『始まりと多幸』

 冬休みの1日目。僕はユキカさんの家の前で菜花さんが出てくるのを待ちながら、青空に漂う雲が流れていくのをぼーっと眺めていた。

 今日は菜花さんと一緒にうどんが有名な隣県の水族館に行く予定だ。

 というのも、水族館に行こうと誘ったのは僕の方であって、当然それには理由があり、ネットに上げている小説で水族館に行く場面を書こうとしていて、それの参考に実際の水族館を見てみようと思ったのだが、どうせ1人で行くのなら2人で、と菜花さんを誘ったのだった。

 まぁ、長々とそう説明はしたもののそれはただの建前であって、これまでに菜花さんと出かけた場所は海だったり山だったりの風景を観に行くことが多かったので、カップルが行きそうな定番どころに菜花さんと行ってみたかった、というのが本当のところなんだけど……それにしても遅いな。

 そう思いながら僕はスマホで今の時刻を確認する。

 僕は待ち合わせの時間の10分前から到着していて、それからもうすでに25分もの時間が経過していた。

 今まで待ち合わせの時間に1度も遅れたことのなかった菜花さんが15分の遅刻をしている。

 一応数分前に菜花さんから【ごめん! 準備に手間取っているので遅れます!(>人<;)】とメッセージは届いていたが、いったい何の準備に時間が掛かっているのだろう?

 そんなことを考えていると、ガチャっと玄関の扉の開く音が聞こえた。


「お待たせしましたー……」


「おはよう。だいぶ準備に時間が掛かってたみたい……だけど…………」


 家から出てきた菜花さんの姿を見て、僕は言葉を失った。

 僕と出かける時、いつも菜花さんは紺のジーンズに無地のTシャツにマウンテンパーカといった男と変わらない服装をしていたのに、今日の菜花さんは淡いクリーム色のナロースカートに焦茶色のセーターの上から黒のチェスターコートを羽織っていて、女の子らしく可愛い格好をしていた。

 それでいて普段は付けていないヘアピンで髪を留めていて、おまけに化粧もしているのか、目元もうっすらと輝いている。

 いつもとは違い、どこか大人びて見える菜花さんの姿に僕が見入っていると、菜花さんは顔をかーっと赤くして僕から顔を逸らした。


「おっ、お、おおおぉ……」


「お?」


「おかしいよね⁈ 変だよね⁈ こんな格好私には似合わないよね⁈ 何背伸びしてんだーって感じだよね⁉︎ やっぱ着替えてくる! ――うわあっ⁈」


「きゃっ⁉︎」


 僕はまだ何も言っていないのに、菜花さんは好き勝手にわーわーと騒ぐだけ騒いでまた家に戻ろうとしたが、家から丁度出てきていたヒナタさんと勢いよくぶつかり2人は小さく悲鳴を上げた。


