鼻腔に残る君

 生の匂いがした。

 如雨露の先端からさあさあと雨のように降り注ぐ水で、満遍なく花壇のパンジーを濡らした。風に煽られ放物線から逸れた粒が、隣にしゃがみ込んだ棗の頬につく。

「水がかかるよ」

 そう言ってやっても、棗は水滴を乗せた花弁を摘んだり、茎を指でなぞったりして「柔らかい」と呟いた。

「生きてるからね」

「生きてるものは柔らかいのか?」

「そうだよ」

 棗は、君の体だって柔らかいだろう、と言った僕の足や如雨露を持つ手、立ち上がって、頬に触れてきた。「本当だ」僕より年上で、涼しげな顔はとても賢く見えるのに、棗は案外馬鹿だ。

 だから、この地獄でうまく立ち回れない。




「反省するまでそこにいなさい」

 大きな音を立てて扉が閉まった。あの人の背後から差し込んでいた光はあっという間に遮られ、物置は真っ暗になる。このまま日が暮れれば、気温は氷点下にまで下がるだろう。薄っぺらな部屋着一枚で放り込まれた僕は、耐えきれる自信がない。それでも、もうだめだと思っても、何度も乗り越えた。これからも乗り越えてみせるよ。だから一生冬が続けばいい。

「またなにかしたの」

「たいしたことじゃない」

「おまえ、もしかして僕に会いたくてここに来るんじゃないだろうね」

 棗は、雑多にものが散らばった物置の壁にもたれて、足を伸ばしている。僕は土や埃で汚れたキルトを引っ張って、彼のそばに這い寄った。隣に並んで、二人で包まるようにそれを広げる。腫れ上がった手が痛んだけれど、棗がこれ以上冷えないよう、丁寧にキルトをかけた。そうして棗の肩口に鼻先を擦り付けるように甘えて、眠ろうとまぶたを閉じる。

「生の匂いがする」

 棗の体は冷たく、肌も、目も、色がない。だけど、噎せ返るほど生き物の匂いがした。僕は棗の胸に耳を当てて、今度こそ眠りに落ちる。とても静かだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る