彼女は規則的な寝息を見守る
不気味な笑みだ。
と、冷たい美女--
「成功か……うん。安定しているようだが、まだ説明をしていない部分がある。……意識は浮上するのか。そうならどの地点から再開出来るのか……果たして再開自体が可能なのか。いや、そもそもこの仮説は正しいのか……」
ブツブツと小声で呟きながら彼は記録され続ける数値と波形を嬉しそうに、幸せそうに見ている。
吉瀬はこんな仕事をしたかったのではない。
冷たい美人看護師と思われがちな吉瀬はその美貌と人見知りゆえぶっきらぼうになってしまう言葉とは裏腹に心根が優しく、志が高く、看護師という職業に幼い頃から憧れそれを叶えた。母親がそうだったから、母親になるように言われたから、なんて理由でなったのではない。彼女は確かに人を救たくて、その手伝いをしたくて看護の道へと進んだのである。
採血の腕も申し分ない。土壇場でも冷静。一つ一つの作業に迷いがないが、それでいて柔軟さもあり他者の声をしっかりと聞く。彼女は誰からも評判が良かった。
看護師として勤め始めてから二、三年を過ごしたのちに配属されたのは救急救命の現場であった。何人の医者が、患者が彼女へと感謝の言葉を述べたのだろうか。何度彼女は「そんな、当たり前のことをしただけですから」と、謙遜したのだろうか。彼女の四肢にある全ての指をもってしても足りない程である。しかし、彼女は本当にそう思っていたし、心の底からの謙遜なのである。幼い頃からずっと変わらず学ぶことは辞めず、知らないことを知らないままにすることはなかった。
根っからの真面目人間なのである。
よくできた人なのだ。彼女は非の打ち所のない人なのだ。
同僚や先輩のみならず、気難しい医者からも気の強い看護師長からも信頼をされている彼女は現場で重宝されていたし、彼女自身もそれに満足していた。なにせ仕事が出来るのである。仕事が出来る人を嫌うのは大抵が努力をしない人だ。彼女はそんな人を憐れむこともせず、ただ己と患者と同僚上司先輩医者というそれぞれと良好な関係を構築していたのだ。
だが、どうだろう。
そんな彼女だからこそ、老いた医者・
冷静な彼女だからこそ、正確な仕事をする彼女だからこそ。
上林はこの臨床試験に吉瀬を立ち合わせたかったのだ。
一人の人間の人生が変わる瞬間。
君は満足していて、これから先だけを見据えていられるその人生に満足していない人は五万といる。そんな人のうちの何人かが人生を改変する。その瞬間を順風満帆な人生を送る君に見せたいんだ。
みんながみんな、君のように全てがうまくいっているわけではないのだよ。妥協しながら、嫌々であろうとも生きていて、足掻くことも諦めた人もいるのだよ。
と。
嫌味ではなく、純粋に。
事実、彼女はこの臨床試験を訝しみ嫌悪した。人を救う崇高な仕事ばかりを望んでいたから。だって、今は人の命をただ預かり管理し、その行方を見詰めるばかりである。こんなもの望んでいない、と吉瀬は何度か口の中で転がした。だが、その形の良い唇から吐き出しはしない。立場を弁えているし、決定権はないから。
彼女は賢いから理解している。
「吉瀬さん、少し見ていてくれるかな」
「……はい」
吉瀬好は依田藤吾を見ても何も思わない。依田藤吾は彼女を見て邪な感情を抱いたが、彼女にはあり得ない話である。必要としていないのだ。人生が充実している人はそうなのだ。結婚を周囲からせっつかれようとも気にせず、自身を満足させることを優先する。誰かを愛していたとて、それを確認する必要もない。……理解はされないのだが。
吉瀬好はベッドに横たわり寝息を立てている依田藤吾を見下ろした。
冴えない男、という言葉に尽きる。
髪は千円カットで整えているのだろうし、爪は伸びて少し不衛生だ。肌は手入れされていないのが見てわかる。所々に吹き出物があり、カサカサとしていて鼻だけが少し脂っぽく光っていた。
起きていた時でさえどこにでもいそうな、ぼんやりとした顔だった。
どんよりと重い一重ではないにしても覇気のない目元と高さのない鼻。髪も肌も、人より少し努力をすれば幾らかはマシに見えるというのに。その術を知らないからここにいるのだが、すべき努力を続けてきた吉瀬にとっては不思議な存在である。
他の参加者も同じだった。
垢抜けないだけで磨けば光るであろう原石は他にもいる。けれど、彼らはその方法を学ばずに今までを生きてきた。遠回しにそれを促す人はいただろうに、彼らは遠去けて来たに違いない。
すると、甲高い電子音が何の前触れもなく鳴り響いた。それは吉瀬や他の看護師にとっても耳馴染みのある嫌な音だった。
「先生」
冷静な声が遠くから上林を呼んだ。が、彼はさらに遠くにあるベッドの横に立っていた。
吉瀬はさっと視線を移し、そこにいる患者を見て目を見開いた。
白いリネンの上、白い肌にこれでもかという程傷痕を携えた女の手首がある。ビクビクと震えているそれは跳ねる雪うさぎのようで、吉瀬は自身を落ち着けて考えつく限りの処置を脳内に並べた。
ゆったりとした足取りで上林は電子音を鳴らし続けている心電図へと歩み寄った。チラリと被験者へ目を遣る。
「ああ、発作だね。」
酷く静かな声だった。
上林はやれやれというふうでいて、吉瀬より幾つか歳上であろう若い女の手首を取る。脈に触れ、リネンへと置く。
「少し様子見て。五分経っても落ち着かなければ点滴投与して。悪化したら呼ぶように」
酷く冷静で的確だった。
そうだ、あれはてんかん発作だ。珍しいものではない。焦る必要なんてない。
と、吉瀬は涼しい顔を装い自分に何度か言い聞かせた。
くるりと振り向いた上林と目が合った。それがふと細められ、シワシワの唇が薄く開かれた。
「被験者の一部の方は、常に夢を見ている状態です。それ以外の方は鎮静剤が切れ、十分に眠ってから目覚めるでしょう。それはいいんです。同じことをまたやるだけですから。えーっと?なんでしたかね……ああ、そう。夢を見ているんです。夢を見ていると、脳は休まらないでしょう?それを何時間も何日も続ける。いつ終わるかは個人差があります。脳が休まらないということは、疲れ続ける訳です。脳疲労ですね。皆さん優秀ですから思い至るでしょうが……。過度な脳疲労によって社会復帰が難しくなる人も出てきます。目が覚める人もいるとは思いますが……」
言いながら、上林は依田を見て微笑んだ。
「その時には、たくさん話を聞いてあげてください。きっと喜びますし、回復も早まります。」
頼みますよ、と念を押された看護師達は返事をする。
不気味な笑みだ、と吉瀬は改めて思った。
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