『殺していた本心と指切りげんまん』

 冬休みの最終日。僕と菜花さんは2人で四国八十八ヶ所の中で1番高い場所に建てられている寺に遅めの初詣に来ていた。

 厳密に言ってしまうなら、正月にそれぞれの家族で初詣に行っているので、これは初詣とは言えないのだが……この際そんなことはどうでもいいだろう。


「うわぁ……凄い数の石像だね……」


 菜花さんはここの寺の見所の一つである五百羅漢像を写真に撮りながら感嘆のため息を漏らす。

 僕たちが歩いている車一台分が通れるほどの広さの道路の両脇には、右手の握り拳を振り上げ怒り狂った顔をしている石像や、ひょうきんな顔で何かの踊りを踊っている石像など、様々な表情やポーズをとっている石像がずらりと並べられていた。


「どの石像も同じ表情のものは1つもないらしいよ」


「へぇ」


「彫刻した石工たちが自分の知り合いの表情をイメージして掘ったんじゃないかって言われているんだってさ」


「ほう」


 僕は父さんとのツーリングで一度ここに来たことがあり、その時に父さんから聞いた情報をそのまま菜花さんに話した。

 しかし、そんな僕の話はつまらないのか、それともただ単に目の前の五百羅漢像に夢中なのか、写真を撮り続ける菜花さんは上の空といった感じで生返事を繰り返すばかり。


「……あとで写真を見返した時に、同じ石像を撮ったはずなのに表情が違っていたり、ポーズが微妙に変わっていたりしていたら面白いのにな」


「や、やめてよ。どうしてそんな怖いこと言うの? それに何も面白くないんですけど!」


 そんなたわいもない会話をしながら五百羅漢像が並んでいた林道を抜け、本堂と大師堂にお参りをし、それからまた少し歩いて、僕たちは今日ここに来た1番の目的である山頂公園に訪れた。


「わぁ……綺麗な景色……」


 公園の広場に足を踏み入れた菜花さんはそう呟いて目を細めながら辺りを見渡す。

 その菜花さんの反応も頷けるほどの美しい景色が、僕たちの目の前には広がっていた。

 もともとこの場所はスキー場として栄えていたが、暖冬や遠い昔に流行った病の影響によって閉鎖してしまい、その跡地に作られたのがこの公園だ。

 公園の広場内には木琴の形をした椅子やピアノの鍵盤の柄を模した椅子などの様々な形をした椅子が置いてあり、未だに残されているチェアリフトの塔の左右両側には木材で作られたブランコが設置されている。

 標高900メートル以上というのもあり、左側のブランコの先には僕たちが今住んでいる町のシンボルとも言える製紙工場の煙突群がはっきりと見えていて、右側のブランコの先には菜花さんが中学まで過ごしていた町や深い青色に染まる瀬戸内海を一望することが出来た。


「ねぇ四葩君。どうせならブランコを漕ぎながら景色を見ようよ」


 興奮気味にそう言ってきた菜花さんの方を振り向くと、彼女は既にブランコを漕いでいて、楽しそうに笑っていた。

 たまたまタイミングが良く、公園内には僕と菜花さんの2人だけしか人がいなかったので、僕は周りの目を気にすることなく彼女の隣の空いているブランコに腰を下ろす。

 ブランコを漕ぐのなんていつぶりだろう?

 たぶん小学生の時に漕いだのが最後だったか?

 僕は木材の床を蹴り上げ、あとは勝手に揺れてくれるブランコに身を任せる。

 久々に漕いだブランコに幼い頃に戻ったかのような懐かしさに浸りながら、当時だと考えられない目の前に広がる絶景に感動しつつ、こんな景色を2人占めにしているこの時間はなんとも贅沢だと、僕は今の幸せをしみじみと噛みしめた。


「ねぇねぇ四葩君。四葩君がネット上で活動している作家名って何って言うの?」


「……また藪から棒に。こういう時ってさ、普通だったら目の前の美しい景色の感想を言い合ったりするもんなんじゃないかな?」


「どうせ綺麗だねとか美しいねぐらいの感想の言い合いにしかならないのは目に見えてるんだから、してもしなくても同じでしょ? そんなことよりも私の質問に答えてよ。四葩君ったらずっ〜とはぐらかしてばっかり!」


 そう言って菜花さんは膨れた面を僕に向ける。

 菜花さんが「ずっ〜とはぐらかしてばっかり」と先に言った通り、1週間ぐらい前から菜花さんは毎日1回は僕の作家名を聞いてきて、その度に僕は誤魔化したり適当なことを言ったりと話を逸らしてきた。

 今日は一段と酷く、行きのカブで走っている最中に1回、ここの寺に来るために乗ったロープウェイの中でも1回、そして今の1回と、今日だけで3回も聞いてきている。

 まだ集合して3時間と経っていないというのに、このままのペースで聞かれ続けられれば、帰るまでにあと数回も同じ質問をされることになるかもしれない……。


「綺麗とか美しいとか、それぐらいの語彙力しかないと思われているなら心外だな。これでも一応は小説を書いてるんだ。本当は心の中でもっと深いことを思っているけど、それを一々口に出して言ってたら長ったらしくてくどいから綺麗とか美しいって言葉でまとめているだけだよ」