「いててて……あれ? どうしたの? 忘れ物?」


「四葩君がこの格好似合ってないって!」


「えー、嘘ー? すっごく似合ってて可愛いのに?」


 僕が言った覚えのない言葉を菜花さんはヒナタさんに向けて怒りをぶつけるように言い、それを信じたヒナタさんは冷ややかな視線を僕に向ける。


「いやいやいや⁉︎ 言ってないです!」


「でもそういう顔はしてた!」


 小動物のようにヒナタさんの後ろに隠れてしまった菜花さんは顔だけを出して、膨れた面で僕を睨んだ。


「それは菜花さんの勘違いだって。びっくりはしたけど似合ってないなんてこれっぽっちも思ってない。オシャレで可愛いし、同い年とは思えないぐらい大人びて見えるよ」


「と、四葩くんは言っているけど?」


「……本当?」


 おずおずとした態度で弱々しく僕に聞き返してきた菜花さんに、僕は「本当本当!」と信じてもらうために必死に頷く。

 ここまでしてやっと菜花さんは僕のことを信じてくれたのか、「えへへ」と嬉しそうに照れ笑いをしながらヒナタさんの背後から出てきた。

 ……さっきは想像してなかった菜花さんの服装にびっくりして、なんなら変な緊張感も抱いていたけど、どんな服装をしていても菜花さんはやっぱり菜花さんだった。

 馬子にも衣装とは、まさにこういう時に使う言葉なのかもしれない。


「それじゃあ行こっか。電車の時間に間に合わなかったら次の電車まで1時間も待たないとだから急がなくちゃね」


「誰かさんが遅れたせいでな」


「えー、どうしてそんな酷いこと言うのー?」


「そうだよ四葩くん。旭はすっごく頑張ったんだよ。昨日の昼にいきなり『オシャレな服を買いに行きたいから一緒に来て!』って私を呼び出すぐらい四葩くんのために必死だったんだから」


「おおおおおおおねぇちゃん⁈」


 ヒナタさんの突然の暴露に僕の隣にまで来ていた菜花さんはテンパりながら踵を返し、焦った様子でまたヒナタさんの元に駆け寄って行く。

 さっきのヒナタさんの話は僕からしてみればわざわざ菜花さんが今日のために服を買いに行ってくれたのが知れて嬉しかったけど……もし僕が菜花さん側の立場だったら、きっと彼女と全く同じ反応をしていただろう。


「四葩くんが気に入ってくれたみたいで私も頑張った甲斐があったよ〜。旭ったらいつも似たような格好しているから服を選び慣れていなくて、私と店員さんに全部任せっきりだったんだから。そのくせして選んだ服を試着する度に『この服私に似合ってますか?』とか『男の人ってこういう服好きですか?』って尋ねてきてそれはもう大変でさぁ」


「おねえちゃん!!」


 まだ続くヒナタさんの暴露話に菜花さんは怒りと恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら「わー! わー!」と大声を出してヒナタさんの話を遮ろうとする。

 しかし、そんな菜花さんの邪魔をヒナタさんは全く意に介していないのか、ヒナタさんの口は止まらず、菜花さんの抵抗も虚しくヒナタさんの話はちゃんと僕の耳に全て届いた。


「それにしても2人がこうしてまた出かけるぐらい仲直りしてくれたみたいで本当によかった。あの日四葩くんが家を出て行ったあとの旭といったらそれはもう凄い落ち込みようだったんだよ? 私のせいで2人の仲が壊れちゃったんじゃないかと心配で心配で……。旭と顔を合わせる度に『お姉ちゃんのせいだ!』って怒鳴ってくるし、もうこのまま一生妹から恨まれ続ける人生を送るのかと――」


「それなのにまたいらないこと言ってるよね⁉︎ あー! なんでお姉ちゃんに頼っちゃったんだろ⁉︎ 恥ずかしがらずに友達に頼れば良かったぁ! もう本当にお姉ちゃんなんて知らない! 四葩君行こっ!」


 もうヒナタさんを止めるのは無理だと菜花さんは諦めたのか、いつかの時と同じで菜花さんは僕の手を引いて強引に歩き始めた。

 「いってらっしゃーい」と手を振るヒナタさんに僕は手を振り返すが、菜花さんは無視してぐんぐんと進んで行く。

 ――だけど、あの日とは違い、僕たち3人の顔には笑顔が浮かんでいた。

 僕はそれを嬉しく思い、つい声を出して笑った。

 菜花さんもその僕の笑い声に釣られたのか、「ふふっ」と声を出して笑っていた。


 




 電車に揺られること1時間半。僕たちは水族館のある町で電車を降り、まずは近くにあったオムライス屋で昼食をとっていた。

 菜花さんはこのお店の1番人気と書かれていたビーフストロガノフのオムライスを口いっぱいに頬張り、頬を片手で撫でながら幸せそうにとろけた顔をしている。

 その菜花さんの反応は決して大袈裟とは言えず、僕も彼女と同じオムライスを食べていたが、ふわふわな卵に包まれた甘いケチャップライスと牛肉の旨味が溶け込んだビーフストロガノフが絶妙にマッチしていて、菜花さんの幸せそうな表情も納得出来るほどの美味しさだった。

