大嫌いな片田舎にて目覚める
グラグラと揺れる視界。さっぱりとした空気と古いフローリングのにおい。激しく脈打つ心臓と、寝起き特有の閉塞感のある喉。
「藤吾!早く起きなさいね!」
フライパンの底を叩いているようなお袋の怒鳴り声。
「は」
混乱するには充分な状況だった。頭はオクタコアからデュアルコアに格下げしたのかと思う程処理速度が遅いし、もしかしたらCPUに問題があるのかもしれない。だって、これはもう何年も見ていない光景で、何年も聞いていない声で、逃げ出したくて堪らなかった場所なのだから。
「藤吾!」
「起きてる‼︎」
出した声が子どものようで、こんな声だったか、と一瞬またフリーズする。が、やはり時間が差し迫っているのは本当のようで、段々と急かされるままに身体が動き始めた。——意思とは関係なく。
バタバタと布団から抜け出したかと思うと、今度は古いタンスからインナーと靴下を引っ張り出して着ていたTシャツを脱ぎ捨てる。その全てに既視感があって、再び脳が混乱した。次に手にしたのは見飽きる程見た、二度と着たくないと思っていたグレーのスラックスで……嘘だろオイ。
スラックスに黒のベルトを通して、ヤバい、と口に出して振り返りスマホへ手を伸ばすと、——
「なんなんだよマジ!」
視線の先に転がっていたのはスマホではなくガラケーで、しかも昔々使っていた機種で間違いなかった。現実味が増していく。
転がるように階段を駆け降りて、古くて建て付けの悪いリビングのドアを思い切り開ける。
「起きたの?早く顔洗ってきて、ご飯冷めるから」
「間に合うのか?」
せかせかと台所で作業しながらお袋は俺に指示をして、暢気に新聞を読みながら親父は俺に問い掛ける。
「間に合う」
思わず出たのは溜息混じりの言葉で、親父はそれを鼻で笑う。
俺の嫌いな仕草だった。
——いや、待て。やはりそうだ。
現実味、ではなく“現実”だ。リビングの壁に吊るされたカレンダーには二〇一一年八月とあるし、お袋も親父も若過ぎる。久しぶりに顔を見たら「老けたな」というのが普通だろう?……だとしたら、そうだ。
成功したのだ。
口の中で言葉を転がした。出してしまえばきっとしつこく突かれる。
「藤吾、早く顔を洗ってきたらどうだ」
新聞越し、思春期真っ只中の俺の神経をチクチクと突くことをやめなかった親父は俺の悪夢だ。自尊心が膨れ上がり、それまで以上に他者に対して懐疑的で反抗的で内向的になった俺は、親父のオモチャになった気分だった。それほど執拗に俺を言葉や態度で貶めたのだ。
無言でリビングを出て、廊下の奥にある脱衣洗面所のドアを開ける。ひとりになると心が落ち着くのは、今も昔も変わらない。
途端、両手が震え出した。これは歓喜によるものだった。
成功した!そうだ、俺は今夢の中だ。だが、“現実”にいる。身体は眠っていて、意識だけ俺は過去にいる。二〇一一年といえば……丁度中三か?ここから人生をやり直せる。ミスをしなければ、あの医者のように目が覚めた時には彼女とか嫁とかセフレとか!そういった存在が俺にもいるということになる。
「ヤッバ……これブチ上がるわ」
ヒクヒクと頬が痙攣し、手汗が止まらない。
同時に緊張が押し寄せてきたのだ。
「ただ過去に戻っただけ。人格が変わったわけでもないのに、成功出来るのか……?」
と、頭の片隅にいる、まるで親父のように俺を嘲るオレがそう囁いたから。一気に不安に襲われて、緊張で指先が冷えてきた。
家の中はこんなにも暑いというのに……。
ドアの向こうから、再びお袋の声が聞こえた。呆れたような声色で、早くしろ、と俺を急かす。とりあえず準備をしなくては、とこれから始まる二度目の中学三年生に向けて気合を入れた。
立ち上がり、顔を洗おうと洗面台の蛇口を捻る。耳障りな高音が鳴って、静かに水が流れ出る。残暑のせいでまだ出てくる水はぬるいのだが、冷えた指先には丁度よく思えた。両手で水を掬い、ザバザバと顔を洗う。適当なタオルを取って顔を拭き、口を濯いで歯を磨く。少しだけ髪を整えて、冴えない顔をした自分に舌打ちを——しようとしてやめて、リビングへと戻った。
「パパッと食べちゃって!洗い物そのままでいいから」
ああ、忙しい、と言いながらお袋はスリッパの底をパタパタとフローリングにぶつけながら、俺と入れ替わりでリビングを出ていく。
ダイニングテーブルにはバターロールと目玉焼き、ウインナー、コーンスープが置かれていた。
「時間ねぇのに」
ボソッと呟けば、また鼻で笑うのが聞こえた。
「なら、早く起きたらいいだろう」
ああ、ホラ。だから嫌いなんだ。
「ソウデスネ」
と、あの頃していたのとは違う声色で「あー、ハイハイ。またですか」と顔に書いて言葉を返す。
当然、親父はそれに不快感を示す。
「……」
ジッ、と俺を見ているその人を無視するか悩み、少しだけ眉間に皺を寄せてからジロッと見返した。
「なに」
変声期の真っ只中。幼い声がぶっきらぼうに放たれて、それは親父の喉仏を暴れさせるには十分過ぎた。
「何様になったつもりだ?そんな偉そうな態度を取ってれるのか」
荒げられた声はひとつも怖くなかった。苛立つ要素はあれど、それよりも哀れみが勝り、苦笑が溢れる。
「親父さ、職場でそんな態度取ってんなら、その内訴えられるよ」
もう行くわ、と立ったまま少しばかり冷めて程良い温かさになったらしいコーンスープの入ったカップへと手を伸ばす。ズズッ、と啜り口の中いっぱいに広がった甘味と香りに頬を緩める。待ったまま飲み、台所のシンクへ到着するまでにからになったカップを置いた。
「出来損ないのくせに尤もらしいことを言うな!」
「出来損ないに論破されてんなよ、碌でなし。……お袋ー?俺行くわ」
ソファーの背もたれに置かれた畳まれたワイシャツに袖を通し、ボタンを掛ける。ダイニングテーブルの前で固く拳を握り、今にも振り上げそうな親父をそのままにリビングを出てる。と、玄関には大きなエナメルバッグが置かれていた。
「行ってくっからー」
と、決して「いってきます」と言わなかったくせに柄にもなく言ってみた。まぁ、悪くない。
「あ、行くのね。気を付けなさいよ」
見送りに来たお袋に、片手を上げることで答え外に出る。
達成感で手が震えた。
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