「むっ。それじゃあその心の中で思っていることをそのまま言ってみてよ」


「そうだな…………緑の芝が生い茂る広場に設置されている木材のブランコというロケーションはまるでアルプスの草原を彷彿とさせ、目の前に浮かぶはっきりとした白の叢雲と深く濃い青空の鮮やかなコントラストは誰かの夢の景色を描いたみたいに美しく、眼下に見える町並みやどこまでも広がっているように見える瀬戸内海は小さな悩みなんて吹き飛ばしてくれるぐらいに壮大で、一目でこれだけの景色が全て詰め込まれているこの場所はなんて最高なんだろうか……ってな感じで」


「なんだか例えも表現も大袈裟な食レポみたいだね」


「……あーあっ、これだから綺麗とか美しいみたいな簡素な言葉だけでしか見た景色を表現出来ない人は。言っとくけど、僕がいつも簡素な言葉でしか表現してないのは菜花さんのためでもあるんだからな。四葩君はこんなにも表現力があるのにどうして私は……って負い目を感じさせないようにわざと語彙力がないように演じているだけであって」


「むむむっ……わ、私だってそういう感じのことその気になれば言えるし! ぐらでーしょんがなんちゃらとか、こんとらすとがどうのとか……っていうかまた話逸らしてる! そんなことよりも私は四葩君の作家名が知りたいのっ!」


 菜花さんはブランコから飛び降り、僕の前に立って威圧的な顔をぐいっと一気に近付けてきた。

 今回も上手いこと話を逸らすことが出来たと思ったが……1週間もお預けをくらい、とうとう我慢の限界がきてしまったらしい。


「どうしてそんなにも僕の作家名が知りたいんだよ?」


「そんなの四葩君の描く物語を読んでみたいからに決まっているでしょ! 四葩君の方こそどうしてそんなにも隠そうとするわけ? なんなの? 教えられないくらい恥ずかしい名前で活動しているの?」


「別に恥ずかしい名前ってわけではないけどさ」


「それじゃあ教えてよ」


「いや……名前は恥ずかしくないけど、小説を読まれるのに恥ずかしさがあるというか抵抗があるというか……」


「今さら何を言ってるの? 私は四葩君の書いた小説読んだことあるじゃん。なんなら10万文字! 原稿用紙250枚分も!」


「あれは菜花さんに読ませる前提で書いた小説だったし事実を元に書いたものだから読まれてもなんともなかったけど、ネットに上げている小説は知り合いには見せるつもりなんてなかったし妄想100パーセントだから読まれたくないんだよ。全てが妄想で書かれた小説ってことはそれって頭の中を覗かれるのと同じわけで、そんなの本当は人に知られるはずのないことであって、なら小説なんか書くなよって思われるかもだけど、それとこれとはまた話が違ってくるから――」


「あー! もう! ゴタゴタ訳の分からないこと言ってないで早く教えてよー!」


 菜花さんに僕がどうしても教えたくない気持ちを理解してもらうために、僕なりの一生懸命の説得を試みてみたが、そんなのはお構い無しと言わんばかりに菜花さんは僕が乗っているブランコの両紐を掴んで激しく揺らした。

 やっぱり1週間もはぐらかされ続けて、相当の鬱憤が蓄積されているのだろう。

 こうなってしまえば、菜花さんが諦めないことを僕は嫌というほど知っている。

 もしここで奇跡的に菜花さんを宥めることに成功してこの話を終わらせられたとしても、それはこの一時だけのその場凌ぎにしかならないだろうし、もしかしたら明日……いや、数十分後にはまた同じ質問を繰り返されるのを僕は分かっていた。

 周りに人がいる中でこの話を大声でされるよりは、僕たち以外の人がいない今の内にこの話の決着を付けた方が得策なのかもしれない。

 僕は観念して大きな……それはもう大きなため息を吐き、仕方なく菜花さんに作家名を教えてあげることにした。


「……しき」


「しき? って何の? 計算式とか季節の四季とか死ぬ時期とか色々あるけど……っていうかなんでいきなり? ……あーっ、さてはまた話を逸らして誤魔化そうとしているなぁ」


「はぁ……違うよ。さっきのが菜花さんがどうしても知りたがっていたこと。漢字は春夏秋冬を表す『四季』。それが僕の作家名」


 僕は投げやりな言い方をして、後頭部を掻きながら視線を少しだけ菜花さんの顔から外した。

 その僕の反応を見て、僕の話した作家名が嘘偽りの無い本当のことだと確信したのか、菜花さんは僕の視界の端で表情を明るく輝かせる。


「へぇ、そっかぁ。『四季』かぁ……良い名前だね」


 弾んだ声色でそう言った菜花さんのその言葉に嘘は無かった。

 『四季』というのは他の誰でもない僕自身が決めた作家名だけど、それは自分でもかなり気に入っており、菜花さんにも良い名前だと言ってもらえてほんの少しばかりこそばゆい気持ちになった。