 オムライスを堪能した僕たちはそのまま何処にも寄らずに水族館に向かった。

 水族館に到着すると土曜日というのもあってか、中は多くの人で賑わっていて、その内の大体が子ども連れの家族か若いカップルだった。


「わー! イルカさんだ! 四葩君、まずはあっちに行こ! あっち!」


 菜花さんは入り口近くに展示されているイルカを見つけると、そこに向かって一目散に走り出す。

 そこら辺を歩いている小学校低学年ぐらいの子どもよりもはしゃいでいる高校生に、他人のフリを決め込もうか一瞬だけ迷ったが、誘った手前そういう態度をとるわけもいかず、僕は仕方なく菜花さんのあとを追いかけ、巨大な水槽の目の前で輝いた目をしながらイルカを見つめている菜花さんの隣に並んだ。


「ねぇ、知ってる? イルカさんってすっごく賢いんだよ」


「知ってるよ。半球睡眠……だったっけ? 脳の半分を眠らせて、泳ぎながら寝ることも出来るんだよな」


「えぇ⁉︎ そんなことも出来るの⁉︎ 初耳! だったら、寝ていた半分の脳が起きた時に起きていた半分の脳を眠らせて、また寝ていた半分の脳が起きた時に起きていた半分の脳を眠らせてを繰り返せば永遠に起きたままでいられるじゃん。いいなぁ」


「いやぁ、それは流石に……ちゃんとした睡眠もとるみたいだし、半球睡眠はあくまで緊急事態に備えるためだけのもので、やっぱりしっかりと脳を休めることは大事なんじゃないかな。それに半分寝ているわけだし、寝ぼけたままで行動しているのと同じだから、ずっとそれだと人生を充分に楽しめないかもしれないよ?」


「むむむ……そう言われてみれば確かにそうかも……」


 そんな会話をしながら水槽の中で優雅に泳いでいるイルカをしばらく眺め、満足した僕たちは次のエリアに進む。


「うわっ⁈ 見て見て! このお魚さん地面の上を歩いてる! サイズも小さくて可愛い! でも……水から出ていて苦しくないのかなぁ?」


「あっ! このお魚さん頭にコブがある⁈ どこかでぶつけた……とか? ……え? もともとコブがあるお魚さん? し、知ってたし! ちょっとした冗談だし!」


「わぁ……このクラゲさん色々な色に光ってる! イルミネーションみたいで綺麗……」


 瀬戸内海エリアだろうと、太平洋エリアだろうと、どんなエリアに行っても菜花さんの興奮の熱は冷めることを知らなかった。

 初めて水族館に連れて来てもらった子どもみたいなテンションの菜花さんに、僕はもうデート中の彼氏だとかそういった浮かれた気持ちは一切なくて、喜ぶ子どもの姿を温かく見守る保護者の気持ちになっていた。


