて、いくつもの管に繋がれている。

 みな、起きる気配はない。

 深い眠りについている者もいれば、

 最初は息苦しく感じられた、異様な空気が充満したこの部屋に吉瀬は段々慣れてきていた。

 手術室よりもうるさくて、救命救急の現場よりも静かなこの大部屋で、吉瀬はただ自分に与えられた役目だけを果たそうとしていた。

「吉瀬さん?休憩行ってきたら?」

 特に異常の起きない依田のバイタルチェックを終えた吉瀬を見て、二つ隣のベッドに付きっきりでいた看護師が声を掛けた。

「そうします」

 吉瀬へと声を掛けたのは先輩看護師だった。彼女も順風満帆な人生を送っている人の一人で、一児の母だ。彼女の子どもはやんちゃな女の子だそうで、よく笑顔で愚痴を溢しているのを吉瀬は知っていた。

「退屈?」

 降ってきた言葉に吉瀬は少し動揺し、慌てて首を振る。

「そんなことは。……でも、普通じゃないな、とは思ってます」

 気味の悪い、悪趣味な臨床試験であると吉瀬は心の底から思っていることを、この試験の指揮をとる上林が席を外している今、初めて吐露した。

「そっか。まぁ、分からないでもないかな……あまりに繰り返してるからね」

「え?」

「なんでもない!依田さんも見ておくから、早く行ってきな」

 絶対なんでもなくない、と吉瀬は内心呟いたが、それを嚥下して先輩看護師へと会釈する。

「お願いします」

 と、代わりにひと言残し、薄気味悪いそこかしこで心電図が音を響かせる大部屋から立ち去った。

 途端、思わず大きな溜息が出た。

 肩肘張っていたわけでも、小難しい処置を延々としていたわけでもない。

 ただ場の空気が妙に濁っているように感じられて、吉瀬はうまく呼吸を出来ていなかったのだ。

 慣れたつもりでいただけだったのだ。

 すーっ、と静かに吐き出したのと同じくらい深く吸い込んだ空気は、エタノールの匂いがする。

 他言無用とされているわけではないから、この臨床試験については、病院内の情報通やゴシップ好きの人であればある程度が知っていた。だが、吉瀬は可能な限りそれについて語ろうとせず、聞かれても現場で起こる事を掻い摘んで、事実の一割も話すことはなかった。

 ポケットの中に入れていた携帯が振動した。

「……あ、お疲れ」

 聞き慣れた声が聞こえたことに安堵した吉瀬は分厚い鉄の仮面をガランと落とし、眉尻を少し下げた。

 吉瀬は見かけによらず優しいのと合わせて、緊張しいでもあった。あの環境に疲れてしまい、ただ聞き慣れた声が鼓膜に触れただけで安心したのだ。

「うん、これから。そっち行くといい?……わかった」

 じゃ、と通話を終わらせると、長い脚を忙しなく動かして廊下の壁際を滑るように進んでいく。

 人のまばらな別棟はひどく静かだ。

 それを実感したのは、人の出入りが多い本館のエントランスを通りがかった時だった。

 大声で話す人など居なくとも、人が多いだけで音は増える。

 颯爽と本館に辿り着いた吉瀬は、院内に併設されているコンビニでおにぎりとトマトジュースを買うと、エスカレーターを乗り換えながら四階へと向かった。

 臨床試験が行われている別棟から遠く離れた、まさに真逆の位置にあるそこは患者やその家族が立ち入ることのない、医療情報企画部というシステムの開発や運用、管理がメインの部署である。

 ここに、吉瀬の友人がいた。

 コンコンコン、と不躾に開けることをせずきちんとノックをしてから静かにドアを押し開ける。が、誰もこちらなど見ておらず、しかしそれはいつも通りのことであるから、吉瀬は安堵した。

「お疲れ。顔疲れてるな」

 吉瀬より少し背の高い男が彼女の背後からその整った顔を覗き込む。と、ニヤリと口角を上げて呟いた。

「それ言わないでよ」

「ハイハイ、ごめんごめん。行くか」

 と、軽口を叩いた細身の男はシルバーフレームの眼鏡によって印象が引き締められているが、なんとも甘いマスクをしている。

 彼はエンジニアで、吉瀬とは中学生からの腐れ縁だ。

 ヘラリと笑うと目尻にクシャッと皺が寄るところとか、すっきりと通った鼻筋とか、薄く形のいい唇とか、凹凸感がなくてサラサラとした触り心地であろう肌とか。

 パッと見た華やかさというよりも、清潔感があってくどくない容姿と、ゆったりとした話し方をする少し掠れたような、鼓膜を柔く削るような声が程良くマッチして彼の魅力を強調させている。