「ところで、どうして『四季』なの?」


「自分の苗字に四って漢字があるのと、下の名前と同じ2文字読みなのと、四季って言葉が好きだった……からかな」


 その理由は菜花さんが期待していたよりもしょうもないものだったらしく、彼女の明るかった表情は一変し、曇った表情を浮かべながら「えー? 四葩君のことだからもっと深い意味のあるものだと思ったのにー」と不満げな声を上げた。

 さっきのはもし誰かに作家名の理由を尋ねられた時に、ちょっとした笑いが取れるように考えておいた冗談だったが……今後ああやって答えるのは控えておいた方が良さそうだ。

 あのふざけた冗談が本気だと菜花さんに思われるのはそれはそれで困るので、僕は本当の理由をすぐに答え直す。


「さっきのはちょっとした冗談だよ。本当の理由はちゃんと別にある。夏が好きだけど冬は嫌いだとか、秋は嫌いだけど春は好きだって言う人がいるだろ? 今は恋愛ものを主に書いているけど、昔はアクションやホラーも書いてたんだ。作風もジャンルも色々なものを書いてみたくてさ。春夏秋冬、どれかの季節が嫌いだと言う人もいれば好きだと言う人もいるように、この作品は嫌いだけどこの作品は好きだって言ってもらえるような作家になりたいと思ったから、だから僕は作家名を『四季』にしたんだ」


 そう言った瞬間、今までずっと心にかかっていた靄のようなものが、すっーと晴れた気がした。

 自分自身のことが嫌いな僕は誰かに『こういう人間になりたい』と語ったことなんてなかったし、なりたい自分なんて想像したことすらなかった。

 でも、菜花さんに作家としてどうありたいかを話すことにより、心の奥底で漠然と想っていた自分のなりたい作家像が、明確に固まったのを感じた。

 万人に認められる作品なんて作れなくてもいい。いや、そんなもんなんてどうせ自分には作れやしない。だけど、それでもせめて、誰か1人でもいいから好きだと言って貰えるような、そんな作品を作りたい。

 それが僕の小説に掛ける想いだった。

 思うだけなら自由なのだから、多くの人が感動して涙を流すようなそんな凄い小説を書いてやる、ぐらい思ったらいいのに、それさえ出来ない自信の無さが、どうしようもなく自分らしいと思った。

 『四季』という作家名の由来を話している時、そしてそれを話した後の僕はいったいどんな顔をしていたのだろう?

 菜花さんは僕のことをしばらくの間じっーと見つめて、そして――とても温かな微笑みを見せた。


「四葩君って意外と欲張りさんだよね」


 菜花さんのその言葉に、僕は首を傾げる。

 作風やジャンルも色々なものを書いてみたい、というのを菜花さんは欲張りだと思ったのだろうか? 

 そう思った。でも、それは違った。

 菜花さんの言葉には続きがあった。


「みんなに好かれたい、だなんてさ」


 菜花さんの言ったそれは僕が言った覚えのない言葉だった。

 菜花さんはいったい何を聞いて、どう解釈してそう思ったのか。

 その疑問を口に出そうとした瞬間、菜花さんが勘違いしてしまった理由になんとなく気付いて、聞くのを止めた。

 この作品は嫌いだけどこの作品は好きだって言ってもらえるような作家になりたい――さっき僕は『四季』の由来を説明している時に菜花さんにそう伝えた。

 万人に認められる作品を作れないとしても、一つ一つが誰かに認められる作品を作りたいというそれは、言い換えてみれば『多くの人に認められる作家になりたい』というのと同義だ。

 きっと菜花さんもそう捉えたのだろう。

 みんなに好かれたい――なんの取り柄もない僕が……そもそも自分のことが嫌いな僕がそれを求めるのは、なんとも身のほど知らずで、とても図々しい願いだ。

 僕は菜花さんのとんちんかんな勘違いを訂正しようと、みんなに好かれたいだなんて思っていないと、否定しようとした。でも、出来なかった。

 太陽の様に眩しい笑顔を見せる菜花さんに――気が付けば僕は「そうかもな」と答え、どうしてか僕も笑っていた。




 

 山頂公園をあとにして、ロープウェイを使って山を下りた僕たちは、僕のカブでそのままうどんが有名な隣県の国立公園のイルミネーションを見に来ていた。

 山間部に位置するこの国立公園は周囲に街灯がなく、数多の色彩が闇夜を豪華に彩っていた。

 沢山の人の流れに身を委ねながら、僕たちは幻想的な光の世界を進んで行く。

 正直に言うと、人が混雑しているところは苦手だった。でも、ここに不快感はなかった。

 幸せが形を成して闊歩している。そう思ってしまうくらいみんながみんな煌びやかに光るイルミネーションの輝きに負けないぐらいの様々な笑顔で、会話を交わし、イルミネーションを眺め、共に来た人との幸せな時間を満喫していた。

 公園内を一通り歩いた僕たちは、丘陵地になっていて公園内のイルミネーションを一望出来る位置に座り、イルミネーションを眺めながらたわいのない会話を交わしていた。

 オススメの小説は? 1番好きな小説家は? 1番笑った小説は? 1番感動した小説は? 心に残っているハッピーエンドは?