「四葩君、カニさんだよカニさん。このカニさんは足がすっごく長いから一杯でお腹いっぱいになりそうだね」


 今まで菜花さんが話す度に僕は笑いそうになっては堪えていたが、最後のそれがトドメとなって僕はとうとう声を出して笑ってしまった。

 僕のプライドの為に言っておくと、決して菜花さんが(たぶん無意識で)言ったギャグが面白くて笑った訳ではない。

 これに関してはたまたまタイミングが悪かっただけ。

 僕が笑ったのには全く別の理由があった。


「四葩君も面白いお魚さん見つけた?」


「あぁ、いや。そうじゃなくてだな」


「じゃあどうして笑ってるの?」


「菜花さんが魚とかカニとかを一々ご丁寧にさん付けで呼ぶから、可愛らしいなぁって思ってさ」


 そう笑いながら言ったのがいけなかったのか、菜花さんは僕の言葉を馬鹿にされていると捉えたらしく、不機嫌そうに頬を膨らませて僕から顔を逸らした。


「いや……言って無いですけど?」


「いやいや、言ってただろ。それも1回とか2回の話じゃなくて何回も。っていうか毎回」


「言ってないって!」


「何をそんなにムキになってんのさ。こっちは可愛いって言ってるんだから素直に認めたらいいだろ」


「やだ! そう言いながら四葩君は絶対に私のこと小馬鹿にしてるもん! 可愛いっていうのも小さい子どもみたいでって意味でしょ!」


「…………違いますけど?」


「合ってたやつじゃん! あー、もういいもん! どうせ私は子どもっぽいですよ! でも残念でした! もう絶対にさん付けでなんか呼ばないんだから!」


 すっかりヘソを曲げてしまった菜花さんは僕の前をどんどん進んでいく。

 しかし、その足は10歩と歩かないうちに止まり、菜花さんはとある水槽に輝いた眼差しを向けていた。

 その水槽に展示されている生き物はカクレクマノミだった。


「あっ! 四葩君このお魚さ……おさ、さか…………この魚!」


 菜花さんはさん付けをしないように意識しすぎるあまりに話したかった内容が飛んでしまったようで、カクレクマノミを指差して普通名詞を叫ぶだけ叫んだ彼女に僕は一際大きく声を上げて笑う。

 もしカクレクマノミにも心があるのなら、突然この魚呼ばわりされて、きっとびっくりしたに違いなかった。





 水族館の中をざっくり一通り観て周った後、菜花さんの「もう1周しよ! もう1周!」という強い要望により、僕たちは2周目の水族館を楽しんでいた。

 菜花さんは自然の風景を観に行くのが好きなので、水族館や動物園などのデートスポットの定番どころを楽しんでくれるかは不安だったが、想像以上に楽しんでくれているみたいで良かった。

 ……うん、それは良かったんだけど……僕はずっと気がかりなことが1つだけあった。


「写真、撮らなくていいの?」


 僕は菜花さんの首にぶら下げられている一眼レフを見ながら彼女に尋ねる。

 水族館に来てから菜花さんは1枚も写真を撮っていない訳ではなかったが、スタッフさんに頼んで撮ってもらった大きな水槽を背景に僕と菜花さんがツーショットで写っている写真1枚と、イルカやクラゲ等の生き物の写真を数枚しか撮っていなくて、その枚数はいつもの菜花さんと比べてかなり控えめだった。


「うん。今日はいいの」


 そう答えながら菜花さんは軽く笑みを溢し、視線を水槽から僕に移す。

 そして菜花さんは――花が咲くようにふわりと柔らかく笑った。


「ほら、私って写真を撮り始めるとそれだけに集中しちゃうからさ。今は四葩君と一緒にいるこの時間を大切にしたいなぁと思って。だから、今日はいいの」


 ……菜花さんのそれは僕にとっては強烈すぎる不意打ちだった。

 写真を撮ることは菜花さんにとって1番の趣味……いや、生きがいといっても過言ではないのに、それよりも僕との時間を大切にしたいと思ってくれている彼女に、僕は嬉しさやら恥ずかしさやらで感情がいっぱいいっぱいになってしまった。


「ふーん……そうなんだ」


 そんな訳の分からない強がった返事をしながら、僕は菜花さんから顔を逸らす。

 それが照れ隠しだということは菜花さんにはバレていたようで、彼女は勝ち誇ったような顔で「いひひ」と笑うと、僕の手を引いて次の水槽がある場所まで足を進めた。


「あっ! 見て見て! オオグソクムシさんだ! 大きいダンゴムシさんって感じで可愛い!」


 サッカーボールほどの大きさの水槽を覗き込みながらはしゃぐ菜花さんの隣から僕も水槽の中を見ると、そこにはパッと見ただけでも6匹以上のオオグソクムシが展示されていた。

