晴れ晴れ天晴れも直ぐ様曇る

 すっきりとした朝だ。心地良い空気だ。

 父に返した言葉は幼稚かもしれないが、確かにダメージを与えていた。それだけで十分だった。

 が、そんなものは長く続かない。

 俺はこの町が大嫌いだった。だった、と言うより今も嫌いだ。しばらく帰っていないし、両親の顔も長いこと見ていない。

 歩けばそこかしこに顔見知りがいて、やってもいない噂が瞬く間に流れ、些細な良心は当たり前のものとして消費される。

 そんな町だった。

 小さな町。都会しか知らない人間には物足りない、けれど比較的住みやすい田舎。それが俺の生まれ育った町だ。

 そこに今、俺はいる。

 ここからこの町で、俺は人生をやり直そうとしている。一からではない。途中から、将来起こる嫌なことの記憶を持ったまま。

 同じ道は辿らない。轍に足を取られはしない。絶対に成功しなければ--待て。できなかった時、どうなるんだ?

「あ、依田じゃん」

 今日遅くね?と、声を掛けてきたのは同級生の——

「よぉ、寝坊した」

 名前が出てこない。顔は分かる。誰だっけ、コイツ。

「はよー、寝坊かぁ。まぁ俺もだけど」

 クァ、と欠伸をした同級生は、俺が特に話題を振ろうともしないことに疑問を抱かず「そういや昨日から始まったやつさー」と呑気に話し始めた。有り難い限りだ。

「なんだっけ、アレ。なんかやっすいメシ屋探すやつ」

「グルメもの?興味ねぇー」

「見てねぇの?マジ?めっちゃ美味そうだったんだよなー。都会はいいよなぁ」

 何度も聞いてきたフレーズ。この辺に住む中高生が必ず口にし、大志を抱く原動力となるもの。

「東京とかさぁ。なんでもあるじゃん」

「そりゃあ日本の首都だからな」

「修学旅行で行きたかったよなぁ」

 札幌も楽しかったけどさ、と不貞腐れたように言いながら田舎町を歩く同級生は、その辺にいくらでもいる同年代と同じ表情でいた。

「別に、そこまでいいもんでもねぇよ」

「……えっ、東京行ったの⁈」

 マズった。

 思ったところで遅いのだが、渋い顔をして目を左上へ泳がせる。妙案を探してみたが浮かばない。

「あ、いや……親戚が言ってた。こないだゴールデンウイークに集まった時」

「なんだ、行ったんじゃねぇのかよ」

 適当な嘘で誤魔化せてしまう程に、ここは東京とは縁遠い場所だった。空港がある函館までだって、車で二時間はかかる。

「行く暇ねぇし。つか、間に合わなくね?」

 町の端にある町立中学の校舎までは町内のどこに住んでいても等しく遠い。

「ヤッベ!走んぞ!!」

 走っている間にも、きっとチャイムは大きく鳴り響く。それでも必死に走るのはきっと怒られるとしても、それを少しでも軽いものにしたいから。必死だった、という事実だけを求めている。間に合うわけがない。

