第5話 イト

「おかえりなさいませ、旦那様」


 こうべを垂れ、ひざまずきながら自分を出迎える若い娘。

 彼女こそ、あの日英雄ひでおが命を救った人物であり、名をイトと言う。

 親の借金のかたに売られるも、実父のゆるされざる不逞ふていのせいで、危うく殺されかけたのだ。

 それを英雄が姿で救った後、あたかも通りすがったフリをして近づき、彼女を自分の下宿先へ紹介したのだ。

 もっとも、下宿先の女将も、その旦那も、人が良過ぎる程の人物だからこそできたことだが。


「おいおい、イトさんや。私のことは名で呼んでおくれと言っているだろう?」


 英雄が茶化すように言えば、イトは首を横に振り、静かに答える。


「いいえ。わたくしの命の恩人を、呼び捨てなどできません」


「歳も近いんだよ、イトさん? それに、ほら、勘違いされてしまったらどうするんだい? こう言っちゃなんだが身請けの話も来ているんだろう?」


 そう。出会った当初こそ、身なり汚いイトだったが、身綺麗にし少し整えただけで見違えるほどの美人になった。

 その上、たおやかな姿に惚れこんだ男は数知れず。

 何度も見合い話が来ているというのに、彼女はそれを断っているのが現状だ。

 

(最初は、私のあの姿を気にしてのことかと思っていたが……)


 英雄と視線が交わると、イトは頬を染めて熱に浮かされたような瞳で見つめてくる。

 さすがに、どんなに鈍い男でもわかるその態度に、英雄は悩んでいた。


(私は真実を追い、正義を貫く代弁者だ。だからこそ、そのに巻き込むわけにはいかんのだ。でも……)


 自分に好意をこれでもかと向けてくるイト。

 美しく、そして可憐な彼女を悪く思う者などいるだろうか?


(……恋心なんぞ、捨て去れれば良いものを……)


「旦那様? どこか具合でも悪いのですか?」


 心配そうに尋ねてくるイトに、つい見惚れてしまう。


「い、いや! 少し、その! 次の取材先について考えていたのさ! じゃあ、私は自室にいるから何かあったら呼ぶのだよ?」


 なんとかそれだけ伝えると、階段を駆け上がり、自室へ入り戸を閉める。

 そして、高鳴る胸を抑えながら静かに息を整える。


(おかしい。こんなはずでは……。ただ、あの娘に目撃者……遭遇した者として、証言してもらい、姿の私についての記事をが書くだけで良かったのに)


 そう。あの日の事をイトを利用して記事を書き、英雄は珍しく編集長から褒められ、認められ、書いた記事も飛ぶように売れたのだ。

 おかげで、収入も良くなり始め、うまく周り始めた感覚がしていたのだ。

 ――人生が。

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