 ……今日の菜花さんはやたらと小説のことを会話に持ち出す。

 それがどうしてなのかを、僕はなんとなく分かっていた。

 僕の作家名を聞いた時、いや、僕の1番好きな小説を聞いてきたあの時からきっと、菜花さんは僕に聞きたいことがあった。

 だけど、僕はそれを聞かれたくなくて、そしてそれを菜花さんは理解してくれているから、菜花さんは決してそれを口には出さなかった。


「……」


 会話が途絶え、僕たちは黙ったままイルミネーションを眺めていた。

 公園の閉園時間が近付き人が少なくなった園内は、イルミネーションの光を遮るものが少なくなったことによってより輝かしさを増したが、そこにはなんとも言えない寂しさもあった。

 

「ねぇ、四葩君はさ……」


 そう話を切り出した菜花さんの声はいつもよりも低いトーンだった。

 イルミネーションから菜花さんの表情に目を向けると、菜花さんは真っ直ぐに透き通った瞳で僕のことを見つめていた。

 あまりにも眩しくて、目を背けたいと思ってしまうような、そういう瞳だった。

 その菜花さんの表情は一眼レフで写真を撮る時と同じで、真剣な顔をしていた。

 ……どうやら菜花さんは覚悟を決めてしまったらしい。

 僕がされたくない質問を、僕が傷つく質問を、菜花さんはしようとしている。

 耳を塞いでしまいたかった。――でも、塞がなかった。


「プロの小説家になりたいと思わないの?」


 ……それは僕が予想してた通りの質問だった。

 当然、僕の返す答えは決まっていた。


「思わないね。僕は自分の身の程を弁えてる。あの程度の小説しか書けない人間がプロの作家になれる訳がない」


 呼吸をするようにすらすらと言葉が出る。

 そこに感情なんてものは有りやしない。

 きっと表情もいつもと何も変わらない。

 それなのに……菜花さんはどうしてか悲しそうな表情を浮かべていた。


「実力があるかどうかは、なりたいかどうかとは別問題だよ」


 ……そんなのは綺麗事だ。大切なのは実力があるかどうかだ。

 なれる実力もないくせに目指してしまえば、ただ苦しい想いをするだけ。

 自分の首を自分で締め付ける行為と一緒だ。

 そんなの滑稽で、バカみたいじゃないか。

 ……そう思いはしながらも、菜花さんを傷つけたくなくて、口には出さなかった。


「それにさ、頑張って書いたものを自分で『あの程度』って言ったらダメだよ……。どうして四葩君は自分自身を傷つけるような言葉を言うの? 私……嫌だよ」


 ……優しい言葉に、自分の中の何かが崩れていくような音が聞こえる。

 でもさ……僕が言っていることは事実をただ口にしているだけなんだ。

 なにも自分を傷つけたいと思って、自分を傷つけているわけじゃない。

 本当に特別な人が自分に自信があるのは良いことだよ。でも、普通以下の人が自分に自信を持ってしまったら、それはただの自惚れじゃないか? 

 そもそも普通以下だと自覚のある人がどうやって自分に自信を持てばいいんだ? どこに自信を持てる部分がある? 分からない。教えてくれよ?

 ……そう思いはしながらも、菜花さんを困らせたくなくて、口には出さなかった。


「……分かった。そういうことはもう言わない。でも、プロの小説家になりたいとは思わないっていうのは本当なんだ。ほら、そういうのって職業としてやるのと趣味でやるのは全然違うって言うだろ? やっぱりこういうのは趣味としてお気楽に自由に活動していくのが――」


「嘘つき」


 僕は本当に思っていることを正直に話しているだけなのに、菜花さんは僕の言葉を遮りながらハッキリとそう言い切った。

 どうして菜花さんは、真っ直ぐな目をしてそんなことが言えるのだろう? 