 小さい水槽だから2、3匹しかいないのかと思っていたが、思っていた以上の多さと小さな水槽だからゆえにやけに大きく見えるオオグソクムシに、幼い頃に大きな石を持ち上げたその下に大量の虫がうじゃうじゃと蠢いていたのを見つけた時のトラウマが蘇り、僕は鼻の先が水槽に付きそうなぐらいの距離で観察している菜花さんよりも3歩ほど後ろに下がった。

 このオオグソクムシを菜花さんは可愛いと言っていたが、こんな茶色の大きなダンゴムシみたいなのが可愛いなんて……僕にはよく分からない。


「あれれ? もしかして、四葩君ってオオグソクムシさん苦手?」


「別に……違うけど」


「じゃあなんでそんなに離れてるの?」


「展示されている生き物だけじゃなくて水槽も含めて全体的に見るのが僕は好きなんだよ。それにその……本来ならここに展示されているオオグソクムシは深海にいる訳だろ? この水槽には水圧の調整とかされているのかなぁ、とかって考えてた」


「えー、何それ……。せっかく深い海の底から会いに来てくれているのに、ちゃんと見てあげないと可哀想だよ」


 ジトーとした目つきで僕を叱る菜花さんに、僕はついクスリと笑ってしまう。

 会いに来てくれたというよりは、無理矢理連れて来られたの方が表現としては合っている気がするけど……でも、そういった表現は菜花さんらしく、その菜花さんらしい温かい表現が僕は好きだと思った。





 水族館を満足するまで観て周った僕たちは水族館を出て、隣にある臨海公園に来ていた。

 この公園もまた、地元にある展望台と同じで恋人の聖地だった。

 水族館から出てここに来た人は僕たちの他にもいるようで、イルカやカワウソのぬいぐるみや水族館の物販の袋を持っている子連れの家族やカップルがちらほらといた。


「綺麗だね……」


 海辺の柵に寄りかかりながら菜花さんはそうポツリと呟く。

 僕たちの目の前に広がる瀬戸内海は夕陽の明かりでオレンジ色にキラキラと煌めいていて、少し離れた場所に見える本州から四国を繋いでいる大橋は夕暮れで茜色に染まっていた。

 それらの景色を浜風に髪をなびかせながら目を細めて眺める菜花さんの姿は、いつもとは違う大人びた格好と化粧をしているのもあってか、映画やドラマのワンシーンのような凛々しい美しさと儚さがあった。

 ……菜花さんはこの瞬間も『私も消えてしまえばいいのに』と思っているのだろうか?

 そんなことを考えていると、不意に菜花さんがこちらを向いた。

 琥珀色に輝いている丸い大きな瞳と目が合う。

 菜花さんはそのまましばらく僕のことをじーっと見つめてきて、そして――クスッと小さく笑った。


「私のこと好きなのは分かるけどさ、せっかく美しい景色が目の前に広がっているんだから、私だけを見てないでちゃんと見なよ」


 そう言ってすぐに菜花さんはまた目の前の景色に目を向ける。

 夕陽を眺める菜花さんの横顔がうっすらと赤に染まっているように見えるのは、きっと空の色のせいだけではなかった。


「……今もこのまま消えてしまえばいいのにって思ってる?」


「うん、思ってるよ。だって今、すっごく幸せだもん」


 菜花さんは夕陽を眺めたままそう答えて、「いひひ」と笑った。

 僕もまた夕陽に目を向ける。

 そうして僕たちは黙って、夕陽が沈むのを2人でずっと眺め続けた。

 夕陽が沈んだ後の薄明はとても幻想的で、この美しい景色に呑まれて私も消えてしまえばいいのに、といつかの菜花さんが言った言葉を思い出しながら僕もまた同じことを思った。