「あーーー、チャイム鳴った!」

「そりゃそうだろ!」

 走っているせいで声は自然と大きくなる。

 なんか、青春っぽいな。

 大急ぎで駆け込んだ校門の向こうでは、生徒用玄関前で生徒指導の教師と、数名の遅刻者がいて特に喧嘩をするでもなく揃って本を読んでいた。この時間は朝読書の時間だから。

田内たうち、まーた遅刻か。いい加減にしろよ。」

 そうだ、田内だ。遅刻常習犯の田内。こんな顔だったわ。

「サーセンサーセン、明日こそは早起きしまーす」

「ったく……依田は珍しいな。本持ってるか?ないなら貸してやるぞ」

「あ、えーっと」

 エナメルバッグを漁り、本を探す。運良く小説が入っていた。懐かしいタイトルのそれに小さく笑い引っ張り出す。

「あります。大丈夫です」

「……そうか」

 不思議そうな顔で俺を見て数回まばたきをしたのは、生活指導でも指折りの緩さを誇る石野いしのは社会科の教師で、俺と田内のクラス担任でもある。

 はっきりとした顔立ちなのに坊主頭で、女子はよく「勿体無い」と言っていた。女子ウケのいい顔。つまりはイケメン。身長は平均より少し高いくらいで割とちゃんと筋肉があるらしいが、なぜだか腕の血管だけ異様に浮き出ている。女子はそれも好きらしい。

「依田、これなんて読むっけ」

「は?」

 本を読むふりをして石野の顔を横目に見ていると、田内に肘で小突かれた。

「これ」

 読み方の分からない漢字を指差しながら、田内は少しだけ眉根を寄せて俺を見る。

「またぐ、だな」

 難しいと言えばそうかもしれない漢字の読みを聞かれ答えて、一瞬「あれ?」と、考えた。

 中学の時、読めたっけ。いや、習っていないような気がする。

 田内は恐らく、「依田なら知ってそう」くらいで聞いてきた。本を読むし、分からないものは調べるから、ある程度学習範囲からはみ出した知識は持っているかもしれない。当時もその自覚はなかったし、今は平凡と思っているから余計分からなくなる。

 だが、待てよ。記憶がそのままなら、知識もそのままということか?分からなくもない。忘れてしまっては知識とはいえないから。学んだことを蓄え、理解し保持しているのが知識だ。

 詰まるところ、記憶も知識もそのまま、俺は中身はアラサーのオッサンのまま中学三年をやるということではないか。

 あれ?チートくさくね?

 と、思ったのも束の間。内心激しく首を振ってそれを打ち消す。

 いやいやいやいや、普通に考えて確かに有利かもしれないけど。そうかもしれないけどぶっちゃけ数学とか余弦とか言葉は分かるけど覚えてない。Q.E.D.が関の山。そこまで行くのもどうやっていたか覚えていない。え、逆に無理ゲーでは?

 深い溜息を吐き、落ち着くために手元の小説へと目を落とす。

 ありふれた探偵物だった。けれど、この作者はミステリを書き過ぎたからか、この小説の最後の章は捻くれていた。

 数名の探偵が出てきたかと思うと、その内の一人が死んだと言う。立ち居振る舞いや口調から主人公が死んだと思い読んでいると、そうではないとされていた。先入観があるから、「主人公は死なない」という固定概念があるから」とかなんとか。きっと疲れていたのだろう。

 ドラマなんかでやる時には見栄えが良くなりそうなシーンだった。確か実際にドラマになっていたと思う。人気俳優が探偵を演じていたし、小説自体も売れていたから人気が出たと思う。

 思う、と書いているのは俺はそれを見ていないから。

 昔からドラマはあまり見なかった。まぁ、女子は好きで良くみるだろうが、男子はバラエティを好む。話題になるようなものがないか、隣にいる田内なんかは毎日のように見ていると思う。

 俺はそうではない。

 親父がアレだ。同じ空間にいたくないあまり、リビングへはほとんど寄り付かず、この頃は親戚から古いノートパソコンを譲り受けたこともありそればかりに構っていた。父の仕事なりなんなりで必要だからかネットを使える環境だったのもあり、割と早くからネットの海にどっぷりだったような気がする。

 重いチャイムの音が鳴り響いた。

「よーし、教室行けよ。急げー」

 バタバタと玄関の中へと入り、靴を履き替える。

 憂鬱だった大嫌いな田舎町で過ごした中学時代。

 まずはここを変えるしかない。

 顔を上げて窓に反射した自分の顔を見て溜息を吐く。冴えない、パッとしない、華のない、印象の薄い顔がある。

(金貯めて整形しよ)

 この先の人生、ひとつやることが決まった。

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