 いくら仲が良くなったって、結局は他人事。

 正確な他人の気持ちなんて分かるわけが無い。

 ただ、分かった気になっているだけなのに……。


「……嘘なんかついてないよ」


「それも嘘。本当にそう思っているなら、どうしてそんなふうに苦しそうに笑っているの?」


 菜花さんのその指摘に、僕は思わず自分の口元を手で覆い隠す。

 ちゃんと笑えているつもりだった。いつもみたいに何でも無い表情が出来ているつもりだった。

 それにさっきまで僕が言っていたことは、全部本当に思っていることだ。

 嘘なんて本当に吐いていない。

 それなのにどうしてか……感情と表情が一致しなくなってきている。


「どうして四葩君は嘘をつくの? どうして四葩君は自分に自信がないの? どうして四葩君は自分のことが嫌いなの? 私、分からないよ。誰かに夢を笑われたの? 誰かに自分のことを馬鹿にされたの? 私、ちゃんと四葩君のことが知りたいよ。何も話してくれなきゃ分からないままだよ。だから……ちゃんと本音で話してよ」


 菜花さんの丸く大きな瞳に涙が浮かぶ。

 どうして、と言葉を連ねていた菜花さんと同じで、僕もどうして菜花さんがそんなにも僕のために一生懸命になっているのか分からなかった。

 ……いや、僕はきっと本当はそれがどうしてなのかを分かっている。

 さっきからずっと、心がゆらゆらと揺れている。


「ちゃんと本音で話してるって……。何度も何度も……同じこと言わせるなよ……」


 出した声は震えて掠れていた。

 言葉がつっかえつっかえになる。

 視界が狭くなったり広くなったりと定まらない。


「プロの小説家になりたいだなんて……そんなの…………」


 それを最後に、言葉はとうとう詰まった。

 あとは「思っていない」と言うだけなのに、言えなかった。

 ――ずっと自分の本心に嘘をついて誤魔化そうとしていた。

 『夢』を誰かに語るのが怖かった。

 その程度のレベルで? なんの取り柄もないお前が? なれる訳が無いだろ? 

 そんな誰に言われたわけでもない言葉が……自分の心を殺していた。

 まさに自分の首を自分で締め付ける行為に、滑稽だと思った。バカだとも思った。

 でも、全部全部、事実なんだ。

 他の誰でもない自分が、自分のことを1番よく理解している。

 読みづらい文章しか書けなくて、心に刺さるようなセリフも書けやしなくて、心を動かせるような物語も創れやしない。

 そんな僕がプロの小説家になりたいだなんて、そう思ってしまうことさえ傲慢だ。

 だけど……それでも僕は――


「なれるならさ……そりゃあなりたいよ……」


 そう殺していた本心を吐露した瞬間、菜花さんの表情とその奥に見えるイルミネーションの小さく点々とした光が、滲んでボヤけて大きくなった。

 僕は慌てて目元を拭う。

 しかし、それに意味は無くて、はっきりと映った菜花さんの顔はまたすぐに滲んでボヤけた。

 ……幼い頃は『夢』ってもっと前向きな気持ちで、キラキラと輝くような顔をして、語れるものだと思っていた。

 でも今の僕は、自分の心を痛め、涙を流しながら夢を語っている。

 身の丈に合っていない夢を持ってしまったら苦しいだけ。

 大人になればなるほど、自分の才能と実力に見切りをつけて夢を持てなくなる。

 そうやって何もかもを諦めてしまって、流されるままに生きた方がきっと楽だろう。

 分かってる。心の底からそう思っている。それなのに、このままで終わってしまいたくはないと、僕には何の才能も能力もないくせに、そんな葛藤を抱いている。

 別にさ、『特別』になりたいわけじゃないんだ。

 ただせめて、他の人と同じように『普通』になりたいだけなんだよ。

 『普通』になるために精一杯努力した。勉強も運動も頑張った。

 でも、どれも平均値にさえ届かなかった。

 勉強も運動も出来ない、それでも何か人に誇れるものがないのかと、一生懸命に探した。

 だけど、何をしても上手くいかなかった。

 みんなが当たり前のように出来ることが、どうして僕には出来ないんだろう?

 みんなには何かしらの才能や特技があるのに、どうして僕には何もないんだろう?

 どうして僕は……他の誰かみたいに、上手に生きられないんだろう?


「本当はプロの小説家になりたい。本当は自分が創ったもので誰かの心を動かしたい。本当は自分が創ったもので誰かを救いたい。本当は誰かに好かれるような人になりたい。そして……大嫌いな自分自身のことも、好きになりたい……」


 自分の心からの本音が一滴零れたのを皮切りに、堰き止めていた想いが一気に押し寄せて、もうどうしようも無かった。

 誰にも話せなかった本心が、涙と共に次々と口から溢れ出ていく。

 こんな話をしたところで、菜花さんを困らせてしまうことは分かっていた。

 僕の欲しいものは、誰かにねだっても手に入らない。

 僕のなりたいものは、誰かの力ではなく自分の力でどうにかするしかない。

 誰かに頼ることは出来ないから、だから独りで全部抱え込もうとした。

 だけど……もう限界だった。

 自分独りではどうしようもないことは分かっているのに、人に頼ったところで無意味で、それでも諦めきれなくて、何をどうすればいいか分からないこの現状に、涙がとめどなく溢れて止まらなかった。


「……やっと本当の気持ち話してくれたね。私もさ、四葩君に四葩君のこと好きになって欲しいし、プロの小説家になりたいという夢を叶えてほしいよ」


 その菜花さんの声は優しい音だった。

 菜花さんは僕に柔らかく微笑むと、一眼レフからメモリーカードを抜き取り、ポーチバッグから取り出した違うメモリーカードを一眼レフに差し込んだ。

 そして菜花さんは僕との距離を詰め、僕の右腕と彼女の左肩がそっと触れ合う。

 