「ねぇ、四葩君の1番好きな小説教えてよ」


 日はすっかりと落ち、夜空にはいくつかの星が浮かんでいて、そろそろ帰ろうと僕が菜花さんの方を振り向いたのと菜花さんがそう質問してきたのはほぼ同時だった。

 何の脈絡もなく唐突に出された質問に「いきなりどうして?」と僕は素朴な疑問を投げかける。


「四葩君は私の小説を書くために私のことをいっぱい知ろうと努力してくれて、私のことをたくさん知ってるでしょ?」


「それは菜花さんだって同じだろ。初めて遊びに出かける前に僕の趣味だったり好きな食べ物だったり色々と質問してきたんだから僕のこと結構知ってるだろ。なんなら僕が主観の小説を読んでるんだから、内面的なこともかなり理解していると思うけど?」


「もう……そういうことじゃなくて、私が言いたいのは私の好きな景色だったり私の夢だったり、普通の友達だと知らないような特別なことを四葩君は知っているってこと! 私もね、四葩君の好きなものだったりとか夢だったりとか、そういった普通の友達じゃ知らない特別なことをた〜くさん知っていきたいと思ったの。もっとも〜っと四葩君と仲良くなりたいから」


 そう言って菜花さんは笑う。

 その笑顔は背後でライトアップされている大橋や隣の敷地にそびえ立つ黄金のタワーに負けないぐらい輝いていた。

 趣味や好きな食べ物、それに内面的なことを知っていて……というかそもそもの話、自身の小説を書かせている時点で普通の友達の範囲は超えているのでは? と、ここでその疑問を口にするのは野暮だと思ったので、さっきの菜花さんの1番好きな小説は何かという質問に僕は素直に答えることにした。


「僕が1番好きな小説は[――]だ」


 今でもたまに読み返すほど大好きな小説がある。その小説のタイトルを僕は菜花さんに伝えた。

 [――]は10年以上も前に発売された小説で、コミック化や映画化もされていなければ、ネットショッピングのレビューが数件しか付けられていなくて、しかもその評価が星3.2と微妙で、読み手を選ぶような小説だ。

 菜花さんどころか同じクラスの誰も……いや、校内の中でその小説を知っているのはきっと僕だけかもしれない。そう思わせるほど人の目に触れられていない小説。しかし、そんな僕の思いに反し、菜花さんが見せたリアクションは意外なものだった。


「へぇ、そうなんだ。私もその小説が読んできた小説の中で1番好きだよ」


 1番好きな食べ物を聞いたら偶然一致していたぐらいのテンションでそう言った菜花さんに、まず僕は彼女が[――]を知っていることに驚きながら、ある違和感を抱いた。

 多くの人が共感しやすいものがたまたま同じであることはあっても、好きな小説が同じことなんてそうそうあり得ることではない。

 ましてや以前、菜花さんは「漫画は読むけど小説はあまり読まない」と話していたが、そんな彼女とこれまで何百冊と小説を読んできた僕の1番好きな小説が同じだなんて、話が出来すぎているし、もしそれが本当なら奇跡としか言いようがないだろう。

 それに好きな物が一致した時の菜花さんといったらもっとこう……「ええっ⁈ 四葩君も[――]が好きなの⁈ 本当の本当に⁈ 実は私も!」みたいな感じで大袈裟なリアクションを取るはずなのに、まるで最初から僕の1番好きな小説が[――]であることを知っていたかのように、菜花さんはやけに落ち着いていた。

 でも、僕が菜花さんに好きな小説の話をした記憶は無いし、そもそも誰かとそういった話をしたことが1度も無い。

 もしかして菜花さんは――


「話を無理矢理合わせようと知ったかぶってる?」

 

