夢の始まりは見知らぬ部屋で

 依田藤吾は幾つかの書類にサインをしたあと、はたと気付いた。

「あの、入院費とかって……」

 至極現実的な問題であり、これから始まる臨床試験がどのくらいの日数を要するのか。それも定かではないことが、彼を不安にさせたのだ。

「ああ、ご心配なく。研究にご協力いただくという名目ですから、費用はいただきません。それに、場合によっては巨万の富を築いているかもしれませんよ?」

 ふふ、と笑って見せる老いた医者はその体験をした張本人で、言葉一つの重みが違う。事実かは誰も分からない。なぜなら、彼を取り巻く環境も、彼に関わってきた人々までも今の彼が本来のものであると認識しているからだ。証人はただ一人、医者本人しかいないのだ。

「これから鎮静剤を投与します。効き始めるまで大体1時間程度はかかりますから、その間に準備をしていきますね。」

 医者が説明をしながら器具を見せる。ゴチャゴチャとケーブルの繋がったそれはすっぽりと頭に被れる形になっていた。

「“リベンジ”の前に脳波を計測します。健康な人でも脳波が乱れていることは多いですから、まずは依田さんのデータを取らせてください。これを被って、横になっていただくだけです。ただ、接着部から専用のジェルが出るので、少しベタベタしてしまいますが……まぁ、終わったらシャワーをお使いいただいて構いませんから」

 リベンジとは、医者自身が体験した学生時代へと戻り人生のやり直したという“夢物語”のことである。

 依田藤吾は今も疑心暗鬼でそこにいる。証人はこの得体の知れない研究に心血をそそぐ医者のみであるし、彼自身の身の上話が嘘であるとも言い切れないからだ。

 だが、自身の抱えるコンプレックスや後悔を晴らせるとするのであれば--しかもそれが“臨床試験”という形で無料タダで行われるのであれば、もう全てが金の掛かる嘘でも構わないと思っていた。金が掛かろうとも、依田藤吾に請求は来ない、と先程確認が取れたから。

「後頭部と側頭部の調整が終わりました。こちらのベッドに一度腰掛けて、ゆっくり横になってください。」

 被験者は言われた通りに、抱いている疑念など噯にも出さず掛けていたちゃちな作りの椅子から立ち上がる。細いが大量に纏わりつくケーブルの重みが足を引っ張った。ゆっくりと身体を反転し、真っ白なシーツの敷かれたベッドへと腰掛け、依田藤吾は初めて壁と医者以外を見た。それと同時に己が眼を疑った。

 自身と同じように入院着を着た似通った年齢の男女が、なんと他に五人もいたのだ。

 少し騒がしいとは思っていた。あちらこちらで同じような説明をする男の声がするとも、ボソボソと話す女の声がするとも思っていた。だが、それは臨床試験に関わる医者や看護師のものだと依田藤吾は信じていた。

 医者に言われた通りゆっくりと身体を横たえた彼は緊張しながら口を開いた。

「あの、」

「どうかしましたか?」

 医者ではなく、見るからに真面目そうな看護師が返事をした。彼が緊張したのはこの為だった。彼女は作業の手を止めず、どうやらこれから被験者へと投与する鎮静剤の用意をしているらしい。綺麗な顔を微塵も崩さず手際よく輸液剤に薬剤を混ぜ、丁寧に管を接続している。

「俺だけじゃ、ないんですね」

「……ああ、そうですね。少し前から集めていたみたいですよ。詳しくは知りませんけど……意外と多いですよね」

 柔らかいが、どこか冷たさも漂う声に依田藤吾は萎縮した。彼はこの手の、所謂クールビューティーとか、美人と呼ばれる類の女性とはホトホト縁がなかったからだ。

 だから、こんなことを願ってしまう。

(ワンチャンねぇかな。)

 と。

「じゃあ、準備していきますね。」

「あ、ハイ」

 依田藤吾の淡い期待など拳でなくとも砕けてしまう鉄壁の美人看護師は、彼の左腕を柔く掴み日に焼けにくい内側を天井へと向けさせる。駆血帯で二の腕の半ば辺りを締め上げると、看護師は迷いなく肘窩に二指で触れた。フニフニと感触で血管の位置を確かめている。

「リラックスしていてくださいね」

 看護師の手が離れていった。依田藤吾は何かを期待していた訳ではないのだが、どうしようもない程の虚しさに襲われた。なにが悲しくてこんな思いをせねばならんのだ、と下唇を噛む。

「注射、苦手ですか?」

「え、ああ、はい。得意ではないです」

「すぐ終わりますからね」

 ひんやりと冷たい湿った脱脂綿が、先程看護師が触れていた辺りを這っている。それが離れれば更に冷えたが、依田藤吾は涼しい顔を繕った。内心では、うわっ刺される!、とビクビク怯えているというのに。

「少し痛みますねー」

 無感情な作業でしかないと知らしめる声。それに身を冷やされた。チクンと肌ではないところまで痛んだ。途端、サァーッと音を立てて血の気が引く気がした。そんな依田藤吾は鎮静剤を投与されている真っ最中である。

「お加減どうですか?」

「ダイジョブです」

 刺されたままサージカルテープで固定された針を見て、彼はひとつ安心をした。劇薬を投与されるかもしれないと不安がっていた内心を消し払い、暫し天井を見詰め深い呼吸を繰り返した。

《各ベッド、カーテンを閉めてください。》

 アナウンスが聞こえたかと思うと、シャッ!と勢いよくカーテンレールの擦れる音が部屋いっぱいに響いた。すると、今度は部屋を照らしていた照明も、開けられていた窓のブラインドも全て閉じられ仄暗い空間が生まれた。

《これから脳波の測定を行います。照明が点滅したり、音声に従っていただく場面もあります。具合が悪くなった方は遠慮なく看護師にお伝えください。寝てしまっても大丈夫です。それでは始めます。》

 アナウンスの声にどこか聞き覚えがあった。マイクを通し、様々なフィルタをかけられた上での声ではあるがなんとなく、依田藤吾にとっていい思い出のない声だった。

 電子音が響く。

《検査を始めます。音声にならって深呼吸をしてください。始めます。……吸ってー……吐いてー……吸ってー……——》

 無機質な女の声に従って依田藤吾は深呼吸を繰り返した。慣れている間隔とは違うそれに困惑しつつ、だが忠実に彼は行った。

 どのくらい経ったのか。彼はどうやらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。電子音は止まっているらしいし、医者や看護師達の声も聞こえない。

 ジリリリリリリリリリリリリ——

 と、けたたましい電子音が鳴り響いた。

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