「きっと四葩君は怒ってすぐに消せって言うから本当は見せる気なんてなかったんだけど……でも、今の四葩君に見てほしいものがあるの」


 菜花さんは一眼レフを操作し、一眼レフのモニターにはこれまで彼女が撮ってきた写真が次々と流れていく。

 それらのほとんどが、青空の下に広がるどこかの街並みや夕焼けの浜辺などの風景の写真だった。

 菜花さんは僕が怒ってすぐに消せって言うと言っていたが……風景の写真で僕が怒るってどういうことだろう?

 そう疑問に思いながら次々と切り替わっていく写真を眺めていると、これまでのものとは違った異質な写真が一眼レフのモニターに映し出された。

 菜花さんは視線を写真から僕に向ける。

 どうやらこの写真が、菜花さんが僕に見せたかった写真らしい。

 そこに写っていたのは――他の誰でもない僕だった。

 どこかのベンチに座り、左手で額を抑えながら右手に持っているスマホを眺める僕は、心を締め付けられたような苦しそうな顔で涙を流していた。

 いったいいつ? どこで撮られたものだろう? とまずはそう思ったが、僕の奥の背景に神社が見え、その写真が菜花さんと初めて会話した時に撮られたものだということに気付いた。

 菜花さんはあの時、スマホだけではなく一眼レフでも僕を撮っていたということだ。

 スマホの写真は僕の後ろ姿を撮ったものだったので僕がどんな表情をしているかは分からなかったが、書いていた小説の内容までもがはっきりと見える写真だった。

 一眼レフの写真はその逆で、僕が見ているスマホの画面には何が表示されているのかは分からないが、僕の表情がはっきりと見える写真だ。

 僕と菜花さん以外の人がこの写真を見せられても、どうして僕がこんなにも苦しそうな顔で泣いているのか分からないだろう。

 僕が小説を書きながら泣いていたことを、僕と菜花さんだけが知っている。

 僕は……こんな顔をして小説を書いていたんだな。

 初めて見る小説を書いている自分の姿は――余りにも醜くて、無様で、滑稽で、見るに耐えないもので……菜花さんがどうしてこんなものを僕に見せようと思ったのか、その意図が分からなかった。


「……我ながら酷い顔だな。別に怒りはしないけど……でも消して欲しい」


「消さないよ。それに私は酷い顔だなんて思わない。なんであれ、人が一生懸命に頑張る姿はかっこいいよ」


 ……顔をくしゃくしゃにしてボールを投げるピッチャー。顔中を滝のような汗でテカらせながら歌う歌手。寝不足で目の下に酷いクマを作りながらも、それでも奥さんや子どものために働くサラリーマン。それらの一生懸命に頑張る人々の姿がかっこいいと言うのなら分かる。

 でも、見せられている写真には、スマホを見ながら苦しそうな顔で泣いている男の姿しかなかった。

 こんな姿のどこにかっこいい要素があるんだろう?


「菜花さんが僕という人間を知っているから、一生懸命に頑張っていたことを知っていたから、そう思うだけだよ。この写真を僕のことを知らない人が見たところで、どうしてこの男の子は泣いているんだろう? って思われるだけ。この写真を見たところで僕が一生懸命に頑張っていたことが――」


「届くよ」


 届くわけが無いと言おうとしたのに、それを見越していた菜花さんの被せてきた言葉に、僕の口は閉ざされた。

 菜花さんはそのまま言葉を続ける。


「これは私が撮った写真で、私が好きな写真なんだもん。絶対に届くよ。四葩君のことを知らない人が見たって、この男の子は何かを一生懸命に頑張っているんだなぁって絶対に伝わるよ」


 感情の込められたその声は震えながらも確かな力強さがあった。

 菜花さんはただひたすらに真っ直ぐな目を僕に向けていた。

 菜花さんのその目は僕にはあまりにも眩し過ぎて、僕は逃げ場を探すようにイルミネーションの方に目を向ける。

 だけど、それは失敗だった。

 今の僕にとっては、夜の世界を煌びやかに彩るイルミネーションも、その中を歩く人々の幸せそうな顔も、どこもかしこが眩しくって、とうとう逃げ場を失った僕はもう何も見えないように自分の膝に顔を埋めた。


「菜花さんがそう言うなら、きっと届くんだろうな……でもさ、僕が一生懸命頑張っていたかどうかなんて読む人には関係ないだろ。適当に書いたものでも、それが面白ければいい。そこに心がこもっていなくたって、感動できるならそれでいい。僕が一生懸命だったとか、どんな想いで書いたとか、そんなの僕の小説を読む人には関係ないんだよ」