「失礼な⁈ 本当に1番好きな小説だよ⁈ ヒロインのね『自分の人生の価値は他人に決められるものじゃなくて自分が決める』って考え方にすっごく憧れたし、主人公が亡くなったヒロインの夢を叶えようと決心するシーンなんてもうすっ〜ごくかっこいいよね! 『沢山の人に否定され続けたこの人生の全てを賭けてでも、僕は君の人生が正しかったことを証明してみせるよ』って主人公がヒロインのお墓の前で言うシーンは泣けたし、っていうか最後の方はもうずっと感動して泣いてたもん!」


「お、おぉ……ごめん、疑って悪かった……」


 主人公の台詞も覚えていて、もはや僕よりも[――]が好きなんじゃないかと思わせるほどの菜花さんのあまりの熱量に、僕は気圧されて数歩後ずさる。

 僕と1番好きな小説が同じだったのはどうやら本当に偶然の一致だったらしい。

 そんなことを思って菜花さんを見ていると、彼女の丸い大きな瞳に涙が浮かんでいるのに気付いた。

 ……まぁ、菜花さんがそうなっている理由は僕には凄く分かる。

 菜花さんは[――]の良いシーンを熱く語っている内に、読んでいた時の感動がぶり返されてしまったのだろう。

 かく言う僕も、菜花さんの話を聞きながら[――]の内容が脳内で蘇り、涙が込み上げていた。


「……もしかして四葩君が小説を書き始めたのって[――]がきっかけだったりするの?』


「なっ、えっ、はぁ?」


 不意に出された菜花さんの質問に僕の涙はすぐに引っ込み、僕はあからさまな動揺っぷりを披露してしまう。

 答えはもう言わなくても分かると思うが、菜花さんのその質問まさしく[――]は僕が小説を書くようになったきっかけをくれた小説だった。

 だけど――


「いや、違うけど……」


 色々と自分に恥ずかしい事情があって、僕は平然を装いながらそう否定した。


「えぇ、嘘だぁ」


「嘘じゃないけど……ちなみにどうしてそう思ったの?」


「だって主人公と四葩君って共通点がたくさんあるから」


「…………架空の人物と共通点があるだけであんなこと言われましても」


 そうは言いつつも、そりゃあそうなるか、と僕は菜花さんの言葉に納得してしまっていた。

 僕の1番好きな小説が[――]で、そして僕が小説を書いているとなれば、菜花さんが自ずとそういう思考に辿り着くのは無理のない話だった。

 なんせ菜花さんが先に言った通り、[――]の主人公と僕は共通点が多く、主人公は僕をモデルにされて書かれたんじゃないかと自分でも錯覚してしまうくらい、似ている部分があった。

 単刀直入に言ってしまうと、[――]の主人公はどうしようないくらいに普通以下だった。

 勉強も運動も出来ない。何の取り柄もない男。

 そんな普通以下の男が、亡くなった大切な人の為に小説を書いて奇跡を起こす物語。

 それが[――]という小説だった。


「……そういえば、どうして菜花さんは[――]を読もうと思ったの?」


 僕が小説を書くきっかけになった話をこれ以上広げないために、僕は疑問に感じていたことを菜花さんに質問する。

 僕は基本、小説を選ぶ時はタイトルやあらすじを見て決めていて、時折りカバーイラストに惹かれて買う時もあるが、小説をあまり読まない菜花さんはどういうきっかけがあって[――]を読むことになったのか気になっていた。


「高校1年生の時にね、放課後の教室に1人残って小説を読んでいる男の子がいたの」


 高校1年……ってことは、僕と菜花さんが初めてクラスが一緒になったのは3年からだから、その男の子は僕ではないだろう。

 自分がいるクラス以外のことは興味が無いのであまり知ろうとしてこなかったけど、このご時世に僕以外にも教室で1人で本を読んでいる根暗な生徒がいるなんて……ぜひ友達になってみたいものだ。