 見慣れている顔、聞き慣れた声ではあるが、今日一日の殆ど心電図としゃがれた上林の声ばかりを聞いていた吉瀬は改めてそう思った。

 女に苦労はして来なかったであろうと見て分かる、女好きのする顔。

 実際、病院内外を問わずこの男は引く手数多である。吉瀬は正直で好みではない。因みに彼も吉瀬は好みのタイプではないので、二人で飲みに行こうとも何かの間違いが起こることは一度たりともなかった。

「まぁ、俺は興味あるんだけどねぇ」

 のんびりとした口調で彼は言う。

「……試験?」

 少しの間考え、吉瀬は思い至った単語に疑問符を付け訊ねる。隣の男は頷き、それを肯定した。

「そ。どんな感じ?」

「なんというか、気味が悪いよ。夢の中のことが現実に影響するって、物凄く非現実的だし」

「それが面白いんじゃん。異世界転生ではないけど、二次元の話みたい」

「有り得ないことなのに」

「有り得ないことだから、面白いんだって」

「……これだからオタクは」

 カラッと乾いた声で、お決まりのように、他の言葉を探す気はなかったかのように吉瀬は呆れ顔で呟いた。

「悪い?オタクとでもギークとでも好きに呼んでくれて結構!事実だし!迷惑かけてないし!」

 彼は開き直ったように言うとバカにしたように鼻で笑い、空を両手の甲で払う。

「それで振られるくせに」

「気にしてない。顔だけで寄ってくる女はご免だね」

「そうやって言えるのが羨ましいよ」

 ふたりは人よりも少しだけ、見目が整っている自覚があった。だが、それに驕ったりなどせず、日本人らしくしっかりと謙遜を身に付けていた。

 パッと見ただけでは分からない。騙された、と何人が嘆いたのだろう。吉瀬は過去、隣を歩く男——小嶋こじま貴大たかひろに一目惚れし、告白したのちに交際を始め、「思ってたのと違った」と愚痴を溢しては彼の元から去って行った女の子達を思い起こす。

 彼女らは、小嶋になにを望んだのだろう。

 小嶋は淡白な男である。

 見た目もそうだが、思考回路は分かりやすく何事にも楽観的で、他人の目を気にしない。

 色恋沙汰でのトラブルは大抵「もっと会いたい」という女の一言で巻き起こる。

 何せ、その言葉に小嶋は決まってこう答えるからだ。

「……週一で良くない?」

 ひとりの時間を存分に楽しめる小嶋はゲームやアニメを楽しみ、女のために割く時間は最低限だった。

 週に一回。泊まりもせず、仕事終わりに合流し、居酒屋や小料理屋で食事をし、どちらかの家へと赴き談笑をする。

 肌を合わせるのは月に一度か二度だった。

 ぶっちゃけ、小嶋はあまりそういったことに関心がない。始まる時でさえ「ヤるのか……仕方ない。三十分。三十分。」と腹を括っていた程だ。

 完全にそれではないのだが、アセクシュアルに近い一面が小嶋にはあった。

 無論、女も無欲ではない。満たされないと分かれば他へと走るものだ。

 そう言ったことが何度か続き、次第に小嶋の話は広まった。

 彼にとっては願ったり叶ったりである。

「吉瀬はなんでも我慢しすぎなんだよ」

 反対に、吉瀬は気を遣いすぎ、尽くしすぎる面があった。

 こんな美人と付き合えるなんて!……と有頂天になり、貢ぎたい男は山程いる。吉瀬の元交際相手は、会う度になにかしらのプレゼント(有名なパティスリーのケーキや高級ブランドのアクセサリーも含め、様々なもの)を彼女へと捧げる男が多かった。

 だが、吉瀬の手元にそれらが渡ることはなかった。

「我慢はしてなかったけど」

「ホントかぁ?ブランド物の財布だなんだ目の前にあって断る女。多分お前だけだよ」

「そんなこと……あるなぁ」

 吉瀬は深い深い溜息を吐いた。と、いうのも彼女は同じ話を友人にし、「貰わなかったの?有り得ない!」と言われたことを思い出したのだ。

 男のメンツを潰すとか。

 呆れたように口角を引き攣らせ、まるで自分がその仕打ちを受けたかのような態度の男。

 折角タダで貰えるのに。

 目を丸くさせ、頭の天辺から出したようなキンと頭に響く声で言う女。

 どちらも断ったと知った男女問わない友人だ。

 言葉は違えど、元交際相手からのプレゼントを受け取らなかった吉瀬は、会う人全てから非難された。

 そして、彼女はそれにうんざりしていた。

「そんなにブランド物に興味ないし。…‥というか、買おうと思えば買えるし。ハァ……そんなにみんなほしいものなの?」

「一般的にはそうなんじゃない?知らんけど。俺もそーんなに興味ないし?まぁ、必要としてなくても、自分のものになったんなら売るのも手だよな」

「それは……人としてどうなの」

「クズだろうな」

 そうでしょうね、と呟いた吉瀬は話題から逃げ出すように重い鉄製のドアを開いた。

 ふわっと柔らかい風がふたりの頬を撫でる。

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