「関係あるよ。四葩君は適当に書いたものでも面白いものが創れると思ってるの? 心がこもってなくても人の心が動かせると思ってるの? 違うでしょ? 一生懸命悩んで、苦しんで、頑張って書いたからこそ面白いものが創れるじゃないの? 心がこもっているからこそ人の心を動かせるものが創れるんじゃないの?」


 責めるような口調でありながら、菜花さんのその声はとても優しくって、僕はすぐには彼女の言葉に反論出来なかった。

 一生懸命に頑張って、心を込めて創ったからこそ、良いものが出来る。そうであって欲しいと、僕も心の底ではそう思っていたからだ。

 でも――


「一生懸命に頑張ったって、心を込めて書いたって、絶対に良いものが創れるとは限らない……」

 

「……うん、そうだね。私の言ってることはたぶん綺麗事なんだと思うよ。でもね、四葩君は大丈夫。四葩君のことを何も知らなかった私が写真に残したいって思うほど、小説を書いていたあの時の四葩君はとても一生懸命で、すっごくかっこよかったんだもん。そんな四葩君が書いた小説は、きっと誰かの心に届くよ」


 ……菜花さんの温かい声が心に染み渡るように浸透していく。

 菜花さんが僕に掛けてくれる言葉は、底抜けの優しさであふれていた。


「きっと四葩君なら、プロの小説家になれるよ」


 それは慰めでも無ければ同情でも無い。

 菜花さんが本気でそう思ってくれているから言ってくれている言葉だって分かってる。

 いや、さっきの言葉だけじゃない。菜花さんが僕に言ってくれた言葉は全部全部、菜花さんが本当にそう思いながら言ってくれた言葉だ。

 菜花さんは僕のことを本気で信じてくれている。

 だからこそ――僕は辛くて苦しかった。


「いい加減なこと言うなよ……」


 何も見えない真っ暗闇の中で、ボソッと呟くように言葉がこぼれた。

 素直に「ありがとう」と言って菜花さんの言葉を受けとればいいのに、僕はまたいらないことを言おうとしている。

 夢を叶えようと一生懸命に努力すれば絶対に夢が叶うのなら、それなら全員が夢に向かって努力するだろう。

 だけど、この世界はそんなに甘くは出来ていなくて、人には限界値があって、自分の才能と実力に見切りをつけて、夢を諦めてしまう人は沢山いる。

 努力すれば夢が叶う。そんな綺麗事で生きていけるなら誰も苦しい思いなんてしない。

 だからこそ『夢』には価値があって、輝いて見えるんだ。

 そして、僕は知っている。

 普通以下の僕は、夢を叶えられない側の人間だということを、僕は知っている。


「プロの小説家になれる? 誰かの心に届いてる? じゃあなんで今の僕はこんなにも苦しい想いをしているんだよ? それが誰かの心に届いていない証拠だろ? 一生懸命頑張った? 心を込めて書いた? そんなもん誰かの心に届いていなかったら意味ないだろ!」


 言わないようにずっと我慢していた想いを、僕は心の奥底から叫んだ。

 菜花さんが見せてくれた写真も、かけてくれた優しい言葉の数々も、伝えたかったことも、本当にちゃんと僕の心には届いていた。

 だけど、それでもやっぱり僕は自分のことを信じてあげることが出来なかった。

 さっきのあの叫びは、そんなどうしようもない自分に対する嘆きのようなもの。

 ずっと下を向いたままで周りの状況が分からない中、隣から鼻を啜る音が聞こえた。

 菜花さんは今……どんな表情をしているのだろう……。

 そう不安になりながらも、菜花さんのこれまでの厚意を無下にした自分勝手な僕は、菜花さんの表情を見るのが怖くて顔を上げられなかった。

 ……あぁ、最低だ。

 こんな自分が嫌いで嫌いで堪らなかった。

 きっと菜花さんにも愛想を尽かされてしまったかもしれない。

 全部、全部、自業自得だ。

 全部、全部、僕が悪い。

 このまま暗闇に呑まれて自分という存在が無くなってしまえばいいのに。本気でそう思ってしまうほど、消えてしまいたかった。 


「こんな僕がプロの小説家に――」


 なれるわけがない――と、最後にそう言おうとした。

 でも、言えなかった。


「なれるよ!!」


 これまでに聞いたことのない菜花さんの荒々しい大声に遮られて、僕が出そうとしていた言葉は驚きで引っ込んだ。

 そして――


「ちゃんとこっち見て!」


 菜花さんに左右の頬を両手で挟まれ、僕は無理矢理彼女の方を向かされた。

 僕をキツく睨みつける菜花さんの両方の瞳からは涙が流れていた。

 でも、その菜花さんの表情は……彼女の瞳に映るボロボロな顔の僕とは違い、芯のある強い表情をしていた。


「四葩君が苦しい想いをしているのは、誰かの心に届くように四葩君が必死に足掻いているからなんじゃないの⁉︎ 苦しい想いをするのが嫌なら、悲しい想いをするのが嫌なら、小説を書くのなんて辞めたらいいじゃん! それでも四葩君が小説を書き続けているのは、小説を書くのが好きだからなんじゃないの⁉︎ 苦しくっても悲しくっても、それよりも優先したいことが四葩君にはあったからなんじゃないの⁉︎ それに誰かの心に届いたかどうかなんて、そんなの四葩君が決めることじゃないよ! 四葩君の書いた小説を読んだ私たちが決めることだよ! 私たちが感じた気持ちを! 心を! 四葩君が勝手に決めつけないでよ!」