「その人が読んでいたのが[――]って訳か」


「うん、そういうこと。でも、その男の子は普通に小説を読んでいた訳じゃなくて、読みながら泣いたんだ。だから私その小説がどんな本なのか気になって、帰りに本屋さんに行って買ったの」


「凄い行動力だな。どんな本かも分からないのに、図書室や図書館で借りるわけではなく、いきなり買いに行くなんて……」


「それぐらい泣いている男の子に強い衝撃と影響を受けたんだよ。それに読んだ[――]も凄い衝撃的だった。なんで私は今までこの本に出会わずに生きてきたんだろうって本気で思ったくらいに。気付いたら時間も忘れてしまうぐらい没頭していて、1回読み終わったのにすぐに2回目3回目って読み直して……それでね、私、教室で泣いていた男の子と話してみたいなぁって思ったの。この小説で泣いてたってことは私と共感出来るところがたくさんあるかもしれないし、なにより『私とこの本を出会わせてくれてありがとう』って伝えたかった」


 ……そう語る菜花さんの表情は夕陽を眺めながら『私も消えてしまえばいいのに』と言った時と同じ表情をしていた。

 その菜花さんの瞳に僕は映っているが、きっと彼女の頭に浮かんでいるのは違う男の顔だ。

 それがどうにも堪らなく悔しくって、つい数分前までは友達になってみたいと思っていた顔も知らない男に、僕は少しだけ……本当に少しだけだけど、嫉妬していた。


「ふぅん。それで? その人とは話せたの?」


「うん。話せたよ」


 そう言って笑う菜花さんの顔は今日1番の最高の笑顔だった。

 それは今日の僕との思い出の数々よりも、どこの誰かも分からない男と話せた思い出の方が幸せだったことを表していて、僕の胸はズキンと傷んだ。


「そして、今も話してる」


「…………え?」


 突然の菜花さんの意味不明な発言に僕の頭は疑問符で埋め尽くされた。

 そんな僕を置いてけぼりに、菜花さんはうっすらと瞳に涙を滲ませながら微笑む。


「ありがとう。私と[――]を出会わせてくれて」


 菜花さんが礼の言葉を口にしたその時になって、やっと僕は菜花さんの話していた男が自分自身であったことに気付いた。

 そういえば菜花さんは1度も同じクラスの男の子とは言ってなかったっけ。

 てっきり僕は菜花さんと同じクラスの男子生徒だとばかり決めつけていて、菜花さんが僕のいるクラスの前を通りがかった際に偶然泣いている僕を見かけたという可能性を考えていなかった。


「……なんだよ。ちゃんとした理由あるじゃないか。名前に惹かれたっていうのはやっぱりデタラメだったんだろ?」


「それも本当だよ。でもね、仲良くなってみたいなぁって思った最初のきっかけはやっぱり[――]だった」


「それじゃあ一昨日聞いた時にその話をしてくれたら良かったのに……。あの時はなんでしてくれなかったんだよ」


「だって恥ずかしいじゃん。話してみたいって思い始めて、2年が経ってやっと話かけることが出来たなんてさ」


 そう照れ笑いを浮かべ、菜花さんは空を見上げる。

 「でも、今日こうやって話せてよかった……」としみじみとした声で言った菜花さんに続いて、僕も彼女と一緒に空を仰いだ。

 公園内の外灯、大橋や黄金のタワーのライトアップなどの光量がある中で見た夜空は、いつもよりも星の数が少なかった。


「見て見て。お星様が笑ってるよ」


 空を指差す菜花さんには冗談ではなく本当にそう見えているのか、その彼女の表情は笑顔だったがその瞳の奥には揺らぎのない確かな意志があった。

 僕も菜花さんが指差している先の空を目を凝らして見ては見るものの、そこに浮かんでいるいくつかの星はどれも笑っているようには見えない。

 けれど、菜花さんがお星様が笑っていると言ったから、きっとお星様は笑っていたのだろう。

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