 言い負けてたまるかって強い意志が、伝われという強い願いが、菜花さんの声には表れていた。

 そんな声で息をつく間も無くずっと叫び続けていたからか、全てを言い終えた菜花さんは息を切らして肩で大きく息をしている。

 僕はもう……何の言葉も出やしなかった。

 その代わりに枯れ果ててしまったと思っていた涙がどこからか湧き上がり、また瞳を濡らした。

 だけど、菜花さんの瞳に映る僕は――涙を流しながらも笑っていた。

 お前もそういう顔が出来たんだな、と思えるほど、それは自然体かつ柔らかな笑顔だった。

 壊れるわけが無いと思っていた強固な自己嫌悪で出来た壁がぼろぼろと崩れていく。

 自分の中の何かが、確かに変わっていく。

 菜花さんも僕の変化を感じとったのか、彼女もまた瞳から涙をこぼし、そして、緩やかに破顔した。


「四葩君の書いた小説で……心を動かされた人がここにいるよ」


 …………その言葉が、正真正銘、最後のとどめとなった。

 込み上げてくる熱い熱い感情に、心が震える。

 あぁ、全くもって卑怯だ。

 どうして菜花さんの笑顔は、こんなにも眩しくて、穏やかで、優しいのだろう。

 どうして大切な人に言われた言葉は、こうも温かいと感じるのだろう。

 きっと僕はこれからも、自分自身のことを信じてあげることが出来ないかもしれない。

 いつか信じることが出来たとしても、きっとそれは数年後とか数十年後とかの遠い未来の話しだ。

 けれど今だけは、自分自身を信じれない気持ちよりも、誰かを信じたいという気持ちの方が勝った。


「こんな僕でも……プロの小説家になれるかな……」


「うん。なれるよ。絶対になれる」


 それはなんの根拠のない言葉なのにどうしてか自信に満ち溢れていて、菜花さんがそう言うなら、きっとそうなんだろうなぁ、と思った。

 僕の書いた小説で菜花さんは『心を動かされた』と言ってくれた。きっと他の人にも、僕の書いた小説は届いている。だから、きっと、僕は大丈夫。

 ……あぁ、なるほど。コスモス畑で僕が菜花さんを励ました時、たぶん彼女も今の僕と同じ気持ちだったのかもしれない。

 僕は濡れた目元を拭う。

 それ以上、涙は出てこなかった。


「一緒に夢を叶えようね」


「……うん」


「約束だよ?」


「……うん。約束だ」


「口約束だと不安だから指切りしようよ」


 いつかの時と同じように、菜花さんは僕の目の前に小指を立てた拳を差し出した。

 ここで指切りをしてしまえばあの時と同じで、僕は『夢を一緒に叶える』という約束を守ることを菜花さんに強要されるのだろう。

 でも、僕にはもう迷いは無かった。

 僕は菜花さんの小指に自分の小指を絡ませる。


「「指切りげんまん――」」


 小さな子どもみたいに僕たちは声を合わせて静かに歌う。

 菜花さんは驚いた顔で僕を見たが、それは一瞬で、すぐに顔を綻ばせた。

 そんな菜花さんの反応を見て、僕も歌い続けながら笑顔を溢す。

 それを見た菜花さんは更に楽しそうに笑った。


「「――指きった」」


 歌い切った後、菜花さんはちょっぴり頬を赤に染めて「えへへっ」と照れくさそうに微笑む。


「指切りしたんだから、約束はちゃんと守ってよね」


「あぁ、守るよ。絶対に守る。どれだけ時間がかかっても、僕は必ず夢を叶えるよ」


 そう返しながら、自分らしくない言葉だと思った。

 それを聞いた菜花さんも僕からそんな言葉が出るとは思っていなかったのか、一瞬だけ目を丸くして、そして――声を上げて笑った。

 そんな菜花さんを見て、僕も声を上げて笑う。

 その2人の目からはまた涙が溢れていて――僕たちは泣きながら笑っていた。


 


 

 僕はずっとこんな幸せな時間が永遠に続くと思っていた。

 きっとそれは菜花さんも同じだったと思う。

 これから僕たちは大人になって、付き合って、夢を叶えて、結婚して、子どもが産まれて、家庭を持って――そんな不確定で朧げな未来を僕たちは信じていた。

 でも、やっぱり現実はそう甘くなんてなかった。

 3月の卒業式を控え、自由登校になった2月の上旬。菜花さんから突然電話がきた。

 「癌が再発した……」――と、菜花さんは啜り泣く声で、そう言った。

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